悪魔の取引、あるいは古き傷跡
放課後の軍事戦略室には、張り詰めた弦のような、奇妙な緊張感が漂っていた。
西日が高い窓から射し込み、巨大な砂盤を明と暗に切り裂いている。
シミア、クラウディア、ライナス。三人は机を囲み、まるで次の一手を打とうとする棋士のように対峙していた。
シミアは深く息を吸い込み、シメールからの提案――私軍設立の構想を、包み隠さず打ち明けた。
「私軍、か……」
ライナスの細長い指が、タタ、タタ、と机をリズミカルに叩く。
「大胆だが、時宜を得た提案だね」
「夢物語はいいわ」
クラウディアが腕を組み、冷や水を浴びせる。そのスミレ色の瞳が、鷹のように鋭くシミアの要所を刺した。
「シミア、現実を見なさい。その莫大な立ち上げ資金、どこから捻出するつもり? 軍隊を養うのは、ペットを飼うのとはわけが違うのよ」
「それは……」
シミアは唇を噛む。声に力がなくなる。
「『シャル・キッチン』の売り上げが安定して増えてきたら、そこからの利益を第一弾の資金として……」
「プッ」
クラウディアが吹き出した。隠そうともしない、嘲りの笑いだった。
その瞬間、ライナスとクラウディアが視線を交わす。
ほんの一瞬。だが空中で絡み合った視線には、驚き、計算、そして獲物が罠にかかったことを確信した狩人のような――共犯者の色が混じり合っていた。
ライナスが、優雅な動作でシミアの前に歩み寄る。
拒絶を許さない、静かな圧迫感。
彼は手を伸ばし、机の上で握りしめられていたシミアの拳に、そっと自分の手を重ねた。
「シミア、君は甘い(ナイーブだ)」
その声はあくまで柔らかく、けれど言葉は刃となって心臓を抉る。
「足りないよ。圧倒的にね。私軍には巨額の装備費がかかる。それだけじゃない。毎月発生する給与、訓練による損耗、怪我や死亡時の撫恤金……はっきり言おう。パンやスープを売った小銭程度じゃ、その底なし沼は埋まらない。二十年かけてもね」
「確かに……」
シミアはうつむく。
「大規模な軍隊は無理です。でも、精鋭だけの小隊なら……今の利益でも、十二人規模なら維持できるはず……」
「十二人?」
ライナスはかぶりを振り、憐れむような目をした。
「この動乱の予感が漂う時代に、たった十二人の力で何ができる? 大貴族の私軍の足止めにもなりはしない。君が指揮すべきは、君の格に見合った軍隊だ、シミア」
彼は少しだけ身を屈め、シミアの目を覗き込むようにして、甘い毒を垂らした。
「実はね、金の問題なら、君一人が苦しむ必要はないんだ。僕とクラウディアが……すべて解決してあげられる」
「二人が……?」
「ああ」
ライナスは魅力的な微笑を浮かべる。
「領地と産業を持つ僕たちなら、君が想像もつかない額の資金を調達できる。十数人なんて言わない。君が首を縦に振りさえすれば、百人を超える完全装備の精鋭部隊だって用意できるよ」
「百人……」
シミアはその数字を反芻する。局地的な戦況を一変させうる戦力だ。
「ただし。タダ飯はないわよ」
絶妙なタイミングで、クラウディアが横から口を挟んだ。
彼女はシミアの横に立ち、明日の天気を語るような気軽さで、用意していた条件を突きつける。
「その私軍、名義上はあなたのものよ。でも実質的な運用は――私たち『三人同盟』の合議制にする」
彼女は人差し指を伸ばし、シミアの黒髪を一房すくい上げ、指先にくるくると巻き付けた。
「私たちが金を出す。あなたが力を出す。資源は私たちが提供し、知恵はあなたが提供する。その軍隊の指揮権はあなたにあるけれど、その剣先をどこに向けるかは……私たちが決める。どう?」
これは取引だ。
シミアの才能と、彼らの資本を交換する、あまりに即物的な取引。
頭では分かっている。これは魅力的な提案だ。彼らのバックアップがあれば、自分はもはや根無し草の「平民領主」ではなく、実力を伴った政治勢力になれる。
でも――。
キーン。
突如、鋭い耳鳴りが脳内で炸裂した。
視界がぐにゃりと歪む。
軍事戦略室の壁が、前世のあの冷たい教室の壁へと変貌していく。
ライナスとクラウディアの笑顔が、かつて自分を利用し、宿題を押し付け、嘲笑った同級生たちの顔とダブって見えた。
『ほら、まただ』
心の底に巣食う影が、粘着質な声で囁く。
『また利用されるんだ、シミア』
『シメールも、この二人も、本当にお前自身を見ているのか? 違う。こいつらが欲しいのは、お前の便利な「脳みそ」だけだ。お前を搾り取るだけ搾り取って、権力の頂点に登るための踏み台にする気だぞ』
シミアの瞳孔が収縮する。呼吸が浅く、早くなる。
(違う……そんなことない! シメールは本気で……ライナス先輩もクラウディア先輩も、ただ……合理的な取引をしているだけで……)
心の中で必死に否定する。だが、影の声はボリュームを上げ、金切り声のように響き渡る。
『自分を騙すな。「合理的な取引」? いいカモに対する常套句だ。価値がなくなれば、ボロ雑巾みたいに捨てられるぞ!』
シミアの顔色が蝋のように白くなり、冷や汗が流れるのを見て、クラウディアの瞳に微かな不安がよぎる。
「そうそう、シミア」
彼女は空気を変えようと、努めて明るく言った。
「最近、多くの貴族生徒が私たちの同盟に興味を持っていて、加入したがっているの。今後の勢力拡大には好都合だわ。人員の選別は私たちがやっておくから、一度……彼らに会ってみない?」
その一言が、最後の一撃だった。
脳内の声が絶叫に変わり、毒蛇のようにシミアの心臓を締め上げる。
『聞いたか? もっと人を増やす気だ。そいつらはお前の味方か? 違う、お前の権限を薄めて、監視するためだ! お前を完全に傀儡にする気だ!』
(私は重要じゃない……私なんか監視する理由は……)
『分かっているくせに! お前は重要だ! ミリエルが持つ切り札だからだ! こいつらは、お前をコントロールすることで、女王を操ろうとしているんだよ!』
首を真綿で締められるような窒息感。
「シミア? どうしたの?」
異変を察知したクラウディアが、手を伸ばす。
「触らないで!」
シミアは弾かれたように後ずさり、背後の机に腰を強打した。
「わ、私……少し気分が……」
胸を押さえ、荒い息を吐き出す。その瞳は恐怖に見開かれていた。
「あの……ライナス先輩、クラウディア先輩、この話……また今度でもいいですか? 私……部屋に戻って休みたくて……」
「……分かった」
ライナスは伸ばしかけた手を引っ込め、思案深げな目を向けた。
「ゆっくり休むといい。あまり考えすぎないようにね」
赦しを得た瞬間、シミアは鞄をひったくり、逃げるように教室を飛び出した。
一度も振り返ることなく。背後からかけられる二人の気遣わしげな声が、遠ざかっていく。
* * *
バタン、と扉が閉まり、教室に死のような静寂が戻った。
クラウディアは誰もいなくなった扉を見つめ、珍しく憂いの表情を浮かべていた。
「私……少し、追い詰めすぎたかしら?」
ライナスは首を振り、椅子に座り直すと、手元の駒を指先で弄んだ。
「君は間違っていないよ、クラウディア。同盟である以上、腹を割って話すべきだ。将来、利益配分で揉めて決裂するより、今ここで厳しい現実を見せておいた方がいい」
彼は指を止め、瞳を細めた。
「残酷かもしれないが、これは成長のための通過儀礼だ。たとえ彼女が僕たちに幻滅したとしても、甘い嘘で騙し続けるよりずっと誠実だ。彼女の聡明さなら、いずれこの利害の一致が最良の選択だと理解できるはずさ」
「……理解、できるかしら」
クラウディアは唇を噛んだ。
窓の外、曇り始めた空の色が、彼女のスミレ色の瞳に暗く映り込んでいた。
「だと、いいけれど」




