種蒔き季、当日(一)
ガタガタと、馬車がぬかるんだ道を進んでいく。
車輪が水たまりを踏みしめるたび、濁った泥水が派手に跳ね上がった。
トリンドルは窓辺に寄りかかり、雨に煙る森をじっと見つめている。
空は低く垂れこめ、今にも崩れ落ちて、この鬱蒼とした樹海ごと、小さな馬車を飲み込んでしまいそうだった。
深い霧が林の間に立ち込め、一本一本の木が、何かをたくらむ不気味な巨人のように、黙して佇んでいる。
「ねえ、御者さん」
振り返らないまま、トリンドルは呟いた。その声は、重い雨音のせいで、どこか頼りなげに響く。
「シミアのほう、本当に大丈夫なの?」
小さな連絡窓の向こうから、レインの落ち着いた声が返ってきた。
「ご心配なく、お嬢様。女王陛下は一度約束なされば、必ずお守りになります。我々はただ……己のなすべきことを、なすまでです」
ぱちん、と。
一際大きな雨粒が、窓ガラスを強く叩いた。
砕け散ったガラス玉のように、一瞬だけ光が綻ぶ。
その乱反射が、トリンドルの意識を、数日前の朝へと引き戻した。
今とは正反対の、陽光が燦々と降り注ぐ朝だった。
王家図書館。巨大な天窓から、暖かい光の筋が差し込み、空気中に金色の道筋を描き出している。
ミリエルの召見に応じ、トリンドルは、知と陽光に満たされたその聖域へと、足を踏み入れた。
「……シミアは、自分のために護衛を残すなんてこと、絶対にしませんわ」
ミリエルの声には、諦めと、それでいて絶対の確信が混じっていた。
「彼女の計画は、すべてが完璧。ただ一つ、自分自身のことを除いては。だからこそ、わたくしたちが、その最後の、最も重要なピースを埋めなければならないのです」
「誰が行くというの?」トリンドルの眉が、ぐっと寄せられる。「わたくしはもう、エグモント家最精鋭の衛隊をシミアに貸し出すと約束したのに……それに、シメールも、学校に残ってシャルを守ると」
「わたくしが行っては、いけませんか?」
ミリエルの申し出に、トリンドルは信じられない、というように目を見開いた。
少し前まで、自分とあれほど激しく対立していた少女。
拒絶の言葉を口にしようとして、けれど、その理由を何一つ見つけられなかった。
「わたくしが、信じられないのは……わかっています」
ミリエルの声が、ふっと低くなる。悪戯が見つかった子供のように、小さくうつむいた。
「でも、約束します。必ず、彼女を守ってみせます。……駄目、でしょうか?」
その銀色の瞳から、女王の威厳は消え失せていた。
そこにあるのは、ただ純粋な、混じり気のない懇願だけ。
その瞬間、トリンドルの心は、ぐらりと揺れた。
シミアを守りたい。その気持ちが、真っ直ぐな言葉に乗って、痛いほど伝わってくる。
地下牢で、憎しみに囚われたミリィル・ルルトを、シミアがどうやって抱きしめたか。
王都で、シャルを守るために、シミアがどうやってたった一人で戦ったか。
私の誇り高き騎士は、いつもそうだ。
優しさのすべてを他人に与え、危険のすべてを自分一人で背負い込む。
そして目の前の、気高き女王もまた……自分と同じように、その優しさに心を奪われた一人なのだ。
「……わかったわ」
トリンドルは、大きな妥協を強いられたかのように、深いため息をついた。
「あなたのやり方に同意する。でも、約束なさい。絶対に、シミアを守り抜くと。……わかっているでしょうね?」
ミリエルが、こくこくと、力強く頷いた。
「よろしい」トリンドルは、いつもの少しだけ我儘な表情を取り戻す。「もうすぐシミアがお茶会に来るんだから、そんな泣きそうな顔、おやめなさい」
ざあっと、窓の外で風雨が強まる。
その音に、トリンドルははっと我に返った。
「お嬢様、まもなく予定地点に到着します」レインの声が再び響く。「ドドリン隊長にはすでに通達済み。いつでも迎撃できます」
「ええ、わかっているわ……」
トリンドルは短く応えた。
狂風に荒れ狂う樹海を睨みつけながら、その脳裏に、いつも静かで、けれど無限の力を秘めたシミアの姿を思い浮かべる。
小さな拳を、ぎゅっと握りしめる。
その口元には、不敵な、それでいてどこか楽しげな笑みが浮かんでいた。
「せいぜい、派手にやってやりましょうか」
◇
少しだけ、時間を遡る。
ライナス家の村の外れ。
降り続く細雨が、土の匂いと湿った草の香りを運んでくる。
だが、その穏やかな気配も、空気中に張り詰めた、息苦しいほどの緊張感を和らげることはできない。
ドドリン隊長は馬を牽き、シミアの隣を歩いていた。冷たい雨が、彼の鎧を絶え間なく叩き、「ぽつ、ぽつ」と、心臓の鼓動のような規則的な音を立てている。
「シミア様……僭越ながら、これは……あまりにも危険すぎます」
ドドリン隊長の声には、隠しきれない憂慮が滲んでいた。彼はちらりと、少し離れた場所で待機している精鋭騎兵隊に目をやり、それからシミアの背後にある、ぽつんと孤独な一台の馬車を見つめた。
「構いません」
シミアの足取りに、迷いはなかった。
「女王陛下の巡幸ルートの安全は、一時的に確保されました。今、最優先すべきは、トリンドル様の安全です」
「しかし、あなたの護衛はたったの四名! そのうち二名は御者を兼任しているのですよ!?」ドドリンの声が、思わず上ずる。「常軌を逸しております! 万が一、伏兵にでも遭われたら、我々には……!」
「ドドリン隊長」
シミアは、ふと足を止めた。
振り返ったその顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
いつも澄み切っているその瞳が、今は、戦略家だけが持つ、有無を言わさぬ鋭い光を宿していた。
「勝利の要とは、決定的な地点に、決定的な目標のため、圧倒的な戦力を投入すること。今、トリンドル様のいる場所こそが、この戦全体の勝敗を分ける鍵となります。我らの持つすべての力を、そこへ集中させてください」
忠誠心篤いその衛兵隊長に向かって、シミアは、深く、恭しく一礼した。
「トリンドル様の安全を、お願いします」
少女の、年齢不相応なまでの決意を前にして、ドドリンは、説得の言葉をすべて飲み込むしかなかった。
力なく、しかし覚悟を決めて頷くと、彼は馬に飛び乗った。
「はっ! シミア様も、どうかご武運を!」
号令一下。
王室の精鋭からなる騎兵隊が、鋼鉄の奔流と化した。
その蹄の音は地響きとなり、遥か、トリンドルの戦場へと駆けていく。
その場に残されたのは、紋章もない、質素な馬車が一台。
そして、槍を手に、厳しい面持ちで立つ、四人の衛兵だけだった。
シミアは馬車へと歩み寄り、御者を兼ねる二人の兵士に告げる。
「近道を通って、エキム村へ。お願いします」
「「はっ!」」
それは、ほとんど誰も使わない、森の中の小道だった。
雨でぬかるみ、歩きにくい。鬱蒼と茂る木々の葉が陽光を遮り、まだらで不気味な影を地面に落としている。
車輪が水たまりを轢く音だけが、静寂の森に、やけに大きく響いていた。
シミアを乗せた馬車は、こうして、光と影が入り混じる、未知の森の奥深くへと、静かに消えていった。
◇
コーナは、いつも目の前に垂れてきてしまう紫色の前髪を、指でそっとかき分けた。
窓の外を、静かに見つめる。
雨に切り取られた景色が、単調に、目まぐるしく後ろへと流れていく。退屈な風景だ。
隣にいるはずの、あの人の姿はない。
彼女は今、別の戦場へと向かっている。
ぽつんと一人、がらんとした馬車の中にいると、どこか久しぶりの孤独を感じた。
その感傷が、彼女の意識を、遠い昔へと飛ばす。
図書館の片隅。
まだ幼かった自分は、いつも遠くから、国王に寵愛され、教師たちに賞賛される一人の王女を、ただ見つめていた。
誰もが彼女を、すべてを持つ者だと言った。
けれどコーナだけは、その銀色の瞳の奥に、自分とよく似た、拭い去れない孤独の色を見て取っていた。
時は流れ、父の跡を継ぎ、彼女は父の王冠を受け継いだ。
二人の距離は、見た目には近づいた。
けれど、その間には、まるで目に見えない壁があるかのようだった。
――あの、黒髪の少女が現れるまでは。
(シミアさんと出会ってから、ミリエル様は……本当に変わられた)
あの夜のことを思い出す。
重傷を負ったシミアを助けてほしいと、ミリエルが自分に懇願してきた、あの夜。
冷静沈着な女王の顔に浮かんだ、魂の底からの焦燥と苦悩。
あんな表情は、見たことがなかった。
その時、コーナは初めて、女王という仮面の下にある、生身の、温かい心に触れた気がしたのだ。
シミアの動向を密かに探るよう命じられてから、二人の会話は増えた。
学院でのシミアの様子を報告するたび――いじめっ-子への不満であれ、シミアの努力への賞賛であれ――ミリエルは、いつも素直な感情を隠さずに見せた。
自分はもはや、ただの部下ではない。
秘密を分かち合える、本当の〝友人〟になれたような気がした。
そして、その変化は、静かに、コーナ自身をも変えていた。
かつては、報われない悲恋の物語ばかりを書き綴っていた自分が。
いつの間にか、ペンを執り、希望と救済に満ちた、新しい物語を、心のままに描けるようになっていたのだから。
ことり、と馬車が小さく揺れ、コーナは追憶から現実に引き戻された。
顔を上げ、窓の外に広がる、まだ雨の降り続く空を見上げる。
心の中で、自らの女王と、その女王を変えた騎士のために、深く、深く祈りを捧げた。
(ミリエル様、どうか……やり遂げてください)