種蒔き季、当日(三)
ごうごうと燃え盛る馬車。それは巨大な、絶望の松明だ。
陰鬱な雨の帳の下、ぱちぱちと甲高い音を立てて爆ぜている。
飛び散る火の粉が、冷たい雨粒と空中で衝突する。ジュッと音を立てて消え、焦げ臭い匂いを纏った白い蒸気へと変わっていく。
次々と倒れていく、忠実な衛兵たち。
その光景を前に、トリンドルの心臓を、無力感という氷の指が鷲掴みにした。
雨水が泥と混じり合い、足元はぬかるんだ沼地のようだ。一歩踏み出すごとに、ずぶずぶと深淵へ引きずり込まれていくような重さだった。
はっと顔を上げる。
だが、その視線は、隣に立つ予想外の影に吸い寄せられた。
レインの顔に、慌てた様子は微塵もない。
いつもは少しはにかみ屋のその瞳が、今は静まり返った深い淵のように、冷徹な光を宿していた。
その掌に、一枚、また一枚と、鋭利な氷晶が虚空から生まれ出る。
まるで白い稲妻の如く、敵の〝破魔部隊〟が放つ魔法弾へと正確に飛んでいく!
氷と炎が、中空で激突し、炸裂した。
凄まじい衝撃波が雨水と泥を巻き上げ、一瞬だけ、決して砕けることのない障壁を形成する。
彼にはまだ余力さえあった。数枚の小さな氷の礫を分出し、正面で崩壊寸前となっている槍の陣を支援している。
少し離れた場所では、執事のバセスもまた、無我の境地に至っていた。
その手に握られた長槍は、もはや単なる武器ではない。まるで、彼の身体の一部として、意のままに躍動している。
腰を落とし、ぐっと構える。槍の柄をしならせるだけで、同時に斬りかかってきた数本の曲刀を弾き返した。
穂先を翻せば、致命的な冷光が一閃し、刺客の一人の喉を正確に貫く。
雨水が、その白髪を伝って流れ落ちる。だが、その心に燃え盛る、歴戦の兵士としての闘志を、冷ますことはできなかった。
エグモント家の衛兵たちもまた、驚異的な意志力を見せつけていた。
隊長の亡骸を中心に、彼らは自発的に円陣へと収縮していく。その血肉の身体で、背後の若き主君のために、最後の防衛線を築き上げていた。
ガキンッ、と武器がぶつかり合う音。負傷した兵士の、くぐもった呻き声。そして、仲間が倒れるたびに上がる、抑えられた怒号。
それらが混じり合い、一つの、悲壮な戦いの歌を紡ぎ出していた。
トリンドルの脳裏に、ある光景が、勝手にフラッシュバックする。
軍事戦略学の教室で、シミアが、あの、あまりにも真剣な瞳で、自分を見つめていた、あの光景が。
(『――しばらく、時間を稼げれば、それで十分です。ドードリン隊長の援軍が、必ず……』)
心の奥底から、温かいものが込み上げてきた。
一瞬で、全ての寒気と恐怖を、追い払っていく。
(そうよ……あたし、何を怖がってたの?)
トリンドルの顔に、再び、エグモント家の一人娘としての、誇り高く、不敵な笑みが浮かんだ。
(怖がる必要なんてない!だって、シミアは、絶対に助けに来てくれるんだから!)
ばっ、と手を掲げる。
もはや、乱れる魔力を制御しようなどとは思わない。
ただ、ひたすらに〝燃やす〟イメージだけを、思い描く!
馬車の炎よりも、さらに巨大で、熾烈な火球が、その掌に轟然と生まれ出た。
そして、刺客たちが最も密集している陣の中央へと、正確に叩きつけられる!
蓮の花が開くように、炎が咲き誇り、一瞬で、数名の刺客を飲み込んでいった!
「この役立たずどもが! 乳飲み子一人、始末できんのか!」
シスの怒号が、雨の幕を突き破った。
もはや、傍観はしない。その魁偉な身体が、千鈞の勢いを以て、槍兵の陣が収縮した瞬間の、致命的な隙を突いて、猛然と突っ込んできた!
その手に握られた両手剣が振るわれるたび、血飛沫の雨が舞う。
槍兵たちは、距離の利を生かして彼を止めようとするが、その、一見鈍重そうな大剣は、彼の手の中では短剣のように軽やかで、その一撃一撃を、ことごとく正確に弾き返してしまう。
バセスは、それを見て、支援に向かう。だが、血の匂いを嗅ぎつけた鮫のように、さらに多くの刺客が、彼に執拗に絡みついてきた。
防衛線が、崩壊する。
その、時だった。
地平線の彼方から、重々しい、雷鳴のような蹄の音が響いてきた。
遠くから、近くへ。
確固たる、明瞭な響き。
パカラ、パカラ、と蹄が水たまりを踏み砕き、千の波を立てる。
精鋭の騎兵隊が、まるで赤熱した刃のように、灰色の雨の幕を切り裂いて現れた!
酣戦の最中にあったシスは、その音を聞き、信じられないというように、目を見開いた。
(――ついに来たか! 王室の精鋭が!)
「ははは! 上々だ!」
彼は、突如として、高らかに笑い出した。その顔に、敗北の色は微塵もない。むしろ、計略が成功したという、歓喜に満ちていた。
「野郎ども、我らの〝声東撃西〟は成功だ! 任務完了、撤退する!」
その朗々たる声が、一瞬で戦場に響き渡る。
まだ戦闘を続けていた刺客たちは、命令を受けるなり、一切の未練なく、すぐさま身を翻すと、密林の方向へと退いていった。
「逃がすな!」
バセスが、敵兵の一人の胸を槍で貫きながら、叫んだ。
援軍の到着に、槍兵たちの士気は一気に高まる。雄叫びを上げ、追撃しようとする。
シスは振り返り、手にした大剣を、まるで槍のように力任せに投げつけた! 他の刺客たちも、それに倣い、手にした武器を追手へと、無慈悲に叩きつける!
先頭を走っていた数名の槍兵が、避けきれず、瞬く間に血の海に倒れた。
その、死をも恐れぬ反撃が、追撃の足を、見事に止めてしまった。
レインとトリンドルの魔法は、殿を務める数名の敵に手傷を負わせたものの、まるで巨獣の口のように広がる、あの薄暗い密林を前にしては、ただ、天を仰いで嘆息するしかなかった。
その時、援軍が到着した。
ドードリン隊長は、ためらうことなく、馬から飛び降りる。
彼の後ろに続く近衛兵たちも、一斉に下馬した。その動きは、一糸乱れず、何の淀みもない。
彼とバセスの視線が交錯する。後者が、こくりと、力強く頷いた。
「――追撃!」
ドードリン隊長は、腰の長剣を抜き放つと、王国が誇る、この、最も精鋭なる歩兵部隊を率いて、躊躇いなく、敵を飲み込んだ、あの、危機に満ちた闇の中へと、突入していった。
◇
氷のように冷たい刃が、空気を切り裂く。
死神の嘯きを纏い、無防備なその首筋へと、まっすぐに迫っていた。
(――ここまで、か)
シミアは、静かに目を閉じた。
全ての抵抗を、放棄する。
シャル、トリンドル、シメール……そして……ミリエル……。
一人一人の顔が、脳裏をよぎり、やがて、あの女王の、いつもどこか孤独で、それでいて、決して揺るがない、微笑みへと、収束していく。
(ごめんなさい……あなたとの約束……果たせなかった……)
(――間に合えッ!!!)
なぜだろう。
意識が、闇に堕ちる、その最後の瞬間に。
耳元で、聞き慣れた、あの女王の、魂を絞り出すような、絶叫が聞こえた気がした。
「――その子に、触れるな!」
芳醇な紅茶の香りを纏った、灼熱の風が、氷のように冷たい雨の幕を、横暴に、こじ開けた。
男の、抑えたうめき声と共に、予期していた死は、訪れなかった。
シミアは、驚愕に目を見開く。
目の前に広がるのは、見慣れた、領主学院の制服。
そして、薄暗い空の下でさえ、なお、眩い輝きを放つ、銀白色の長髪。
ミリエルの背中が、まるで、決して越えることのできない城壁のように、彼女の前に、立ちはだかっていた。
「シミア。言ったはずよ、あなたは私のために生きると」
ミリエルは、振り返らない。
その声には、抑えきれない怒りと、ごく僅かな、震えが混じっていた。
「私の許可なく、あなたを死なせはしない!」
「ミリエル……!」
ミリエルは、応えない。
ばっと手を掲げる。
数十枚の鋭利な氷晶が、瞬時に生まれ出た。
雨のように、前方の、何もないはずの雨の幕へと、射出される!
ちゃぷ、ちゃぷ、と、水面を素早く踏む音が聞こえた。
氷晶は、すべて、ぬかるんだ地面に突き刺さり、一発も、当たることはなかった。
「……不可視化」
シミアは、どうにか立ち上がると、足元に落ちていた衛兵の長槍を拾い上げた。
「ミリエル、気をつけて! 奴の攻撃は……!」
「動くな! 私の後ろにいろ!」
ミリエルは、荒々しく彼女の言葉を遮ると、再び、数十枚の氷晶を、虚空へと放った。
まるで、怒り狂った幼い獅子のように。
狂ったように、消耗も厭わず、目の前の、あらゆる空間を、ただ、無駄に、埋め尽くしていく。
ミリエルの背中は、安全なはずだった。
だが、シミアは、急速な魔力消費で、微かに震える彼女の肩を見て、心の中で、けたたましく警鐘が鳴り響くのを感じていた。
(このままでは、駄目……ミリエルの魔力が、尽きてしまう……!)
ミリエルの攻撃は、一見、乱暴に見える。
だが、その実、極めて精密だ。一枚一枚の氷晶が、異なる領域を、くまなく覆っていく。
しかし、ぬかるんだ地面に、濁った水たまりを、いくつも作り出す以外、何の効果もなかった。
不意に。
氷晶の一枚が、空中で砕け散った。
まるで、見えない何かに、ぶつかったかのように。
ミリエルの眼光が、鋭くなる。
即座に、さらに多くの氷晶が、その一点へと、殺到した!
一滴、鮮血が、空から落ちる。
雨水に混じり、一瞬で、消え失せた。
黒い外套を纏った男の輪郭が、雨の幕の中に、一瞬だけ浮かび上がり、すぐに、再び、掻き消えた。
「天才女王、か。確かに、予想外の相手ではあるな」
刺客の、嗄れた声が、嘲るような笑みを帯びていた。
次の瞬間、数個の水球が、四方八方から襲いかかってきた!
ミリエルは、即座に、目の前に、炎の壁を生成する。
水と火が衝突し、大量の蒸気が立ち上った。
一瞬で、二人の視界が、白い霧に覆われる。
「うっ……!」
蒸気が立ち込めた、その瞬間。
シミアは、ミリエルの、抑えた悲鳴を、聞いた。
濃霧が晴れる。
ミリエルが、左肩を、必死に押さえていた。
一本の短剣が、その血肉に、深く、突き刺さっている。
殷紅の血が、雪のように白い腕を伝って、ぽたぽたと流れ落ちていた。
とうに、血で濡れた、泥の上へと。
「ミリエル!」
「シミア、逃げなさい」
ミリエルの顔色は、紙のように白い。
精巧な人形のように、整ったその顔が、苦痛に歪んでいた。
「魔力が……これほどの浪費には耐えられない……私が、時間を稼ぐから……!」
彼女は、無理やり、笑みを作ってみせた。
だが、その体は、ぐらりと、よろめいた。
逃げる?
この、傷だらけの女王を、殿にして、自分だけ、逃げろと?
シミアは、震える彼女の背中を見る。
肩から、血が滲む、その傷を見る。
否。
彼女の答えは、最初から、決まっていた。
「いや」
シミアは、手にしていた長槍を握り締めると、ミリエルの隣に立ち、その体を、自らの体で、支えた。
「私は、最後まで戦う」
ミリエルは、驚いて彼女を見た。
そして、弱々しく、笑った。
「そう……なら、ここで、一緒に死ぬのも、悪くないわね」
二人は、背中を合わせる。
まるで、無数の悪鬼が潜むかのような、茫々たる雨の幕に、向き直って。
シミアは、背後で、ミリエルの、激痛と脱力で、ますます重くなる、喘ぎを、はっきりと感じていた。
手に馴染まない、長槍。
氷のように冷たく、ずしりと重い。
本当に、これで、あの、幽霊のような敵に、勝てるのだろうか?
(『――あなたの力は……誰にも、代わることのできないもの……あなたの武器は、私たちを、勝利へと、導いてくれる』)
シメールの言葉が、耳元で蘇る。
(私の、武器……いったい、何?)
シミアは、目を閉じた。
世界が、一瞬で、音を失う。
そこには、ただ、純粋な闇だけが、広がっていた。
闇の中、一つの声が響いた。
それは、もう一人の自分。絶対的な理性の、シミアの声。
『――本当に、すべての手を、尽くしたの?』
(尽くした……衛兵は、皆、死んでしまった……ミリエルも……)
『――いいえ。考え直しなさい、シミア。あなたの武器は、『頭脳』。あなたが、観察した、すべてを、思い出すのよ!』
声が、消えた。
無数の、映像の断片が、闇の中で、浮かび上がり、再構成されていく。
――最初の襲撃。シャルが突き飛ばされ、植木鉢が、落ちてきた。直後、空から、何の兆候もなく、豪雨が降ってきた。
(どうして……よりによって、あの直後に、雨が?)
――クラウディアとライナスとの、戦略教室での、事件分析。
『――『事故』に見せかけるというのは、最も愚かな選択肢ですよ』
ライナスの言葉が、あまりにも、鮮明だ。
『――落下する植木鉢には、制御不能な要素が多すぎる……』
(――除非、刺客は、何か、必ず成功すると、確信できる要素を、知っていた、としたら!)
(――刺客が、何か、必ず成功すると確信できる要素を知っていた、としたら!)
――バイロン家の村。女王の演説。村人に偽装した間諜が、暴き出される。直後、またしても、あの、あまりにも都合のいい、万物を潤す、雨が。
(種蒔き祭は、いつも雨が降る)
雨……雨……雨!
すべての手がかりが、この、一見、最も、取るに足らない、しかし、常に、そこにあった、光景へと、繋がっていく!
(もし……刺客はいつでも、姿を消せるわけじゃないとしたら……? ――雨の中にいる時だけ、姿を消せるとしたら?)
シミアは、はっと、目を見開いた。
闇が、潮のように引いていく。
背後の、ミリエルの、重い喘ぎ。
周りの、冷たい雨粒。
すべてが、あまりにも、明確になった。
大胆不敵で、狂気じみた計画が、彼女の脳内で、形を成していく。
「ミリエル……」
「ええ……どうしたの……」
背後から、ミリエルの、弱々しい返事が、聞こえた。
「あなたは、言ったわよね。誰も、同時に、二つの魔法を使うことはできない、と」
「どうして……急に、そんなことを……」
ミリエルは、また、数枚の氷晶を放ったが、やはり、何の成果もなかった。
「はい……同時に……使えるのは、一つだけ……」
「なら、雨を、止ませる魔法は、ある?」
「ない……天候を、変えるには……特殊な魔法が……私の魔力は、もう、限界……」
「わかったわ」
シミアの声が、絶対的な、冷静さを取り戻した。
「ミリエル、天候を変える必要はない。ただ……雨が、私たちの頭上に、落ちてくるのを、防いでほしい。一分……いいえ、三十秒でいい! そして、すぐに次の攻撃を!」
「……わかった」
ミリエルは、傷ついていない、右手を、掲げた。
全ての攻撃を、放棄する。
残された、すべての魔力を、その掌に、集約させた!
骨身に染みる、冷気が、天へと、立ち昇る。
周りの温度が、急激に、低下した!
降り続いていた雨の幕が、まるで、見えない天蓋に、ぶつかったかのように。
落下していた雨粒が、二人の頭上、数メートルの空中で、一瞬にして、凍りついた!
一滴、十滴、数百、数千滴……。
無数の、冷たい光を放つ、氷晶でできた、巨大で、華麗な天蓋が、戦場の中心に、静かに、形を成していく!
陽光が、雲を突き抜け、この、水晶の宮殿に、降り注ぎ、千万の、絢爛たる光を、乱反射させた。
そして、その、もはや、雨水の遮蔽のない、光り輝く『舞台』の中央で。
黒い外套を纏った、その人影が、呆然と、白日の下に、その姿を、晒していた。
彼は、短剣を構え、その顔は、ただ、愕然としていた。
「――今よ! 雷で!」
ミリエルは、心得ていた。
とうに、準備していた雷光が、その指先に、凝縮される!
一本の、黒い稲妻が、空気を引き裂き、正確に、刺客の体へと、叩きつけられた!
「あああああ――ッ!」
凄まじい絶叫が、森に響き渡る。
刺客は、全身を痙攣させながら、地面に、膝をついた。
焦げ臭い、黒煙が、その体から、立ち昇る。
彼が、どうにか、顔を上げようとした、その瞬間――
「――動くな」
シミアの、氷のように冷たい声が、まるで、最後の審判のように、響いた。
長槍の、鋭い穂先が、すでに、彼の喉元に、ぴたりと、据えられていた。
「ふん……」
刺客は、冷笑を一つ漏らすと、ぐっと、体を低くした。
短剣から放たれた、一筋の冷光が、その袖の中から、射出され、まっすぐに、シミアの心臓へと、向かう!
だが、一枚の氷晶が、それよりも、速く、後から追いつき、正確に、その冷光を、打ち砕いた。
続いて、もう一枚の氷晶が、飛来し、彼が武器を握る、その手首の上で、轟然と、炸裂した!
刺客の、最後の抵抗が、徒労に終わると共に。
空に浮かんでいた、あの、氷晶の天蓋もまた、ついに、その限界を迎え、音もなく、砕け散った。
凍結されていた雨水が、再び、降り注ぎ、この、荒れ果てた戦場を、洗い流していく。
そして、その雨の幕の、向こう側。
遠くの空に、一つの、絢爛たる虹が、かかっていた。