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夕暮れの涙、そして覚悟の味

夕陽が、空を惨烈なほどの茜色に焼き尽くしている。

その光はシミアの瞳に映り込むが、眼底に沈殿した疲労を照らすことはない。普段は輝く炎の髪飾りも、濁った暮色の中では燃え尽きた灰のようにくすんで見えた。


広い中庭を抜け、シミアは機械仕掛けの人形のように足を運び、領主学院の寮へと向かう。

扉を開けた瞬間、空気が凍りついた。

廊下で談笑していた貴族の生徒たちが、彼女の姿を認めた途端、ミュートボタンを押されたように静まり返る。

次いで向けられるのは、隠そうともしない忌避と疎外の視線。

隅の方で、羽虫のような囁き声が湧く。


「……見て、あの『罰を受けた子』よ」

「女王陛下の寵愛を受けているとか……」

「関わらない方がいいわ。女王は彼女を利用しているだけよ。ああいう手合いは危険だわ……」


数ヶ月の学園生活で、鈍感な貴族子弟たちも気づいていた。シミア・ブルンは特権を持ちながらも、極めて危険な異物イレギュラーであると。

『女王の寵臣』という肩書きは、確かに堅固な鎧として表立ったトラブルを防いでくれる。だが同時に、それは彼女を「仲間」という輪から完全に隔絶させていた。入学当初の軽蔑よりも、この「触れてはならない腫れ物」扱いされる孤立の方が、よほど骨身に沁みる。

むしろ、すれ違う銀潮連邦の留学生たちの方が、礼儀正しく、好奇心を含んだ視線を向けてくるだけマシだった。この冷たい貴族学院において、異邦人である彼らの方がよほど「人間味」がある。


その時、あの声が……骨に絡みつくようなあの声が、脳裏で響いた。


『ほら見ろ、シミア』


心臓の鼓動に重なるように、悪意に満ちた嘲笑が響く。


『そろそろ認めたらどうだ? どれだけ努力しても、どれだけ「同盟」とやらを作っても、お前の本質はずっと独りぼっちだ』

『お前の能力は孤独から生まれた。お前の結末もまた……孤独がお似合いだ』


「……うるさい」


シミアは強く首を振り、声を振り払おうとする。だが、溺れる者が海水を払おうとするようなもので、徒労に過ぎない。思考すればするほど、疑念は水草のように伸びて心臓に絡みつく。


(ライナス先輩も、クラウディア先輩も……本当に私を盟友だと思っているのかな?)


二人の笑顔が脳裏に浮かぶが、ひどく遠く感じられる。「利益」という名の冷たく硬い壁が、彼らとの間に横たわっているようだ。


(もし私に価値がなくなったら……利益を生み出せなくなったら……彼らはまだ私の隣にいてくれる?)


二階へ続く石段を上る足が、鉛のように重い。


(シメールだって……あの日、苦悩していたけれど……私を利用すれば家の問題を簡単に解決できると思っていたんじゃないか? 私は……ただの便利な道具なのかな?)


気づけば、自室の前に立っていた。

磨き上げられたドアの塗装が鏡のように、今の彼女の姿を映し出す。

顔色は蒼白、瞳は虚ろ。まるで荒野で迷子になった無力な子供だ。

シミアは深呼吸して表情を作り、ノブを握って扉を押し開けた。


ギィ――。


扉が開いた瞬間。

濃厚で、温かく、どこか懐かしい香りが、暴力的なまでに鼻腔へと雪崩れ込んできた。

シチューの醇乎じゅんこたる香り、焼きたてパンの小麦の匂い。――「家」の匂いだ。


「シミア様? お帰りなさいませ」


部屋の中央には小さな折りたたみテーブルが広げられ、そこには過分なほどのご馳走が並んでいる。

シャルがテーブルの脇に正座し、バスケットから温かいおしぼりを取り出したところだった。シミアの姿を見て、心配そうだった顔が、一瞬で陰りのない笑顔に変わる。


「夕食の準備、できてますよ。今日はシミア様の大好きなシチューです」


湯気が、シミアの視界を滲ませる。


「シャル……?」


シミアは呆然と立ち尽くす。

この光景はあまりに馴染み深く、けれどあまりに遠い記憶のようだった。

記憶の中の光景と重なる。故郷にいた頃、隣町の市へ工芸品を売りに行き、くたくたになって帰ってきた時も、シャルはこうして二人では食べきれないご馳走を用意して待っていてくれた。

「お帰りなさい」と笑って。

それは、この冷たい世界における唯一のアンカー

外では必死に築き上げていた「強がり」という名の堤防が、この一瞬で決壊した。

抑えきれない酸味が鼻の奥を突き、視界が歪む。熱い雫が、頬を伝い落ちる。


「シミア様!?」


シャルが慌てて駆け寄る。手にしたおしぼりを放り出し、シミアの前に膝をつく。


「どうされたんですか? 外で何か嫌なことが? それとも体調が?」

「私……シャル……私……っ」


言葉にならない。喉から漏れるのは、掠れた嗚咽だけ。


「もう……どうしたらいいか、分からないよぉ……」


シャルはそれ以上聞かなかった。悪夢にうなされる幼いシミアをあやすように、そっと頭を抱き寄せ、自分の胸に預ける。華奢だが、何よりも温かい胸元へ。


「大丈夫……大丈夫ですよ、シミア様」


シミアの体が激しく震える。溺れる者が流木にすがるように、シャルの服の裾を握りしめる。

全ての委屈、恐怖、迷いが、涙となって溢れ出した。


「辛いよ……あの声が……疑念が……」シミアは途切れ途切れに訴える。「でも……あの声は嘘をついてない気もして……みんな利益のために……怖いよ……」


腕の中の無防備な泣き声を聞き、シャルの顔が悔恨に歪む。


「申し訳ありません、シミア様。私が悪かったんです」


背中を撫でる手が、胸が張り裂けそうなほど優しい。


「最近、『シャル・キッチン』のことに夢中で、自分のことばかり……シミア様が一人でそんなに大きな苦しみを背負っていることに、気づけなくて」


シミアは首を振り、何も言わずにシャルの腰に腕を回し、顔を埋めた。

あの吐き気を催すような孤独感も、脳裏にこびりついていた悪意の声も、この温もりの中では陽光に晒された残雪のように溶けて消えていく。

窓の外の夕陽が完全に沈み、シミアの胸の嵐が静まるまで、二人はそうしていた。


* * *


「はい、シミア様。あーん」

「自分で食べれるよ……」

「ダメです。目が腫れてますから、お世話させてください」


ラグの上に座り、シミアは少し恥ずかしそうに口を開け、シャルが差し出すシチューを含んだ。

出来立てのような熱さはない。だが、喉を通るその味は、心臓の芯まで届く熱を持っていた。

シャルを見る。

自分が一口食べるだけで、まるで世界を手に入れたかのような、純粋な充足の笑みを浮かべている。

そこには計算も、打算も、一切の留保もない。

シミアはスプーンを置き、ボウルの中のスープを見つめた。


「シャル……」


泣きはらした声は、まだ少しれている。


「私、本当に……どう選べばいいか分からなくて」

「はい」

「もし……もしもだよ。誰かがシャルの力を、料理の腕を利用して、自分の目的を達成しようとしたら……どうする?」


問われて、シャルはきょとんと小首を傾げた。


「利用、ですか?」


考える時間さえ必要ないというように、彼女は即答した。


「うーん……それは、そのことがシミア様のためになるかどうかによりますね」


あまりに当然のように返され、シミアは虚を突かれる。


「ど、どうして? ただの便利な道具扱いかもしれないんだよ?」

「だって、私にとって理由は一つしかありませんから」


シャルは箸を置き、澄み切った泉のような瞳でシミアを見据えた。


「シミア様が幸せになることなら、私は何だってやります。逆にシミア様の不利益になることなら、どんな報酬を積まれても絶対にやりません」


彼女は満面の笑みを咲かせた。それは信仰にも似た、揺るぎない覚悟の笑顔だった。


「もし誰かに利用されることで、シミア様の安全や幸せが手に入るなら……私はむしろ嬉しいです。だってそれは、私がシミア様の役に立っているという証明ですから」


ドン、と雷に打たれたような衝撃が走った。

シャルの答えは、名刀のようにシミアの心に絡まっていた「疑念」の糸を一刀両断にした。

胸に立ち込めていた霧が晴れ、灰色の世界に鮮烈な色彩が戻る。

苦しんでいた問い――ライナスは利用しているのか? クラウディアは計算しているのか? シメールは依存しているのか?

シャルの極限まで純粋な論理の前では、それら全てが無意味なことに思えた。


(そうだ……私は何を迷っていたんだろう?)


自分のためなら全てを捧げると言う少女を前に、シミアの心が、カチリと定まる。


(もし私軍を作ることが、シャルを守り、トリンドルを守り、みんなを守ることに繋がるなら……)

(利用されたっていいじゃないか。彼らの盤上の駒になったっていい)

(この温もりを守り抜けるなら……)


シミアは顔を伏せ、ボウルの中身を大口で頬張った。

再び涙が滲む。だが今度の涙は、絶望の味ではなかった。


(この軍隊がシャルの盾になるなら、私は……喜んで「利用される者」になろう)


おいしい夕食の香りに満ちた小さな部屋で、家族との温かな食卓の最中。

かつて迷いの中にいた少女は、今、静かに覚悟を決めた。

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