苦渋の決断
王立図書館には、濃厚で優雅な紅茶の香りが満ちていた。
正午の強烈な日差しが巨大なガラスドームを透過し、屈折して、一階のホールに虹のような光の輪を落としている。光の柱の中を塵がゆっくりと舞い、この静謐な空間だけ時間の流れが遅くなっているかのようだ。
コーナは執務机の横に立ち、処理を終えた貴族からの陳情書を几帳面に分類し終えると、ふぅ、と小さく息を吐いた。
だが、午後の紅茶のように芳醇な静寂は、ほんの一瞬しか続かなかった。
――ドンドンドンッ!
無作法な、戦太鼓のようなノックの音が、室内の調和を粉々に打ち砕く。
コーナの眉がピクリと跳ねた。
ミリエルの側近として、彼女は知っている。この時間帯、よほどの事態でない限り、衛兵が王立図書館の扉をこのように叩くことは許されない。
彼女は早足で入り口へ向かい、重い扉を開け放った。
そこには、汗まみれの伝令兵が片膝をついていた。
彼が捧げ持っているのは、封蝋に真紅の漆が使われた書状。
コーナがそれを受け取り、裏面を確認した瞬間――そこに押された「特級緊急事態」を示す黒い茨の紋章を見て――彼女の顔から血の気が引いた。
* * *
「……つまり、ついにこの日が来てしまった、ということね」
ミリエルはティーカップを置いた。
繊細なボーンチャイナの中で、透き通った琥珀色の液体が不安げな波紋を広げ、少女の凝重な表情を映し出している。
テーブルの上には、その手紙が置かれていた。まるで、今にも喉笛に食らいつこうとする猛獣のように。
差出人は、南方農業領において未だ王室に忠誠を誓うとある家門。
内容は、二日前に南方を牛耳るミグ・ヴラド公爵が、全領主に向けて発した檄文についてだった。
そこに書かれていた大義名分は――『尊王討奸』。
その四文字が、呪いのように突き刺さる。
誰の目にも、ヴラド公爵が反乱軍の首魁であることは明らかだ。だが、あの老獪な狸は狡猾にも「君側の奸を払う」という旗印を掲げたのだ。
女王は悪しき取り巻きに目を曇らされている。その元凶を排除し、王室を清めるのだ、と。
そして、その排除すべき「奸臣」として名指しされたのは――学院で頭角を現し始めたばかりの、女王の懐刀。シミア・ブルンだった。
「厳しい戦いになるわ」
ミリエルは立ち上がり、椅子の背もたれを無意識に撫でながら、低く呟く。
「こちらの兵力は、ヴラド公爵が動かせる連合軍より遥かに少ない。国庫の空虚さを考えれば、持久戦も不可能。勝つには、短期決戦しかない」
「ならば、やはりシミア様しかおりません、ミリエル様」
コーナの声は震えていたが、その響きは断固としていた。今の王都で、「奇跡」を起こせる将は彼女一人しかいない。
本来なら、それはシミアに対するこれ以上ない信頼の証だ。だがミリエルは、眉間の皺を一層深く刻んだだけだった。
「コーナ、分かっていないわ……それこそが、ヴラドの最も陰湿な狙いなのよ」
ミリエルが振り返る。銀色の長髪が、日差しの中で寂しげな弧を描く。
「奴は意図的にシミアを標的に据えたの。もし私たちがシミアを派遣すれば、それこそ奴の『君側の奸』という言い掛かりを事実だと認めることになる。日和見を決め込んでいた中立派の領主たちも、シミアが軍権を握ったと知れば、『新興の権力者』への恐怖と政治バランスへの懸念から、こぞってヴラド側になびくでしょうね」
完璧な詰み(チェックメイト)だ。
勝利の唯一の希望はシミアだ。だがシミアを出せば、敵の結束を固め、シミア自身を「世界中の敵」にしてしまう。
かといって出さなければ? 座して死を待つのみ。
「それでも……シミア様にお願いするしかありません」
コーナは俯き、唇を噛み締めながら、残酷な結論を口にした。
「この国で、彼女の知略の他に、腐った状況を覆せる魔法を使える人間はいないのですから」
「…………」
ミリエルは答えなかった。
窓辺に歩み寄り、眼下に広がるサマンの花畑を見下ろす。風に揺れる紫色の花弁は、息を呑むほど美しいが、触れれば散ってしまいそうなほど脆い。
コーナの言う通りだ。これは伸るか反るかの大博打。
シミアが勝てば辛勝。負ければ、ミリエルは王位だけでなく、この異世界における唯一の……よすがを失う。
ふと、記憶が蘇る。
病室で、シミアとチェス盤を挟んだあの日。
「未来の軍神」との、初めての頭脳戦。
(あの時……私は、ほんの僅差で負けただけだった)
その思考が、雑草のように脳内で繁殖する。ミリエルは窓枠を強く掴んだ。指の節が白くなる。
私は転生者だ。あちらの世界で無数の戦争ゲームをプレイし、数多の戦史を暗記してきた。この遅れた世界でなら、もしかしたら私だって……
「ねえ、コーナ……私が親征する(でる)というのは、どうかしら?」
部屋の空気が凍りついた。
コーナがバッと顔を上げる。その目は限界まで見開かれ、狂人の戯言を聞いたかのように恐怖に染まっていた。
「いけません! 絶対に、なりません! ミリエル様!」
コーナは悲鳴に近い声を上げた。
「ミリエル様はこの国の君主であり、最後の希望の柱なのです! 万が一にも貴女に何かあれば、ローレンス王国は終わりです!」
コーナの恐慌は冷水となって、ミリエルの心に灯った小さな野心の火を瞬時に消し止めた。
理性の回帰は迅速で、そして残酷だった。
ミリエルは苦々しく目を閉じる。
そう、何を考えていたのだろう。
あの病室での対局。シミア相手に善戦できたのは、前世で積み上げた「ゲームの経験則」と「定石」があったからに過ぎない。自分はあくまで、戦争ゲームという箱庭の中の「熟練プレイヤー」なのだ。
だがシミアは違う。あの少女が見せたのは、ルールを超越し、無から有を生み出す「本物の天賦の才」だ。
現実の戦場にはセーブポイントもなければ、「待った」もない。敵の思考ルーチン(AI)も決まっていない。
もし自分が指揮を執れば、ヴラドのような古狸を相手に、三日と持たずに全滅させられるだろう。
「もしかしたら……私にもシミアと同じくらいの才能があって、ただ発揮する機会がなかっただけかも、なんてね」
ミリエルは自嘲気味に呟いた。それは溜息よりも軽い音だった。
だが口にした瞬間、「無力感」という名の猛毒が五臓六腑に染み渡っていく。
女王として彼女にできること。それは、最も大切な友人を、九死に一生の火中へと突き落とすことだけだった。
「再考をお願いします、ミリエル様……!」
コーナの声が涙で潤む。
ミリエルは振り返った。憂色に沈む腹心を見つめ、その顔に、完璧で、けれど硝子細工のように脆い仮面を貼り付ける。
彼女は小さく頷いた。
「ええ。分かったわ」
だが、迷っていられる時間は、もう残りわずかだった。




