帰郷と新たな脅威
馬車が、王都の石畳から外れる。
車輪が、慣れ親しんだ土の匂いのする道を踏みしめた瞬間。
シミアは、全身の毛穴が、ふわりと開くのを感じた。
王都の空気は、いつもどこか、整然としていて冷たい。
けれど、故郷の風は違う。
畑に咲く、名も知らぬ野の花の、ほのかな香りが、いつも混じっていた。
その匂いが、鍵だった。
一瞬で、記憶の小箱を開け放ち、連日の慌ただしさで張り詰めていた心を、するすると解きほぐしていく。
「久しぶり……」
冷たい窓ガラスに、そっと頬を寄せる。
窓の外に広がる、生命力に満ちた緑を眺めながら、どこか嗚咽を堪えるような声で、呟いた。
「本当に、ここが好きなのね」
向かいの席から、ミリエルの声がした。
気づかれないほどの、柔らかな笑みが、その声には含まれている。
シミアは、こく、と大きく頷いた。
そして、振り返り、心の底からの、満面の笑みを浮かべる。
「うん! ありがとう、ミリエル。わざわざ、遠回りしてくれて」
「ちょっと!」
隣から、トリンドルが、ぷうっと頬を膨らませた。
「まるで、ぜんぶ彼女の手柄みたいじゃない! あたしだって、賛成したんだからね! ローレンス先生!」
お馴染みの、今にも〝開戦〟しそうな二人の様子に、シミアは思わず、くすりと笑ってしまった。
馬車を降り、故郷だけの、草と土が混じった空気を、胸いっぱいに吸い込む。
まるで、生まれ変わったような気分だった。
「見て、あそこの木!」
まるで子供に返ったように、彼女ははしゃいで、少し離れた場所に立つ、首の曲がった古い樫の木を指差した。
「小さい頃、シャルとよくあそこでかくれんぼしたの! シャルは、いつも同じ洞に隠れるから、すぐに見つけちゃった」
「それから、あの小川!」
今度は、別の方向を指差す。
「そこで、魚釣りを覚えたんだけど、初めて竿を振ったら、シャルを引っ掛けちゃって。川に落っこちて、お母様に、ものすごく叱られたんだ」
足取りが、どんどん軽やかになっていく。
懐かしい景色の一つ一つが、彼女を饒舌にさせた。
ミリエルとトリンドルは、黙ってその後ろをついていく。
温かくて、ささやかな子供時代の思い出話に耳を傾けているうちに、二人の表情も、自然と和らいでいった。
その時だった。
シミアの目に、見慣れた人影が映った。
少し離れた畑の畝の間で、日に焼けた、がっしりとした体躯の中年の男が、腰を屈め、手慣れた様子で働いている。
「あ、ケイデンおじさん!」
その顔に、太陽のような喜びがぱっと咲く。
スカートの裾を持ち上げ、足早に駆け寄っていった。
「ケイデンおじさん!」
呼びかけに、男が身を起こす。
泥だらけの手の甲で、額の汗を拭った。
だが、駆け寄ってきた人物の顔を認めた瞬間、その、農夫らしい素朴な笑顔が、凍りついた。
まるで、何か不吉な化け物でも見たかのように、その目は恐怖に怯え、きょろきょろとあたりを見回す。
そして、一言も発さずに、くるりと背を向けると、別の畦道から、こそこそと逃げ出そうとした。
「ケイデンおじさん? わたくしを、覚えていませんか?」
シミアは、慌ててその前に回り込む。
男は足を止めたが、その目を直視しようとしない。
ただ、足元の泥を、じっと見つめている。
緊張で、唇が微かに震えていた。
「お……お前、まだ、帰ってきたりなんかして……」
「どうしてです? 皆に会いに来ただけですよ」
シミアは、ただならぬ雰囲気を感じながらも、努めて明るい声を出した。
「リムおばさんは、お元気ですか?」
妻の名を聞いて、男の、逃げ惑っていた視線が、ようやく、少しだけ揺らいだ。
顔を上げる。その表情は、苦痛と葛藤に満ちていた。
だが、結局は、未知への恐怖が、すべてを押し流してしまった。
「シミア……頼むから、もう行ってくれ……わしらに、話しかけないでくれ……」
「いったい、どうしたんですか? そんなことを言われても、わたくしには、さっぱり……」
「こないだ……領主様たちが、軍を連れて、ここに……」
男は、ありったけの力を振り絞るように、歯の隙間から、その言葉を絞り出した。
ちらりと、シミアの背後に立つ、豪奢な身なりの〝招かれざる客〟二人を見て、その目には、さらに深い恐怖の色が浮かぶ。
「領主様たちは……お前が……女王陛下を、裏切ったと……」
「軍」と「裏切り」。
二つの言葉が、重い槌となって、シミアの心臓を、激しく打ち据えた。
「お……お前も、早く……自分の目で、確かめてこい」
それだけ言うと、男は、もう一秒たりとも、その場に留まっていられなかった。
ほとんど、逃げ出すようにして、畑の向こうへと、その姿を消してしまった。
シミアは、ただ、呆然と、その場に立ち尽くしていた。
トリンドルとミリエルも、事態の深刻さを察し、足早に駆け寄ってくる。
「シミア……」
不吉な予感が、氷のように冷たい、巨大な網となって、彼女の心臓を、鷲掴みにした。
それ以上は、一言も発さなかった。
ただ、猛然と、背を向ける。
そして、村の、もう一方の端。
あの、誰よりもよく知る場所へと向かって、全力で、駆け出した。
景色が、猛スピードで、後ろへ流れていく。
肺の中の空気が、一瞬で、吸い出されてしまったようだ。
かつては、笑い声に満ちていた、家へと続く小道。
それが今では、地獄へと続く、長い、長い、通路のように思えた。
そして……。
その足が、何の前触れもなく、ぴたりと、止まった。
目の前に広がるのは……黒い、焦げ臭い匂いを放つ、瓦礫の山。
雨風を凌いでくれた、二つの人生、その全ての温かい思い出を、宿してくれていた、あの家は、もう、どこにもなかった。
代わりにあったのは、焼け焦げて黒くなった、数本の梁と。
今にも崩れ落ちそうな、ぽつんと、孤独な、壁の残骸だけ。
全身から、力が抜けた。
がくり、と。
灰と泥が混じり合った、冷たい地面に、崩れ落ちた。
トリンドルとミリエルも、追いついてきた。
目の前の、地獄のような光景を前にして、二人とも、言葉を失っていた。
「……っ、ふざけないで!」
トリンドルの瞳に、全てを焼き尽くさんばかりの怒りの炎が、一瞬で燃え上がった。
「どこのどいつよ、こんなことをしたのは! 名前を言いなさい! 今すぐ、そいつの家を、根こそぎ、同じようにしてやるんだから!」
「シミア……」
ミリエルが、彼女の隣に、そっとしゃがみ込む。
その声には、隠しきれない自責の念と、震えが混じっていた。
「ごめんなさい……すべて……わたくしの、せいで。少し、時間をちょうだい……必ず、償わせてみせる。必ず……!」
だが、シミアは、まるで何も聞こえていないかのようだった。
その脳裏に、いくつもの光景が、勝手に、浮かび上がってくる。
庭で、木の剣の振り方を教えてくれた、父の姿。
台所で、鼻歌を歌っていた、母の姿。
そして、シャル。いつも微笑んで、どんな時も、そばにいてくれた、シャル……。
すべての笑い声が。
すべての温もりが。
すべての〝日常〟が。
今、この、醜い焦土によって、無慈悲に、完全に、飲み込まれてしまった。
涙が、ついに、堰を切った。
「……いいの」
ゆっくりと、首を横に振る。
その声は、紙やすりで擦ったように、嗄れていた。
「わたくしのために……どんな権力も、使わないで……」
顔を上げる。
いつもは穏やかなその顔は、今、涙でぐしょぐしょだった。
だが、泣き腫らしたその瞳の奥には、氷のように冷たい、心臓が凍るような、炎が燃え盛っていた。
「わたくしとシャルの家は……もう、ない。これ以上、彼らを罰しても、私たちは、もっと深い罠にはまるだけ。彼らの、思う壺よ」
目の前で、同じように心を痛め、怒りに震える、二人の仲間を見つめる。
そして、まるで、懇願するかのように、静かに、言った。
「ごめんなさい……少しだけ……一人に、してくれる?」
トリンドルとミリエルは、顔を見合わせた。
その瞬間、互いの瞳の中に、同じ感情を読み取る。
それは、競争心でもなければ、嫉妬でもない。
暗黙の、一つの、共通の決意。
二人は、示し合わせたように、そっと、頷いた。
背を向け、重い足取りで、その場を去る。
だが、遠くへは行かない。
ただ、静かに、近くの、無事だった家の、角の影へと、その身を潜めた。
彼女たちは、去らなかった。
自らの騎士のために、見張りに立ったのだ。
影の中から見ると、シミアの、華奢な背中が、巨大な廃墟を前にして、あまりにも、小さく見えた。
その肩が、微かに、震えている。
抑えられた、声にならない、嗚咽。
それは、どんな、絶叫よりも、心を、引き裂いた。
トリンドルは、ぎゅっと、拳を握りしめた。
関節が、白くなる。
ごく微かな、稲妻が、その指先で、ぱちりと、弾けた。
だが、彼女は、それを、無理やり、ねじ伏せた。
ミリエルは、冷たい壁に、もたれかかる。
女王としての、余裕も、威厳も、そこにはない。
ただ、静かに、見つめていた。
自分のせいで、この嵐に巻き込まれてしまった、少女を。
心に満ちるのは、無限の、罪悪感と……そして、さらに冷たい、揺るぎない、決意。
夕陽の、最後の光が、この焦土に、沈み込むまで、ずっと。