砂糖と戦術
シメールとシャルの寮室は今、まるで砂糖菓子を溶かし込んだような甘い空気に満ちていた。
今日はささやかな内輪の集まりだ。
部外者はいない。いるのはシャル、シメール、私、そしてリアンドラの四人だけ。
人数こそ少ないが、テーブルの上には宴会でも始まりそうなほどの色とりどりの料理が所狭しと並んでいる。
「はい、お待たせしました! これがラスト、焼きたて特製クッキーです!」
エプロン姿のシャルが、まるで手品のようにキッチンから湯気の立つ皿を運んでくる。
その瞬間。
いつもはどこか冷ややかな光を宿すリアンドラの灰青色の瞳が、まん丸に見開かれた。
「……クッキー!」
隠しきれない驚きと喜び。
その無防備な反応を見て、シャルの口元が緩む。それはもう、幼子を見守る慈母のような微笑みだった。
「お気に召したなら、たくさん食べてくださいね。遠慮はいりませんから」
シャルは甲斐甲斐しく皿の位置を調整し、芳醇なバターの香りを漂わせるその山を、リアンドラの手元へと押しやった。
* * *
サクサクと軽やかな音が響く平和な光景の片隅で。
ソファに深く沈み込んだシメールだけが、珍しく困惑と不安を顔に張り付かせていた。
手にしたティーカップは、もう随分長いこと口をつけられずにいる。
「……私を選んで、本当に良かったのか? シミア」
私は紅茶をソーサーに戻し、迷いなく頷いた。
「ああ。あらゆる可能性を検討したが、シメール以上の適任者はいない……もちろん、どうしても嫌だと言うなら、あるいは無理だと感じるなら――私のコネを使って別の仕事を紹介することもできるが?」
シメールの肩が、びくりと震えた。
信頼は、時に重圧となる。
彼女は自分自身を客観視できる人間だ。だからこそ理解しているのだろう。それが名誉であると同時に、多くの命を背負う重責であることを。
「……だが、私には軍を率いた経験なんて皆無だ。六十騎もの騎兵だぞ? それだけの命を預かるなんて……正直、自信がない」
「シメールなら大丈夫だ。お前には才能がある。経験がない? そんなものは、これから学べばいい」
顔を上げたシメールの視線が、私の瞳と交差する。
そこに一切の疑念がないことを読み取ったのだろう。
「抽象的でわかりにくいなら、一つ実例を見せようか。今後、実戦の基礎となる兵種連携の技術だ……興味はあるか?」
『技術』という単語に、シメールの背筋が反射的に伸びた。
迷いの霧が晴れ、その瞳に剣士としての鋭い光が戻る。
「無論だ! 是非、教授願いたい!」
「いい返事だ……ではまず、騎兵隊の指揮官として覚えておいてほしい。お前の手駒は主に『弓騎兵』と『槍騎兵』で構成される」
私は鞄から手帳を取り出し、白紙のページを開いた。
羽ペンを走らせ、弓と槍を表す略記号をサラサラと描き込む。
「弓騎兵の役割は、遠距離からの嫌がらせ(ハラスメント)と誘導だ。これからの戦いでは、まず彼らを先行させ、敵の堅固な防御陣形を『指名』して削り取らせる」
紙の上に、黒点で構成された敵の整然たる方陣を描く。
続いて、その周囲を取り囲むように、変則的な弧を描く矢印を書き加えた。
「無傷の陣形に対し、痛くはないが無視もできない攻撃を絶え間なく浴びせ続けるんだ。兵士の心理的防壁は揺らぎ、怒りが理性を食いつぶす……もし彼らが、鬱陶しい弓兵を排除しようと陣を崩して追撃に出てくれば――そこが好機だ」
「なるほど……馬の機動力を活かした『引き撃ち』か」
シメールは図面を睨みながら、顎に手を当てた。
「敵を怒らせて釣り出すなんて、あまり褒められた手段ではないようにも聞こえるが……勝利のためには必要なこと、か」
「逆だよ、シメール。これこそがもっとも『正々堂々』たる正攻法だ」
私が微笑むと、シメールは驚いたように目を瞬かせた。
「我々の弓に対し、敵が危機感を抱き、堪えきれずに攻撃を選択したとする。それは彼らが自ら『守り』の利点を捨てたということだ。わざわざ首を伸ばして斬られに来てくれる敵を討つ……それは、彼ら自身が選んだ結末だろう?」 「……なるほど。弓で敵に『誤った判断』を強いる、ということか」
納得しかけたシメールの脳裏に、すぐさま新たな疑問が浮かんだようだ。
「だが、敵も同様に騎兵を出して追撃してきたらどうする? 弓騎兵が追いつかれれば危険なのでは?」
私の口角が、自然と吊り上がった。
その問いこそ、私が待っていたものだ。
紙の上。弓騎兵の撤退ルートに、敵を深部へと誘い込む矢印を描き足す。
直後――鋭利な刃物のような軌跡を、戦場の横腹へと叩き込むように走らせた。
それは、槍騎兵の一撃。
「その時こそ、槍騎兵の独壇場だ」
ペン先を、紙面に強く押し付ける。
「弓騎兵を下がらせ、敵歩兵の支援が届かない距離まで敵騎兵を釣り出す(プル)。そして、敵が『獲物に追いつける』と油断し、不用意に伸びきったその瞬間――側面に伏せておいた槍騎兵で、横っ腹を食い破るんだ」
単純明快な理屈と、視覚化された戦術図。
シメールの目の前で、戦場の霧が晴れていく。
「そうか……! これが、シミアの言う『連携』か!」
「ああ。だがこれは基礎中の基礎に過ぎない。慣れてくれば、ここに魔法騎兵という変数を組み込むことになる。その時は私が指揮者となって、お前たちに演奏すべき楽章を指示しよう」
* * *
硝煙の匂いが漂うような戦術講義の傍らで。
甘いクッキーが、リアンドラの口の中でほろりと溶けていた。
本来なら至福のティータイムであるはずなのに。
テーブルに広げられた戦術図を見つめるリアンドラの瞳には、いつの間にか暗い影が差していた。
「リアンドラ様?」
シャルの敏锐な声に、リアンドラは弾かれたように顔を上げた。
慌てて瞳の奥の感情を塗り隠す。
「え……あ、はい。と、とても美味しいです」
その僅かな狼狽を、シャルは別の意味で受け取ったようだった。
彼女の眼差しが、ひときわ優しく細められる。
きっと、未来の争いを案じているのだと誤解したのだ。
「心配なさらないでください、リアンドラ様。シミア様のお力は、皆を守るためのものですから」
一点の曇りもない瞳で貴族の令嬢を見つめ、シャルはきっぱりと、けれど温かく告げた。
「シメール様や私だけではありません。きっと、貴女のこともお守りします……シミア様は今、そのための準備をなさっているのですから」
「……そうですか……そう、ですね」
リアンドラは無理やり作った笑みを貼り付け、小さく頷いた。
だがその仮面の下で。
彼女の心に吹き荒れる嵐は収まるどころか、より激しく、冷たく渦を巻き始めていた。




