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ゼロから始める軍神少女  作者:
第二巻 種蒔き季の盤上
119/121

種蒔き季、当日(二)

広い街道。その中央に、根こそぎにされた数本の大木が、無造作に転がっていた。

土と、引き千切られた根が絡みつき、馬車の行く手を完全に塞いでいる。

降り続く雨が、掘り起こされたばかりの土をぬかるみへと変え、そのバリケードを、より一層、絶望的なものに見せていた。


トリンドルは馬車から降り立つ。

冷たい雨粒が、収穫期の麦の穂にも似た彼女の金髪を、瞬く間に濡らした。

顔を上げると、道の両脇、深い霧に包まれた森の影から、農民の服を着た無数の人影が、ゆっくりと姿を現すところだった。

血の匂いを嗅ぎつけた狼の群れのように、音もなく、包囲網が完成していく。


バセス執事が、馬上のまま、沈黙の鉄塔の如くトリンドルの前に立ちはだかった。

そのすぐ後ろでは、四、五十名の屈強な衛兵たちが、馬車から次々と降り立ち、隊列を組む。

エグモント家が誇る、最精鋭の衛兵隊だ。

彼らは素早く槍衾を形成する。鈍色の空の下、白刃の槍先がずらりと並び、まるで鋼鉄の森のような、冷たい光を放っていた。


「お嬢様、どうやらシミア様の予感が的中したようでございますな」

バセスの声は、どこまでも落ち着いている。目の前にいる百人以上の敵が、まるで道端の石ころであるかのように。


トリンドルは、ふふん、と胸を張った。

その顔に恐怖の色はない。むしろ、誇らしげな笑みさえ浮かべている。

「シミアが間違うはずないわ。だって彼女は、わたくしが一番誇りに思う騎士なんですもの」


「お嬢様は馬車の中へ。ここは、我々にお任せを」

「嫌よ」

トリンドルは首を振った。

すっと右手を掲げる。その指先に、銀色の蛇のような細い稲妻が、ぱちぱちと迸った。

やがて、それは掌の中央に収束し、危険な音を立てて煌めく。

「主人が後ろで大人しく隠れてるなんて家訓、わたくしたちエグモント家にはないの」


いつの間にか、レインがトリンドルの隣に立っていた。

彼は、従者の証である白い手袋を外す。

すると、何もないはずの彼の掌の上に、心臓が凍るほどに鋭利な氷の結晶が、ふわりと浮かび上がった。刺すような冷気が、あたりに満ちる。


トリンドルは、目を丸くして、普段は馬の手綱を握るだけのはずの、専属〝御者〟を見つめた。

「あなた……ただの御者じゃなかったのね?」


レインは、僅かに身を屈め、完璧な礼をしてみせる。

「お嬢様。わたくしは、屋敷にいる数百名の護衛の中から選ばれ、あなた様をお守りする資格を得た身。手綱を握るしか能がないのでしたら、この給金に顔向けできませぬ」


その時、刺客の群れの中から、がっしりとした体躯の中年男が、一歩前に進み出た。

眉から口元にかけて走る大きな刀傷が、彼の野太い声に合わせて、不気味に蠢く。

「馬車に乗ってんのは、トリンドル・エグモントのお嬢様か? 今すぐ降伏すりゃあ、慈悲で命だけは助けてやってもいいぜ!」


トリンドルは、バセスの護衛を押し退け、殺意に満ちた視線を真っ直ぐに受け止めながら、一歩、前に出た。

「カシウスの狗め! このトリンドル・エグモントと鉢合わせるなんて、運が悪かったわね。よりにもよって、このわたくしを相手に選ぶなんて! あいつがシミアに与えた苦痛、十倍、百倍にして返してあげる!」


「ほう?」

シスと呼ばれた男の目に、一瞬だけ驚きの色が浮かぶ。

「どうやら、事情は知ってるらしいな。だが小娘、一つ勘違いしてるぜ。俺たちとカシウスは、てめえが思うような上下関係じゃねえ。ま、どうせ今日ここで死ぬんだ、いいことを教えてやる――俺は〝静寂の刃〟傭兵団、副団長のシスだ。降伏する気がないなら、こっちも手荒くいくしかねえなあ!」


男が、猛々しく腕を振り上げた。

次の瞬間、農民に扮した百人以上の刺客が、まるで堰を切った洪水のように、四方八方から鬨の声を上げて殺到した!


「ふんっ!」

トリンドルは鼻を鳴らす。

その手から放たれた雷の球が、唸りを上げて飛翔し、最も前を走っていた三人のちょうど真ん中で、炸裂した!

凄まじい電弧が、男たちの体を一瞬にして貫く。

悲鳴と共に、三つの影が、泥濘の中へと崩れ落ちた。

ほぼ、同時。

レインの掌から放たれた氷の結晶が、白い閃光となって雨を切り裂き、刺客の一人が握る武器の手首を、正確に撃ち抜いた!

氷が砕け散り、鋭い衝撃波が迸る。

刺客は低く呻き、その手から、だらりと刀が滑り落ちた。


だが。

個人の武勇など、絶対的な数の前では、あまりにも無力。

刺客たちは、倒れた仲間の体を踏み越え、死を恐れぬ勢いで、なおも突撃してくる!


「陣形を維持! 突けッ!」

バセスの号令一下。

前列の槍兵たちが、一糸乱れぬ動きで一歩踏み込み、その長槍を繰り出す。

毒蛇の舌のように伸びた穂先が、第一陣の敵の胸を、次々と貫いた!

だが、槍を引き戻すよりも早く、後続の刺客が、仲間の体を踏み台にして槍の森を飛び越え、陣の中央へと、強引に突入してくる!


白兵戦となった瞬間、長槍の不利が、露わになる。

耳障りな金属音が響き渡り、最初の槍兵が、血飛沫を上げて倒れた。

防衛線に、小さな、しかし致命的な亀裂が生じる。


バセスは馬から飛び降りると、兵士から長槍を受け取った。

その手に握られた槍は、まるで生命を宿したかのようだ。

一振りごとに、一突きごとに、致命的な閃光を放ち、的確に敵の喉笛を貫いていく。


彼が、陣形を立て直そうとした、その刹那。

風を切り裂く轟音と共に、重厚な両手剣が、死角から、彼の槍先を正確に叩き潰した!


刀傷のある、シスの顔が、すぐ目の前にあった。

「ジジイ、ちっとばかし腕が立つからって、戦局が覆せると思うなよ! てめえらみてえな少数、俺たちの歯牙にもかからねえぜ!」


シスが、勝ち誇った笑みを浮かべた、その時。

灼熱の火球が、天から降り注いだ!

シスの顔色が変わる。咄嗟に大剣を掲げて防御するが、爆炎が、その剣を真っ赤に染め上げた。灼熱の風圧に、彼はたまらず数歩後退する。


バセスはその好機を逃さない。

だが、彼が態勢を整えるよりも早く、天から、高速で回転する水の球が降り注ぎ、トリンドルが放った追撃の炎を、正確に掻き消した。


「破魔小隊! あの小娘を抑えろ!」

シスの怒号が響く。

後方に控えていた刺客の中から、数名が、即座に詠唱を開始した。

属性の異なる数発の魔法弾が、唸りを上げてトリンドルへと殺到する!

レインの氷晶が再び宙を舞い、巨大な氷の壁となって、そのほとんどを防いだ。

だが、一発の火球が、壁の隙間をすり抜け――エグモント家の栄光を象徴する、華麗な馬車に、直撃した!


轟音。

炎が、一瞬にして馬車を飲み込んだ。


トリンドルは、燃え盛る炎を、信じられないものを見るように見つめていた。

脳裏に、シミアの、心配そうな顔が、一瞬だけよぎる。

(――戦争で、最初に破壊されるのは、いつだって意志の力……)

振り返る。

エグモント家の槍衾は、刺客たちの決死の突撃によって、すでに崩壊寸前だった。

兵士たちが、次々と倒れていく。

形勢は、一気に、最悪の方向へと傾いていた。

ぐっと手を掲げ、より強大な魔力を練り上げようとする。

だが、指先に迸るのは、制御不能な炎と雷。

あれほど誇りに思っていた力が、今はまるで、荒れ狂う獣のように、体内で暴れ回るだけだった。

(どうして……こんな、肝心な時に……!)

〝絶望〟という名の、冷たい感情が、彼女の心臓を、鷲掴みにした。



シミアは窓辺に座り、雨に煙る森が、猛スピードで後ろへ流れていくのを、ただぼんやりと眺めていた。

馬車が揺れるたび、軽い眩暈を覚える。

手すりを握りしめた指の関節が、白く、色を失っていた。


突如、馬車が、何の前触れもなく、ゆっくりと速度を落とした。

そして、ぬかるんだ道の真ん中で、完全に停止する。

「シミア様、道が……塞がっております」

御者の声が、緊張に強張っていた。


シミアは、馬車の扉を押し開ける。

雨と泥が混じった、冷たい空気が、顔に吹き付けた。

前方に、数本の大木が転がり、道を完全に塞いでいる。

濃密な、不吉な予感が、胸の奥から湧き上がってきた。


「引き返して! 元の道を!」

彼女は、即座に決断を下した。

「はっ……」

兵士が応えようとした、その瞬間。

雨の幕を切り裂いて、血色の、見えない弧が、きらりと光った。


生暖かい液体が、ぱしゃり、とシミアの頬に跳ねる。

無意識に、手で拭う。

指先に伝わる、ぬるりとした感触。

視線を上げた、その先。

目に映った、鮮烈な赤に、彼女の瞳孔が、きゅっと収縮した。


御者の上半身と下半身が、ありえない角度にずれている。

やがて、その体は、まるで、真っぷたつに斬られた麻袋のように、力なく運転席から滑り落ちた。


「敵襲!」

シミアの絶叫は、雷鳴に掻き消された。

「その場で防御! 馬車を背に、槍を構えて!」


残された三人の兵士は、仲間の無残な死に、まだ呆然としている。

だが、シミアの、有無を言わさぬ命令に、彼らは、ほとんど本能的に動き出した。

素早く手綱を断ち切り、怯える馬を追い払う。

そして、頑丈な車体を背にして、三本の槍で、かろうじて、脆い防衛線を築いた。


雨脚が、強くなる。

シミアは、兵士たちの背後に身を隠し、激しく鼓動する心臓を、必死に抑えていた。

兵士の肩越しに、霧深い森を、睨みつける。

兵士たちの荒い呼吸の他には、ただ、雨が馬車の屋根を叩く、「ぱた、ぱた」という音だけが、世界を支配していた。


雨水が、黒髪を伝い、襟元から滑り落ちる。

その冷たさに、体が、ぶるりと震えた。


突如――

「ぐ、あぁっ!」

目の前の兵士の一人が、苦悶の声を漏らし、よろめきながら、その場に膝をついた。


「どうしたの!?」

シミアは、慌ててその体に駆け寄る。

兵士の鎧に、傷はない。

だが、その胸には、まるで、何もない場所から抉り出されたかのように、骨まで達する深い傷口が、口を開けていた。

夥しい量の血が、その隙間から、ごぼごぼと溢れ出している。

兵士は、シミアを見つめ、何かを伝えようと手を伸ばした。その目には、言葉にならない恐怖が宿っている。

「シミア、様……にげ……」

それが、彼の最期の言葉だった。


見えない、敵……!


シミアの頭が、高速で回転する。

少し離れた場所で、苛立たしげに蹄を鳴らす二頭の馬。

それを見て、彼女は、瞬時に決断を下した。

「あなたたち、馬には乗れる!?」

「乗れます! シミア様、早く……!」


兵士の言葉は、最後まで続かなかった。

肉を断ち、骨を砕く、耳障りな音が響く。

彼は、信じられない、というように、自らの腹部を見下ろした。

そこには、先ほどの仲間と、まったく同じ傷口が、ぽっかりと空いていた。

口を、はくぱくと動かすが、声にならない。

ただ、悔しそうに、シミアの足元に崩れ落ちた。


「コット! 逃げて!」

シミアは、すでに顔面蒼白になっている、最後の兵士に向かって叫んだ。

「馬に乗るのよ! 早く!」


死の恐怖が、すべての躊躇を吹き飛ばした。

コットと呼ばれた兵士は、槍を投げ捨て、豹のような速さで、二頭の馬へと駆け出す。

彼は、手慣れた様子で馬に飛び乗ると、力任せに手綱を引いた。

馬がいななく。

無理やり方向転換させられた馬の、怯えた瞳に、シミアの小さな姿が、映り込んでいた。


「こっちに来ないで! 行きなさい!」


シミアが、そう叫び切った、瞬間。

見えない、巨大な弧が、雨の帳を、薙ぎ払った。


悲痛な絶叫と共に、駿馬は、その背に乗せた騎手もろとも、見えない力によって、真っぷたつに、両断された。

温かい血と内臓が、冷たい雨に混じって、あたり一面に、ぶちまけられる。


見えざる血の刃は、その使命を終えたかのように、カラン、と軽い音を立て、ついにその実体を現した。

血に濡れた、奇妙な形状の戦刃が、ぬかるみの中に、転がっている。


シミアは、何もない空間を、ただ、呆然と見つめていた。

ぴちゃ、ぴちゃ……。

足音が、聞こえる。

雨に濡れた、ぬかるんだ地面に、何もないはずの場所から、次々と、はっきりとした足跡が、浮かび上がってくる。

ゆっくりと、こちらへ、近づいてくる。


『――そもそも、学院内を自由に動ける人物ではない』

クラウディアの、鋭い分析が、今は、冷たい、嘲笑のように、脳内で響いた。

目の前の敵は、〝自由に動く〟必要すらないのだ。

まるで、別次元を歩く幽霊のように、気まぐれに、命を刈り取ることができる。


「あなたが……植木鉢を落としたのね?」

シミアは、透明な雨の幕に向かって、尋ねた。

その声は、恐怖に、微かに震えている。


「そうだ」


低く、嗄れた、感情の欠片もない男の声が、答えた。

足跡が、止まる。

シミアの目の前に、ミリエルとトリンドルの、心配そうな顔が、浮かんで、消えた。


「わ……わたくしを、殺しに来たの?」

声は、答えない。

だが、雨水を踏みしめる足音が、再び、こちらへ近づいてくるのが、はっきりと聞こえた。


足元に転がる、まだ温かい、四つの亡骸を見下ろす。

巨大な、〝無力感〟という感情が、彼女の心を、完全に、支配した。

(そうか……そういうこと……)

(わたくしの戦術も、知恵も、何もかも……こんな、理不尽な力の前では……意味がないんだ……)


ようやく、理解した。

カシウスの、本当の狙い。

それは、最初から、自分一人だけだったのだ。


「わたくしが……カシウスの、本当の標的……?」

「そうだ」


その答えに、絶望に染まるはずのシミアの顔に、逆に、諦めたような、自嘲の笑みが浮かんだ。

(完敗……だわ)

彼女は、すべての抵抗を諦め、ゆっくりと、目を閉じた。

耳に届くのは、ただ、降りしきる雨の音と。

すぐそこまで迫った、死神の、足音だけ。


クラウディア、ライナス、レイン、シメール、シャル、トリンドル……そして……ミリエル……。

一人ひとりの顔が、脳裏を駆け巡り、最後に、あの女王の、いつもどこか孤独で、けれど、誰よりも強い、あの微笑みに、定着した。

(ごめんなさい……約束……守れなかった……)


耳元で、鋭い、風切り音が、響いた。

死が、すぐそこに、ある。


(――間に合ええええええええッ!!!)


なぜだろう。

意識が、暗闇に落ちる、最後の、最後の瞬間。

耳の奥で、聞き慣れた、あの女王の、魂を振り絞るような、絶叫が、聞こえた気がした。

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