種蒔き季、当日(四)
ドクン、ドクン、と。
シスの心臓が、まるで戦いの太鼓のように、狂ったリズムを刻んでいた。
乱れた髪の先から、雨粒がぽたぽたと滴り落ちる。
汗と血が混じり合い、視界をぼんやりとした深紅に染めていく。
背後からは、王室近衛軍のものだろう、重々しい鎧のぶつかる音が響く。
それはまるで、死神の足音。
遅すぎず、速すぎず。だが、影のようにどこまでも追いかけてくる。
決して、振り払うことのできない死の足音だ。
シスは、生き残った仲間たちを引き連れ、ぬかるんだ林の中をがむしゃらに逃げていた。肺が、まるで炎で焼かれたように、ひりひりと痛む。
「ケイン!」嗄れた声で、彼は叫んだ。「あと、どれくらいだ!?」
隣を走る、同じく満身創痍の傭兵が、ぜえぜえと息を切らしながら答える。「副団長……もうすぐです! あと……あと百歩も行けば! 出口が!」
希望が、目の前に。
九死に一生を得たという歓喜が、一瞬で、全ての疲労を吹き飛ばした。
隊列の中から、抑えきれない、興奮した喘ぎ声が聞こえてくる。
「やったぜ! 今回の報酬、思ったより楽な仕事だったな!」
「鉄峰城に帰ったら、酒場『新芽』で一番高いエールを浴びるほど飲んでやる!」
背後で、報酬の使い途を話し始めている能天気な奴らの声を聞きながら、シスの胸には、拭いきれない不安が渦巻いていた。
〝影〟と合流し、この忌々しい王国から完全に脱出するまで、どんな祝いも時期尚早だ。
「副団長! 見てください! 光です!」
ケインの声が、抑えきれない喜びに弾んでいた。
シスが顔を上げる。前方、森の尽きる場所。
見慣れた、自由を象徴する眩い光が、幾重にも重なる木の葉を突き抜け、優しく彼らを抱きしめようとしていた。
しかし――。
よろよろと、その暗闇から飛び出した瞬間。
全員の足が、まるで、見えない壁に阻まれたかのように、ぴたりと、その場に縫い付けられた。
彼らを迎えたのは、用意されていたはずの退却用の馬車ではなかった。
そこに広がっていたのは――数百もの鋭い穂先が織りなす、沈黙の、鋼鉄の森。
そして、その槍の陣の向こうに立つ、一人の男。
眼鏡をかけ、まるでまだ教室で講義でもしているかのような、優雅な佇まい。
歴史学教師――アウグスト・バイロン。
「陣形を維持せよ」
彼は眼鏡を押し上げた。その声は、何の感情も乗っていない、冬の寒風のように平坦な響きだった。
「――ゆっくりと、前進」
槍の陣が、まるで鋼鉄の絶壁のように、彼らへと、ゆっくりと、圧し掛かってくる。
「戻れ! 早く戻れ! 別の道から……!」
シスは恐怖に顔を引きつらせ、踵を返した。
しかし、その背後、見慣れたはずの森の中。
重厚な鎧に身を包んだ王室の衛兵たちが、一人、また一人と、木の影から姿を現し、最後の退路を、完全に塞いでいた。
先頭に立つのは、ドードリン隊長。その手に握られた鋭い長槍。
その表情は、まるで、とうに籠の中へ入った獲物を見ているかのようだった。
「そんなに早く……馬鹿な……奴らが着てるのは、鉄の鎧だぞ……」
隣のケインが、絶望に満ちた、泣き声交じりのため息を漏らすのが、聞こえた。
そのため息が、合図だったかのようだ。
〝静寂の刃〟が誇る精鋭部隊から、すべての戦意が、一瞬で、抜け落ちていく。
カラン……。
誰かが、最初に武器を落とした。
カラン、カラン……。
それに続くように、第二、第三の音が響く……。
武器が地に落ちる音だけが、此処彼処で鳴り響き、この静寂の森に響く、唯一の、敗北者たちの哀歌となった。