狼煙
分厚い鎧を身に着けたドードリン隊長が、足早に、雑然とした兵営を横切っていく。目指すは、アルウェン将軍の天幕だ。
彼がまだ階段に足を踏み入れる前に、階上から、将軍の雷鳴のような怒声が轟いた。
「この役立たずどもが! こんな些細なこと一つ処理できんとは、我ら近衛軍の恥晒しめ!」
ドードリンは、胸が締め付けられるのを感じながら、急いで最上階へと向かった。衛兵に身分を認められ、ドアを開けてもらう。
中では、アルウェン将軍が、ガンッ!と木製の机を殴りつけているところだった。その衝撃で、卓上のティーカップががちゃがちゃと音を立て、茶が飛び散る。
一人の近衛隊長が、滝のような汗を流しながら、将軍の怒りを一身に受け、うなだれていた。
「今すぐ部下を連れて、街中の張り紙をすべて剥がしてこい! 今だ! すぐに行け!」
ドードリンが部屋に入ってきたのに気づくと、アルウェン将軍の怒気も、いくらか和らいだ。彼は、叱責されていた隊長に、いらいたげに手を振る。隊長は、まるで大赦を得たかのように、ドードリンに目線で感謝を伝えると、慌てて部屋から逃げ出していった。
「やれやれ……お前も、街のくだらん騒ぎの件で来たのか?」
アルウェン将軍は、布巾を手に取ると、少しばかり苛立った様子で、机にこぼれた水滴を拭き始めた。
「いえ、将軍。シミア様から、昨日、申請を依頼されていた、王都の軍用地図をいただきに参りました」
シミアの名を聞いて、アルウェン将軍の、机を拭く手がぴたりと止まった。
「おお! そうだったな、あの件ですっかり頭から抜け落ちていた……」
彼は、卓上の一枚、濡れずに済んだ張り紙を、ドードリンに手渡した。
「少し待っていろ、今、地図を持ってこさせよう。ついでだ、これも持っていけ。おそらく、シミアの嬢ちゃんは、まだこの件を知らんだろう」
「はっ」
ドードリンが、地図と、不吉な張り紙を手に兵営を出る頃には、空の分厚い暗雲は、完全に一つに繋がり、今にも雨が降り出しそうな、湿った匂いが立ち込めていた。
……
教室の窓の外。まるで、今にも崩れ落ちてきそうな、陰鬱な空。
シミアは、それを見つめながら、無意識にため息を一つ漏らした。
「シミア、故郷の言い伝えだとね、ため息をつくと、幸せが逃げちゃうんだよ!」
隣の席のトリンドルが、机の上のノートを片付けながら、彼女特有の、少しだけわがままな響きのある声で言った。
「そうなの?」
その言葉、どこかで聞いたことがあるような気がしたが、シミアはすぐには思い出せなかった。
「それで、いったい何をそんなに心配してるわけ?」
「色々よ。種蒔き祭の日に、雨が降らないかとか。カシウスの、次の計画とか。それから……」
部屋から消えた、あの手紙のこと。
シミアの脳裏に、その謎が浮かんだ。もう何日も考えているのに、糸口すら見つからない。
「種蒔き祭の日に雨なんて、当たり前じゃない」
トリンドルは、まるで気にも留めない様子で言った。
「小さい頃、お父様が壇上で演説してる時にね、ざーって、頭の真上から雨が降ってきたことがあるの。結局、雨がひどすぎて、その日は村に一泊することになって。でね、次の年、またその村に行ったら、また雨が降ったのよ。私はちゃんと馬車の中にいたんだけど、お父様は、用事の途中でまたびしょ濡れになっちゃって。帰りは、恥ずかしそうに御者の席に座って、馬車の中には入ってこようともしなかったのよ!」
トリンドルの話を聞きながら、シミアの頭の中に、その光景がだんだんと浮かんでくる。
娘の前で、体面を保つため、濡れるのも構わず外に座るミラル領主。
いつも威厳に満ちたあの領主にも、こんなに可愛らしい一面があったのか。
そう思うと、シミアの口元が、自然と、柔らかく綻んでいた。
「もっと面白い話もあるのよ! ね、一緒に帰りましょ? 道すがら、ゆっくり話してあげるから」
「でも、午後から、魔法の実践授業があるんじゃ……」
「大丈夫よ、たまにはサボったって罰は当たらないって。ほら、見て、雨も降りそうだし」
シミアが頷こうとした、その時だった。
教室の入り口から、ガシャガシャと、重い金属が床を擦るような足音が聞こえてきた。
二人が、音のした方へ目を向ける。
そこには、息を切らしたドードリン隊長が立っていた。その鎧には、すでに雨粒が数滴、染みを作っている。
彼が、これほどまでに狼狽している姿を、シミアは見たことがなかった。慌てて、駆け寄る。
「どうしたんですか、ドードリン隊長?」
ドードリン隊長は、懐から、慎重に、まるで大切なもののように、一枚の紙を取り出した。自身の体温で、ほんのりと温かくなった、その張り紙を。
「ご依頼の地図です。それとこちらを、アルウェン将軍が、必ずお渡しするようにと」
シミアは、その紙を受け取った。
そこに書かれた、扇動的な言葉の数々に、さっと目を通す。
女王を「災いの兆し」と描く、毒々しい文句の数々。
それは、まるで預言のようだった。
盤上の相手が、次の一手を、どこに打つつもりなのかを、はっきりと指し示している。
胸の内で燻っていた漠然とした不安が、この張り紙の内容と共に、形を成していく。
そして、自分がどう応じるべきかもまた、一歩、また一歩と、明確になっていく。
心の中に立ち込めていた最大の霧が、すっと晴れていく感覚。
それと同時に、確かな駒を握ったという、手応え。
雨上がりの虹のように、だがどこか冷たい、覚悟の笑みが、シミアの顔に浮かんだ。
「どうやら、ようやく、種蒔き祭で動く準備ができたようね」
彼女にとって、この悪意に満ちた宣言書は、ここ最近で耳にした、何よりも良い知らせだった。