薔薇色の投資
切り揃えられたばかりのピンクゴールドのショートヘアが空を切り、アイリスと冷ややかな香水が混じり合った複雑な残り香を漂わせる。
その香りの主、クラウディア・ローゼンは、軽やかかつ正確な足取りで廊下を曲がり、主のいない教室へと足を踏み入れた。
「クラウディア」
部屋で待ち構えていたライナス・エルドは、その姿を見るなり椅子から弾かれたように立ち上がった。普段の余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)とした態度はどこへやら、今の彼には微かな狼狽が見て取れる。
「あら。私より気が早い人がいたみたいね」
クラウディアはスミレ色の瞳を細め、ライナスの居心地の悪そうな様子をじっくりと観察する。その口元には、玩具を見つけた猫のような、危険な笑みが浮かんでいた。
「口では『ただの政治同盟だ』なんて言っておいて、誰よりも早く来てるじゃない。ライナス坊ちゃん」
「ぼ、僕は当然心配なんだよ」
ライナスはばつが悪そうに眼鏡の位置を直したが、その声色は誠実だった。
「シミアは僕の後輩であり、不可欠な盟友だ。あんな風に追い詰めてしまったんだ、万が一彼女が……」
「……」
無防備に心配を口にするライナスの間抜け面を見て、クラウディアの顔から興ざめしたように嘲笑が消えた。
「フン」
彼女は鼻を鳴らし、巨大な砂盤へと歩み寄る。中立勢力を示す灰色の駒を摘み上げ、指先で器用に弄んだ。
「その情熱的な愛の告白、あのあどけない後輩ちゃんにも聞かせてあげたいものだわ。もしかしたら感動して、コロッと落ちるかもしれないわよ?」
「クラウディア。それが不可能なことは、僕たち二人が一番よく知っているだろう」
ライナスは苦笑して首を振り、窓の外へと視線を逃がした。
「彼女は今頃……歴史の授業中かな」
教室に短い沈黙が降りる。聞こえるのは、クラウディアの指先で駒が回るカチ、カチという硬質な音だけ。
「本題に入りましょう」
唐突に、クラウディアは指の動きを止めた。
手にした駒を、砂盤の「南方農業領」のエリアに、ダンッ、と強く叩きつける。
「今朝、ヴラドの古狸が、わざわざ使者を寄越してローゼン家の門を叩いたわ」
ライナスの表情が一瞬で引き締まる。彼はゆっくりとクラウディアの傍へ歩み寄り、声を潜めた。
「提示額は?」
「ハッ、聞くだけ野暮よ」
クラウディアはつまらなそうに吐き捨てた。
「手垢のついた絵空事だわ。『ローゼン家が中立を保てば、事成った暁には、抵抗しなかった近隣領土を折半しよう』ですって」
ライナスは顎に手を当て、推論を巡らせる。
「……ふむ。ヴラド側には、そこまで切迫感がないように聞こえるな。そんなありきたりな懐柔策でお茶を濁すということは、まだ余力があるというアピールか?」
「いいえ、ライナス。逆よ」
クラウディアが振り返る。
スミレ色の瞳の奥で、人の心を見透かす冷徹な光が明滅した。ライナスの背筋が粟立つ。
「切迫しているからこそ、ヴラド家はそれ以上の値を付けられないのよ」
「どういうことだ?」
「考えてもみなさい。もし彼らが本当に勝利を確信しているなら、なぜ核心的な利権を餌にしないの? 王都の通商権とか、辺境の鉱山採掘権とか」
クラウディアはほっそりとした人差し指を伸ばし、ライナスの胸元をトン、と突いた。
「出せないのよ……いいえ、もっと正確に言えば。彼らはすでに、本当に魅力的なチップを『第三者』への担保として差し出してしまっている。今のヴラドは、中身をくり抜かれたギャンブラーよ。私たちのような『潜在的な同盟者』を釣るには、カスカスの残り物しか残っていないの」
ライナスは目を見開いた。得心がいった顔だ。
「つまり……値を吊り上げすぎれば、バックにいる『大口の出資者』の存在を、僕たちに勘付かれると踏んだのか」
「ビンゴ」
クラウディアはパチンと指を鳴らし、満足げに微笑んだ。
「だから、今の情勢は想像以上に危険よ。あの古狸は悪魔に魂を売った。今こそが未来を選ぶ(ベットする)最高のタイミング。少しでも躊躇えば、骨の髄までしゃぶり尽くされるわ」
彼女は口元を隠して、気怠げな猫のように小さく欠伸をした。そして、何でもないことのように話題を変える。
「ところで。その頼みの綱……私たちの可愛い後輩ちゃんについてだけど、今日はどうするつもり?」
思考するまでもなく、ライナスは胸の中で何度も反芻した「最も合理的」な答えを口にした。
「もし彼女が僕たちの条件を呑めないなら、協力はできない。クラウディア、それが最低ラインだ」
「……本気で言ってる?」
クラウディアは眉を片方だけ上げ、予想通りではあるが、少しがっかりしたという顔をした。
「私は賛成できないわね、ライナス。『対等な取引』とは言うけれど、誰が見たって、今回シミアが支払うコストの方が高いわ。彼女が差し出すのは安全、名誉、そして未来そのものよ」
「だが、僕たちは政治的同盟だぞ、クラウディア!」
ライナスは語気を強めた。
「政治において、対等な地位でなければ関係は長続きしない。もし最初から無償で奉仕すれば、彼女は依存するようになる。最悪の場合……僕たちの価値を軽んじるようになる」
「ほら、そこよ。それがあなたの最大の欠点」
クラウディアは溜息をつき、出来の悪い弟を見るような目で彼を見た。
「私たちは政治同盟を組むんじゃない。ベンチャー投資をするのよ」
彼女は窓辺に歩み寄り、遠くの校舎――黒髪の少女が今まさにペンを走らせているであろう場所を見つめた。
「シミアの現状は、確かにボロボロよ。でも、あなたも私も知っているはず。それは一時的なものに過ぎない。あの子は泥にまみれた原石だわ。いつか必ず輝く。……そして、その時が来たら」
クラウディアが振り返る。その視線はナイフのように鋭い。
「彼女には、私たちよりもっと良い選択肢が手元に配られることになる。もし私たちが今、目先の小銭にこだわって恩を売るのを惜しめば……彼女が真に飛躍した時、私たちは地べたから彼女を見上げることになるわ。『あなたは近視眼的だ』って、いつも言ってるでしょう?」
キーンコーン――。
その時、二人の張り詰めた空気を破るように、終業のベルが鳴り響いた。
二人は示し合わせたように、教室の扉へと視線を向ける。
「とにかく」
クラウディアはスカートの裾を正し、いつもの高慢な令嬢の仮面を被り直した。そして、最後の通牒を突きつける。
「もし彼女が本当にあの条件を拒むようなら、私が譲歩するわ」
「譲歩? 君らしくないな」
「譲歩じゃないわ。追加投資よ」
言い捨てて、クラウディアは振り返りもせずに入り口へと向かう。残されたのは、その颯爽とした背中だけ。
「……参ったな。いいだろう、クラウディア」
ライナスは苦笑し、砂盤の上に置かれたクラウディアの駒を指で弾いて倒した。憑き物が落ちたような、晴れやかな笑みだった。
「幼い頃から、君の目利きが外れたことは一度もないからね。今回も……君に乗るよ」
シミア不在の、短い「ハーフタイム」は終わった。
真の三者同盟会議の幕が、今まさに上がろうとしていた。




