教室という名の戦場
窓の僅かな隙間から、夏の日差しが教室に滑り込む。
普段は空席の目立つ歴史の講義室も、銀潮連邦からの留学生たちのおかげで、今日は立錐の余地もないほどだ。
空気中には、競争心と好奇心が入り混じった、独特の熱気が醸成されていた。
「ローレンス王国と銀潮連邦の最後の戦争は、夏から秋にかけての三ヶ月間続きました。故に『最後の夏期戦争』と呼ばれています」
教壇に立つアウグスト先生が、黒板に文字を走らせる。
シミアがノートを開くと、周囲からは普段の数倍もの密度で、羽ペンが紙を擦る「カリカリ」という音が聞こえてきた。
「この戦争において、銀潮連邦は兵站で優位に立ち、王都と港湾同盟を結ぶ『回廊』地帯で決戦を挑みました。連邦の石弓による雨のような斉射は、王国の主戦力であった重装長槍兵に壊滅的な打撃を与えたのです」
その歴史を聞き、銀潮連邦の生徒たちが誇らしげに背筋を伸ばすのが見えた。
その無言の圧力に当てられたのか、後列でいつもは惰眠を貪っている王国の貴族生徒たちも、居心地悪そうに居住まいを正している。
「王国にとって、これは存亡を賭けた戦いでした」
アウグストは意味深な視線を後列へと投げる。
「『回廊』を失えば、連邦軍は王国の心臓部へとなだれ込み、王都を包囲できるからです」
彼は教室を見渡し、慣れ親しんだ顔を見つけた。
「では、ここからローレンス王国がどうやって逆転勝利を収めたか……シミアさん、答えていただけますか?」
シミアは迷わず起立した。
「はい。王国は精鋭騎兵部隊を迂回させ、連邦軍の後方補給線を断ちました。それにより連邦軍にパニックが生じ、最終的に王国が勝利しました」
「正解です。座って結構ですよ」
アウグストが満足げに頷く。
「シミアさんの言う通り、当時の国王ビリス・ローレンスは、自ら騎兵を率いて奇跡的な側面突撃を成功させ、大戦に終止符を打ちました。戦後、ビリス王は装備に勝る銀潮連邦軍に対し、こう評しています――『彼らには、死兵となる覚悟が欠けていた』と」
その一言は、煮えたぎる油に氷を放り込んだような劇薬だった。
「覚悟が欠けていた、だと?」
「我々の英霊に対する侮辱だ!」
連邦の学生席から、抑えきれないざわめきと殺気が噴出する。数十の冷たく鋭い視線が、一斉に教壇のアウグストへと突き刺さった。
その時だ。
「失礼ですが、先生」
よく通る、理知的な声が空気を切り裂いた。
最前列に座っていた茶髪の少年が立ち上がる。仕立ての良いスーツを着こなした、見目麗しい優等生だ。
「その『死ぬ覚悟が足りなかった』という評価には、賛同できません」
アウグストは興味深そうに彼を見た。
「ほう? アレクシス・ミノール君。何か異論があるのですか?」
「はい」
アレクシスは一礼する。その所作は優雅だが、言葉はナイフのように鋭利だった。
「我が国の敗因は精神論ではなく、政治です。当時、国内では陸権派と海権派の対立があり、港湾同盟が『回廊』へ進出する陸軍への物資供給を拒否しました。これこそが、敗北の唯一にして真実の理由です」
「あいつ、どういうつもりだ?」
「学院で先王陛下を愚弄する気か!」
後列の貴族たちがいきり立つ。
「シミア! なんとか言ってやれよ!」
無責任な野次が、シミアの華奢な肩を震わせた。
(また、これだ……)
彼女は俯き、指先を強く握りしめる。
アレクシスの主張は論理的で隙がない。だが、周到に準備された侵略戦争が、味方の裏切りだけで全壊するだろうか?
その理由はあまりに出来すぎていて――まるで、用意された言い訳のようだ。
「シミア、放っておきなさい」
隣からトリンドルの囁きが聞こえる。隠そうともしない蔑みを込めて。
「自分じゃ声も上げられない臆病者たちが、あなたを盾にしようとしてるだけ。吐き気がするわ」
トリンドルの援護は温かい。だが、教壇からの視線は無視できない。アウグスト先生はシミアを見ていた。そこにあるのは強制ではなく、純粋な学者としての期待。
(どうすればいい? 口を開けば、また矢面に立たされる)
ふと、カシウス先生の温和な笑顔が脳裏をよぎり、胸が冷たく痛んだ。信頼の果てにあるのは……裏切りだ。
彼女は再び影に隠れようとする。
「先生も同意されるはずです」
反論がないのを見て、アレクシスは畳み掛ける。
「証拠として、我が国の史料を提出しても構いませんよ」
その勝者の如き振る舞いが、シミアの最後の琴線に触れた。
それは学問の探求ではない。政治的な示威行為だ。
彼女は顔を上げ、アレクシスの鋭い視線を正面から受け止めた。
(ごめんなさい……過去の私)
迷いを振り切り、彼女は静かに立ち上がった。
「アレクシス君」
決して大きな声ではない。だが、教室の喧騒が一瞬で凍りついた。
「その意見には、賛同できません」
「あ?」
アレクシスの低い声が、獣の唸り声のように響く。
「君は誰だ? 何の権利があってそんなことを言う?」
「シミア・ブルン」
シミアは淡々と名乗り、彼の恫喝を無視して論点へと切り込んだ。
「勝敗を分けたのは戦前の準備であり、事後の支援ではありません。アレクシス君。君は、ある国が大国に宣戦布告する際、準備不足のまま挑むと思いますか?」
アレクシスは顎に手を当て、しばし思案する。
「……状況によるだろう」
「そうね」
シミアは頷く。
「では当時の歴史的背景を見ましょう。ローレンス王国の主力は重装長槍兵でした。そうでしょう?」
「……ああ」
「対して銀潮連邦は、精巧な石弓隊で知られています」
「それが何の証明になる?」
アレクシスが眉をひそめる。
「それこそが、銀潮連邦の『戦前準備』の証拠です!」
シミアの声に熱が帯びる。
「王国の重装長槍兵は、永遠烈陽帝国の重装騎兵に対抗するために作られたものです。一方、銀潮連邦は長きにわたる平和を利用し、王国の編成を研究し尽くして『アンチ・ユニット』を作り上げた。それこそが、足の遅い重装兵を一方的に狩るための石弓隊です!」
教室が静まり返る。全員がシミアの大胆かつ明快な分析に飲み込まれていた。
「銀潮連邦は自ら宣戦布告をした。それは、兵種の相性という圧倒的有利を握り、絶対に勝てると確信していたからこそ踏み切った戦争だったはずです!」
「何が言いたい!」
アレクシスが顔を紅潮させ、激昂する。
「私が言いたいのは」
シミアは彼を射抜くように見据え、結論を突きつけた。
「銀潮連邦は最初から優位に立ち、万全の準備をしていた。補給線を断たれたとしても、手持ちの物資だけで死に物狂いの決戦を挑む余力はあったはずです。けれど、しなかった。自分たちが用意した『必勝の戦術』が崩れた瞬間、彼らは脆くも崩れ去った。そう――彼らには、泥にまみれても勝利をもぎ取る『覚悟』が欠けていたのです」
「だから、ビリス王の評価は的確だったと言えます。アレクシス君」
シミアが言葉を切ると同時に、後列で固唾を飲んでいた貴族の生徒たちから、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「素晴らしい……実に素晴らしい分析です、シミアさん!」
アウグストの瞳が、称賛で輝いている。
「二人とも、席に着いてください……」
興奮冷めやらぬアウグストの解説で授業は再開された。
だが、アレクシス・ミノールだけは。
彼は今までとは違う、冷徹な計算を含んだ視線で、自らの顔に泥を塗った黒髪の少女をロックオンしていた。




