剣の音色、心の共鳴
校舎を出たシミアは、ふと足を止め、三階の軍事戦略室の窓を見上げた。
古い石造りの校舎に午後の日差しが反射し、眩しく輝いている。
三人が去った後、あの教室の扉は重く閉ざされたはずだ。先ほどそこで交わされた会話――王国の未来を変えるかもしれない密約は、光の粒子の中に封印され、当事者以外は誰も知らない秘密となった。
シミアは胸に手を当てる。心臓の鼓動が、まだ痛いほど早い。
自分の夢見たプランが採用された。その巨大な喜びが胸を満たしている。
だが、喜びの波が引くと同時に、すぐさま見覚えのある粘着質な恐怖が、黒い岩礁のように姿を現した。
まるで雲の上を歩いているようだ。いつ誰かに突き落とされ、「全部冗談だよ」と笑われるのではないか。そんな不安が付きまとう。
(まさか、クラウディア先輩たちが第一案にあっさり同意してくれるなんて……。正直、あれは交渉のアンカーとして提示した「不可能な選択肢」だったのに)
喜悦の余韻が消えるや否や、「疑心」という名の毒が広がり始める。
脳内で、二つの相反する声が激しい論戦を繰り広げていた。
一つは、氷のように冷徹な声。黒いボディスーツを纏ったもう一人の自分が、理性の鎌を振りかざして耳元で囁く。
『目を覚ませ、シミア。彼らは大貴族だぞ? どうして没落した平民のお前を無条件で支援する? お前の才能を利用し、使い捨ての駒にするつもりなんだ。利用されているのにはしゃぐなんて、頭がどうかしちゃったんじゃないか?』
もう一つは、微かで温かい声。天使の羽を持つ自分が、震えながらも必死に反論する。
『違う……そんなことない! シメールを思い出して。みんなを思い出して。彼らはこれまで何度も、損得なしで助けてくれたじゃない。邪念があるなんて思えない。仲間を信じなさいよ!』
『仲間? 馬鹿を言うな。この世で永遠なのは利益だけだ』
『いいえ! 私は彼らを信じる!』
脳内で火花を散らす葛藤に、シミアは目眩を覚えた。
だが、どちらが正しいにせよ、私軍の設立は決定事項だ。
武力が生まれる。ならば、その中核となるシメールへの報告は最優先事項だ。
足は自然と動き出し、シミアはキャンパスを横切り、シメールの寮の裏手にある小さな林へと向かっていた。
寮に近いベンチでは、放課後の平民科の女子生徒たちが質素なピクニックを楽しんでいた。
課題の多さに疲れた顔をしていながらも、安いお菓子を分け合う彼女たちの間には、ささやかな幸福感が満ちている。
その眩しさが、今のシミアには刺さるように痛かった。
脳裏に、ある光景がフラッシュバックする。
かつて、ただシャルを守りたい一心で、シメールに剣の稽古をねだった日々。シメールは敗北という苦い現実を通して、シミアに戦略という道を指し示してくれた。
(あんな風に純粋に信じ合い、相手を思いやる関係……常に頭の中で計算ばかりしている私が、望んでいいものなのかな?)
「光」に満ちたその場所から、逃げ出そうと踵を返しかけた時だった。
「ハァッ――!!」
森の奥から、空気を切り裂くような鋭い気合が響いてきた。
それは雷鳴のように、シミアの脳内にへばりついていた粘着質な自己嫌悪を粉砕した。
音に導かれるように、シミアは磁石に引かれる鉄屑となって、森の深部へと足を踏み入れる。
木漏れ日がまだら模様を描く林間の空き地。
そこにシメールがいた。一心不乱に、素振りを繰り返している。
シミアの目に、二人が出会った頃の情景が重なる。
そこには家門の重圧も、複雑な利害関係もない。ただひたすらに、陽光の下で剣を振るう一人の少女がいるだけだ。
金色の髪から汗が滴り落ちる。
彼女が振るう長剣が風を断ち、澄んだ、長い余韻を残す音を奏でた。
――ヒュンッ。
その剣の音色は、一粒の小石となってシミアの記憶の湖面に落ち、波紋を広げた。
時空が重なる。
シミアは運命に翻弄される前の、ただの幼い子供に戻っていた。実家の庭で、父の稽古を見上げていたあの日へ。
剣鳴が響く。父が踏み込み、鋭い一撃を放つ。
幼いシミアは駆け寄り、父の足にしがみついてねだった。「ねえパパ、今の綺麗な音、なぁに?」
『シミア、覚えておきなさい』
父の大きく無骨な手が、頭を優しく撫でる。その声は低く、厳かだった。
『剣鳴とは、剣士が全身全霊を没入させた証だ。一切の雑念を捨て、魂を完全に剣に預けた者だけが、剣からの返事を聞くことができるんだ』
雑念を……捨てる。
シミアは、汗まみれで剣を振るうシメールを見つめる。
そこには計算も、駆け引きも、未来への恐怖すらない。
ただ強くなりたい。大切な人を守りたい。その純粋な祈りのために、彼女は剣を振っている。
鼻の奥がツンと痛む。
シミアは無意識に後ずさり、木の陰に隠れようとした。
羞恥。
身の置き所のないほどの恥ずかしさが、全身を焼き尽くす。
シメールはただ自然体で、未来には力が必要だと教えてくれただけなのに。自分ときたら、そんな親友の真心を、「利益交換」だの「利用」だのという卑しい物差しで測ろうとしていた。
(私、何を考えてたんだろう……)
(こんな心が薄汚れた私が、あんな気高い騎士に忠誠を誓われる資格なんて、あるわけない)
ギリ、と奥歯を噛みしめ、シミアは俯き、立ち去ろうとした。
その時。
温かく、力強い手が肩に置かれた。
「シミア? 来てたなら、声をかけてくれればいいのに」
シミアの体が硬直する。
恐る恐る振り返ると、すぐ目の前にシメールの顔があった。
汗だくになっても、その笑顔は真夏の太陽のように爽やかだ。吸い込まれそうなほど澄んだ碧眼に、シミアのみっともない姿が映っている。だがその瞳には、一点の曇りも疑いもなかった。
「あ、その……私……」
シミアは慌てて視線を逸らす。
「練習の邪魔をしちゃ悪いと思って」
嘘ではない。だが、自分の卑しさを悟られたくないという罪悪感こそが、この聖域から逃げ出したかった本当の理由だ。
シメールはそんなシミアの葛藤になど気づかない様子で――いや、その全てを直感的な優しさで包み込むように笑った。
「馬鹿だな。邪魔なわけないだろう」
シメールは躊躇なくシミアの手を取った。硬い剣ダコのある掌から、頼もしい体温が伝わってくる。
「ずっと心配していたんだ。最近、自分を追い詰めすぎてるんじゃないかって。……行こう、部屋へ。お前が来たって知ったら、シャルが飛び上がって喜ぶぞ」
その瞬間、シミアは唐突に理解した。
この半年以上の時間。数え切れないほどの苦難を共に乗り越えてきた日々。
いつの間にか、シメールとの関係は、単なる友人や盟友といった枠組みを超えていたのだと。
それは、「家族」と呼ばれる絆だ。
彼女は背を向け、溢れそうになる涙を堪えながら、眩しい背中についていく。
そして、小さく、けれど確かな声で答えた。
「……うん」




