種蒔き季、当日(二)
広い街道。その中央に、根こそぎにされた数本の大木が、無造作に転がっていた。
土と、引き千切られた根が絡みつき、馬車の行く手を完全に塞いでいる。
降り続く雨が、掘り起こされたばかりの土をぬかるみへと変え、そのバリケードを、より一層、絶望的なものに見せていた。
トリンドルは馬車から降り立つ。
冷たい雨粒が、収穫期の麦の穂にも似た彼女の金髪を、瞬く間に濡らした。
顔を上げると、道の両脇、深い霧に包まれた森の影から、農民の服を着た無数の人影が、ゆっくりと姿を現すところだった。
血の匂いを嗅ぎつけた狼の群れのように、音もなく、包囲網が完成していく。
バセス執事が、馬上のまま、沈黙の鉄塔の如くトリンドルの前に立ちはだかった。
そのすぐ後ろでは、四、五十名の屈強な衛兵たちが、馬車から次々と降り立ち、隊列を組む。
エグモント家が誇る、最精鋭の衛兵隊だ。
彼らは素早く槍衾を形成する。鈍色の空の下、白刃の槍先がずらりと並び、まるで鋼鉄の森のような、冷たい光を放っていた。
「お嬢様、どうやらシミア様の予感が的中したようでございますな」
バセスの声は、どこまでも落ち着いている。目の前にいる百人以上の敵が、まるで道端の石ころであるかのように。
トリンドルは、ふふん、と胸を張った。
その顔に恐怖の色はない。むしろ、誇らしげな笑みさえ浮かべている。
「シミアが間違うはずないわ。だって彼女は、わたくしが一番誇りに思う騎士なんですもの」
「お嬢様は馬車の中へ。ここは、我々にお任せを」
「嫌よ」
トリンドルは首を振った。
すっと右手を掲げる。その指先に、銀色の蛇のような細い稲妻が、ぱちぱちと迸った。
やがて、それは掌の中央に収束し、危険な音を立てて煌めく。
「主人が後ろで大人しく隠れてるなんて家訓、わたくしたちエグモント家にはないの」
いつの間にか、レインがトリンドルの隣に立っていた。
彼は、従者の証である白い手袋を外す。
すると、何もないはずの彼の掌の上に、心臓が凍るほどに鋭利な氷の結晶が、ふわりと浮かび上がった。刺すような冷気が、あたりに満ちる。
トリンドルは、目を丸くして、普段は馬の手綱を握るだけのはずの、専属〝御者〟を見つめた。
「あなた……ただの御者じゃなかったのね?」
レインは、僅かに身を屈め、完璧な礼をしてみせる。
「お嬢様。わたくしは、屋敷にいる数百名の護衛の中から選ばれ、あなた様をお守りする資格を得た身。手綱を握るしか能がないのでしたら、この給金に顔向けできませぬ」
その時、刺客の群れの中から、がっしりとした体躯の中年男が、一歩前に進み出た。
眉から口元にかけて走る大きな刀傷が、彼の野太い声に合わせて、不気味に蠢く。
「馬車に乗ってんのは、トリンドル・エグモントのお嬢様か? 今すぐ降伏すりゃあ、慈悲で命だけは助けてやってもいいぜ!」
トリンドルは、バセスの護衛を押し退け、殺意に満ちた視線を真っ直ぐに受け止めながら、一歩、前に出た。
「カシウスの狗め! このトリンドル・エグモントと鉢合わせるなんて、運が悪かったわね。よりにもよって、このわたくしを相手に選ぶなんて! あいつがシミアに与えた苦痛、十倍、百倍にして返してあげる!」
「ほう?」
シスと呼ばれた男の目に、一瞬だけ驚きの色が浮かぶ。
「どうやら、事情は知ってるらしいな。だが小娘、一つ勘違いしてるぜ。俺たちとカシウスは、てめえが思うような上下関係じゃねえ。ま、どうせ今日ここで死ぬんだ、いいことを教えてやる――俺は〝静寂の刃〟傭兵団、副団長のシスだ。降伏する気がないなら、こっちも手荒くいくしかねえなあ!」
男が、猛々しく腕を振り上げた。
次の瞬間、農民に扮した百人以上の刺客が、まるで堰を切った洪水のように、四方八方から鬨の声を上げて殺到した!
「ふんっ!」
トリンドルは鼻を鳴らす。
その手から放たれた雷の球が、唸りを上げて飛翔し、最も前を走っていた三人のちょうど真ん中で、炸裂した!
凄まじい電弧が、男たちの体を一瞬にして貫く。
悲鳴と共に、三つの影が、泥濘の中へと崩れ落ちた。
ほぼ、同時。
レインの掌から放たれた氷の結晶が、白い閃光となって雨を切り裂き、刺客の一人が握る武器の手首を、正確に撃ち抜いた!
氷が砕け散り、鋭い衝撃波が迸る。
刺客は低く呻き、その手から、だらりと刀が滑り落ちた。
だが。
個人の武勇など、絶対的な数の前では、あまりにも無力。
刺客たちは、倒れた仲間の体を踏み越え、死を恐れぬ勢いで、なおも突撃してくる!
「陣形を維持! 突けッ!」
バセスの号令一下。
前列の槍兵たちが、一糸乱れぬ動きで一歩踏み込み、その長槍を繰り出す。
毒蛇の舌のように伸びた穂先が、第一陣の敵の胸を、次々と貫いた!
だが、槍を引き戻すよりも早く、後続の刺客が、仲間の体を踏み台にして槍の森を飛び越え、陣の中央へと、強引に突入してくる!
白兵戦となった瞬間、長槍の不利が、露わになる。
耳障りな金属音が響き渡り、最初の槍兵が、血飛沫を上げて倒れた。
防衛線に、小さな、しかし致命的な亀裂が生じる。
バセスは馬から飛び降りると、兵士から長槍を受け取った。
その手に握られた槍は、まるで生命を宿したかのようだ。
一振りごとに、一突きごとに、致命的な閃光を放ち、的確に敵の喉笛を貫いていく。
彼が、陣形を立て直そうとした、その刹那。
風を切り裂く轟音と共に、重厚な両手剣が、死角から、彼の槍先を正確に叩き潰した!
刀傷のある、シスの顔が、すぐ目の前にあった。
「ジジイ、ちっとばかし腕が立つからって、戦局が覆せると思うなよ! てめえらみてえな少数、俺たちの歯牙にもかからねえぜ!」
シスが、勝ち誇った笑みを浮かべた、その時。
灼熱の火球が、天から降り注いだ!
シスの顔色が変わる。咄嗟に大剣を掲げて防御するが、爆炎が、その剣を真っ赤に染め上げた。灼熱の風圧に、彼はたまらず数歩後退する。
バセスはその好機を逃さない。
だが、彼が態勢を整えるよりも早く、天から、高速で回転する水の球が降り注ぎ、トリンドルが放った追撃の炎を、正確に掻き消した。
「破魔小隊! あの小娘を抑えろ!」
シスの怒号が響く。
後方に控えていた刺客の中から、数名が、即座に詠唱を開始した。
属性の異なる数発の魔法弾が、唸りを上げてトリンドルへと殺到する!
レインの氷晶が再び宙を舞い、巨大な氷の壁となって、そのほとんどを防いだ。
だが、一発の火球が、壁の隙間をすり抜け――エグモント家の栄光を象徴する、華麗な馬車に、直撃した!
轟音。
炎が、一瞬にして馬車を飲み込んだ。
トリンドルは、燃え盛る炎を、信じられないものを見るように見つめていた。
脳裏に、シミアの、心配そうな顔が、一瞬だけよぎる。
(――戦争で、最初に破壊されるのは、いつだって意志の力……)
振り返る。
エグモント家の槍衾は、刺客たちの決死の突撃によって、すでに崩壊寸前だった。
兵士たちが、次々と倒れていく。
形勢は、一気に、最悪の方向へと傾いていた。
ぐっと手を掲げ、より強大な魔力を練り上げようとする。
だが、指先に迸るのは、制御不能な炎と雷。
あれほど誇りに思っていた力が、今はまるで、荒れ狂う獣のように、体内で暴れ回るだけだった。
(どうして……こんな、肝心な時に……!)
〝絶望〟という名の、冷たい感情が、彼女の心臓を、鷲掴みにした。
◇
シミアは窓辺に座り、雨に煙る森が、猛スピードで後ろへ流れていくのを、ただぼんやりと眺めていた。
馬車が揺れるたび、軽い眩暈を覚える。
手すりを握りしめた指の関節が、白く、色を失っていた。
突如、馬車が、何の前触れもなく、ゆっくりと速度を落とした。
そして、ぬかるんだ道の真ん中で、完全に停止する。
「シミア様、道が……塞がっております」
御者の声が、緊張に強張っていた。
シミアは、馬車の扉を押し開ける。
雨と泥が混じった、冷たい空気が、顔に吹き付けた。
前方に、数本の大木が転がり、道を完全に塞いでいる。
濃密な、不吉な予感が、胸の奥から湧き上がってきた。
「引き返して! 元の道を!」
彼女は、即座に決断を下した。
「はっ……」
兵士が応えようとした、その瞬間。
雨の幕を切り裂いて、血色の、見えない弧が、きらりと光った。
生暖かい液体が、ぱしゃり、とシミアの頬に跳ねる。
無意識に、手で拭う。
指先に伝わる、ぬるりとした感触。
視線を上げた、その先。
目に映った、鮮烈な赤に、彼女の瞳孔が、きゅっと収縮した。
御者の上半身と下半身が、ありえない角度にずれている。
やがて、その体は、まるで、真っぷたつに斬られた麻袋のように、力なく運転席から滑り落ちた。
「敵襲!」
シミアの絶叫は、雷鳴に掻き消された。
「その場で防御! 馬車を背に、槍を構えて!」
残された三人の兵士は、仲間の無残な死に、まだ呆然としている。
だが、シミアの、有無を言わさぬ命令に、彼らは、ほとんど本能的に動き出した。
素早く手綱を断ち切り、怯える馬を追い払う。
そして、頑丈な車体を背にして、三本の槍で、かろうじて、脆い防衛線を築いた。
雨脚が、強くなる。
シミアは、兵士たちの背後に身を隠し、激しく鼓動する心臓を、必死に抑えていた。
兵士の肩越しに、霧深い森を、睨みつける。
兵士たちの荒い呼吸の他には、ただ、雨が馬車の屋根を叩く、「ぱた、ぱた」という音だけが、世界を支配していた。
雨水が、黒髪を伝い、襟元から滑り落ちる。
その冷たさに、体が、ぶるりと震えた。
突如――
「ぐ、あぁっ!」
目の前の兵士の一人が、苦悶の声を漏らし、よろめきながら、その場に膝をついた。
「どうしたの!?」
シミアは、慌ててその体に駆け寄る。
兵士の鎧に、傷はない。
だが、その胸には、まるで、何もない場所から抉り出されたかのように、骨まで達する深い傷口が、口を開けていた。
夥しい量の血が、その隙間から、ごぼごぼと溢れ出している。
兵士は、シミアを見つめ、何かを伝えようと手を伸ばした。その目には、言葉にならない恐怖が宿っている。
「シミア、様……にげ……」
それが、彼の最期の言葉だった。
見えない、敵……!
シミアの頭が、高速で回転する。
少し離れた場所で、苛立たしげに蹄を鳴らす二頭の馬。
それを見て、彼女は、瞬時に決断を下した。
「あなたたち、馬には乗れる!?」
「乗れます! シミア様、早く……!」
兵士の言葉は、最後まで続かなかった。
肉を断ち、骨を砕く、耳障りな音が響く。
彼は、信じられない、というように、自らの腹部を見下ろした。
そこには、先ほどの仲間と、まったく同じ傷口が、ぽっかりと空いていた。
口を、はくぱくと動かすが、声にならない。
ただ、悔しそうに、シミアの足元に崩れ落ちた。
「コット! 逃げて!」
シミアは、すでに顔面蒼白になっている、最後の兵士に向かって叫んだ。
「馬に乗るのよ! 早く!」
死の恐怖が、すべての躊躇を吹き飛ばした。
コットと呼ばれた兵士は、槍を投げ捨て、豹のような速さで、二頭の馬へと駆け出す。
彼は、手慣れた様子で馬に飛び乗ると、力任せに手綱を引いた。
馬がいななく。
無理やり方向転換させられた馬の、怯えた瞳に、シミアの小さな姿が、映り込んでいた。
「こっちに来ないで! 行きなさい!」
シミアが、そう叫び切った、瞬間。
見えない、巨大な弧が、雨の帳を、薙ぎ払った。
悲痛な絶叫と共に、駿馬は、その背に乗せた騎手もろとも、見えない力によって、真っぷたつに、両断された。
温かい血と内臓が、冷たい雨に混じって、あたり一面に、ぶちまけられる。
見えざる血の刃は、その使命を終えたかのように、カラン、と軽い音を立て、ついにその実体を現した。
血に濡れた、奇妙な形状の戦刃が、ぬかるみの中に、転がっている。
シミアは、何もない空間を、ただ、呆然と見つめていた。
ぴちゃ、ぴちゃ……。
足音が、聞こえる。
雨に濡れた、ぬかるんだ地面に、何もないはずの場所から、次々と、はっきりとした足跡が、浮かび上がってくる。
ゆっくりと、こちらへ、近づいてくる。
『――そもそも、学院内を自由に動ける人物ではない』
クラウディアの、鋭い分析が、今は、冷たい、嘲笑のように、脳内で響いた。
目の前の敵は、〝自由に動く〟必要すらないのだ。
まるで、別次元を歩く幽霊のように、気まぐれに、命を刈り取ることができる。
「あなたが……植木鉢を落としたのね?」
シミアは、透明な雨の幕に向かって、尋ねた。
その声は、恐怖に、微かに震えている。
「そうだ」
低く、嗄れた、感情の欠片もない男の声が、答えた。
足跡が、止まる。
シミアの目の前に、ミリエルとトリンドルの、心配そうな顔が、浮かんで、消えた。
「わ……わたくしを、殺しに来たの?」
声は、答えない。
だが、雨水を踏みしめる足音が、再び、こちらへ近づいてくるのが、はっきりと聞こえた。
足元に転がる、まだ温かい、四つの亡骸を見下ろす。
巨大な、〝無力感〟という感情が、彼女の心を、完全に、支配した。
(そうか……そういうこと……)
(わたくしの戦術も、知恵も、何もかも……こんな、理不尽な力の前では……意味がないんだ……)
ようやく、理解した。
カシウスの、本当の狙い。
それは、最初から、自分一人だけだったのだ。
「わたくしが……カシウスの、本当の標的……?」
「そうだ」
その答えに、絶望に染まるはずのシミアの顔に、逆に、諦めたような、自嘲の笑みが浮かんだ。
(完敗……だわ)
彼女は、すべての抵抗を諦め、ゆっくりと、目を閉じた。
耳に届くのは、ただ、降りしきる雨の音と。
すぐそこまで迫った、死神の、足音だけ。
クラウディア、ライナス、レイン、シメール、シャル、トリンドル……そして……ミリエル……。
一人ひとりの顔が、脳裏を駆け巡り、最後に、あの女王の、いつもどこか孤独で、けれど、誰よりも強い、あの微笑みに、定着した。
(ごめんなさい……約束……守れなかった……)
耳元で、鋭い、風切り音が、響いた。
死が、すぐそこに、ある。
(――間に合ええええええええッ!!!)
なぜだろう。
意識が、暗闇に落ちる、最後の、最後の瞬間。
耳の奥で、聞き慣れた、あの女王の、魂を振り絞るような、絶叫が、聞こえた気がした。