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ゼロから始める軍神少女  作者:
第二巻 種蒔き季の盤上
117/121

村は戦場に

空は、重い。

じっとりと水を吸い込んだ雑巾のように、分厚い雲がライナス家の領地を低く覆っている。

太陽の光は完全に遮られ、雲の切れ間からかろうじて漏れる光だけが、村の中央広場に設けられた仮設の演壇を、寂しく照らしていた。


壇の下には、村人たちが集まっている。

その顔には、日々の暮らしにすり減らされたような無気力さと、王権に対する根深い畏敬の念が浮かんでいた。

ひそひそと交わされる囁き声が、湿った空気の中を飛び交う羽虫のように、ざわざわと広場に満ちている。


女王ミリエルは、荘厳ながらも華麗な礼服をまとい、静かに壇上に立っていた。

すぐには口を開かない。

ただその銀色の瞳で、壇の下にいる一人ひとりの顔を、ゆっくりと見渡していく。

好奇心、猜疑心、あるいは無関心。

様々な感情を映す村人たちの顔。

だが、女王の視線が注がれるたび、その場のざわめきは自然と静まっていった。


人だかりの端の方。

黒いマントを纏った小柄な影が、その様子を厳しい目で見つめていた。

まるでこの祝祭にそぐわない幽霊のように、影の中へとその身を潜めている。


「わたくしの民よ」


ついに、ミリエルが口を開いた。

声は高くない。

だが、不思議な魔力を帯びたその声は、あらゆる雑音を貫き、集まったすべての者の耳にはっきりと届いた。


「秋の収穫を、心から期待しています。そして、あなたたちの家と労働の果実が、いかなる偽りにも穢されず、いかなる陰謀にも揺るがされることのないよう、王家の総力を以て、必ずや守り抜くことを誓いましょう」


その言葉が終わるか終わらないかのうちに。

わざとらしく増幅された、不協和音のような嘲笑が、群衆の中からいくつも上がった。


「守るだと? 笑わせるな! 国の英雄すら虐待する暴君に、何が守れるってんだ!」

「そうだとも! 王様自らが悪事を働くってのに、豊作なんて期待できるかよ! 汗水たらして育てた穀物が、どうせ全部アイツの金庫行きだ!」

「あんな女王は、この国に災いをもたらすだけだぞ!」


扇動的な言葉は、濁った水に投じられた石だ。

波紋は瞬く間に広がり、人々を巻き込みながら、さらに危険なものへと変質していく。

村人たちの顔から、無気力な畏敬の念が消えていく。

代わりに〝怒り〟という、より危険な感情がその場所を埋め尽くし始めた。


その、時だった。

人波の端にいた黒髪の少女が、ゆっくりとフードを下ろした。


まるでその瞬間を待ち構えていたかのように。

雲の切れ間から、一筋の陽光が差し込む。

光は、彼女の髪に留められた炎の形をした髪飾りに、吸い込まれるように落ちた。

ルビーが光を浴びて、きらりと輝く。

その眩い煌めきが、その場にいた全員の視線を、一瞬にして奪い去った。


「あ……あれは!」

「軍神様……シミア・ブルン様だ!」


抑えきれない驚きの声が、あちこちから爆発した。

さっきまで噂をまき散らしていた者たちの顔から、得意げな表情が凍りつく。

恐怖に染まった彼らが群衆に紛れようとするより早く、物陰に潜んでいた数名の私服兵士が、豹のように猛然と飛びかかった。

腕を固く、背後で捻り上げる!


ライナス・エルデが、群衆の中からゆるりと歩み出た。

貴族特有の穏やかな笑みを浮かべている。

だが、その声は、鉄のように冷え切っていた。


「そいつらを壇上へ」


村人たちの驚愕の視線が注がれる中、無様に抵抗する〝村人〟たちが、乱暴に演壇へと突き上げられた。


「皆の者、どうか、その顔をよく見てほしい」

ライナスは彼らの前まで歩み寄ると、その内の一人が被っていた頭巾を、荒々しく引き剥がした。

露わになったのは、恐怖に引きつった、まったく見覚えのない顔。

「この者たちは、憎しみを煽るこの者たちは、あなた方が寝食を共にしてきた、同胞だろうか?」


壇の下は、水を打ったように静まり返る。


「い……いや、知らねえ……」

「見たこともねえ顔だ……」


村人たちは、次々とかぶりを振った。

その顔には、安堵と、そして後から込み上げてきた恐怖が入り混じっている。


「彼らは、我らの中に潜む毒蛇! 女王陛下の敵が放った手先にございます!」

ライナスの声が、一段と高くなった。疑うことを許さない、力強い響き。

「彼らの目的は、女王陛下の名誉を汚し、我らの郷土の安寧を破壊することに他ならない! そして、我が愛すべき領民であるあなた方が真に必要としているのは、安定した環境! 誰にも邪魔されない、豊かな収穫のはずだ!」


彼の言葉が終わるや否や、壇上の女王ミリエルが一歩前に進み出た。

両腕を広げる。

まるで、壇の下にいるすべての民を、その腕で抱きしめようとするかのように。


「約束します」

君主としての威厳と、慈愛に満ちた声が響く。

「わたくしは、決してあなたたちの税を上げることはありません。あなたたちと共に、秋の豊穣を祈りましょう」


その時。

ぽつり、と。

一滴の冷たい水滴が、最前列にいた老農夫の、深く刻まれた額の皺の上に落ちた。


老人は、不思議そうに空を見上げる。


ぽつ、ぽつ……。

二滴目、三滴目……。


恵みの細雨が、分厚い雲の隙間から、しとしとと降り注ぎ始めた。

すべてを洗い流すような豪雨ではない。

万物を潤す、慈雨だ。

村人たちは次々と顔を上げ、生命の息吹を宿した雨粒を、その顔に受けた。

やがて、雷鳴のような、心の底からの歓声が、広場に轟いた!


シミアは、壇上のミリエルと、遥かに視線を交わす。

互いの瞳に浮かぶのは、二人だけが理解できる、勝利の微笑み。


もはや、ここに長居は不要だった。

シミアは女王に軽く一礼すると、静かに踵を返す。

再び、群衆の影の中へと、その身を溶け込ませていった。

各所に潜んでいた兵士たちも、彼女の撤退に合わせるように、潮が引くがごとく、音もなく姿を消していく。


ただ、あまりにも完璧な好機に降り始めた春雨だけが、まだ、しとしとと降り続いていた。

柔らかく、空気を含んだ土の層を抜け、植えられたばかりの種を潤し、生命の成長の糧となっていく。

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