幕開け
玉座へと続く階段の上。女王ミリエルが、華麗な礼服をその身に纏い、静かに鎮座している。
シミアは、彼女を仰ぎ見た。
その思考は、知らず知らずのうちに、去年の冬へと遡っていた。
初めて、この広間へと足を踏み入れた、あの日の光景に。
彼女は無意識に、足元の床に目を落とす。王権を象徴する、目に痛いほど鮮やかな真紅の絨毯。それが、ほんの一歩先にあった。
あの時、この絨毯の上に跪き、世間知らずな言葉を口にしたからこそ。自分の人生は、玉座に座るこの少女と、固く結びつけられてしまったのだ。
学院での騒動を乗り越え、シャル、トリンドル、シメールという、かけがえのない絆を結んだ。
カメル先生、アウグスト先生、レイン、ダミル、ダビデ、アルウェン将軍……。
すぐには言い尽くせない、真珠のようにきらめく思い出の数々。
それらが、あの頃とは比べ物にならないほど、シミアの内面を変えていた。
視線を、同じように片膝をついているアルウェン将軍に向ける。
彼は、シミアに気づくと、励ますような、信頼に満ちた笑みを返してくれた。
「もう、よい。二人とも、いつまで跪いているつもりじゃ?」
階段の下でアイコンタクトを交わす二人を見て、ミリエルはぷくっと頬を膨らませた。
玉座からすっと立ち上がると、ゆっくりと階段を降りてくる。
その声には、咎めるような響きがあったが、銀色の瞳は、シミアの姿に完全に釘付けになっていた。
「女王陛下、本日は、いかなるご用件でしょうか」
アルウェン将軍が、すっくと立ち上がり、口火を切った。
「種蒔き祭の巡幸経路が、決まった」
ミリエルの表情が、再び真剣なものに戻る。
「そなたらと、警備について話し合っておきたい」
彼女は、一通の巻物をアルウェンに手渡した。
「このところの戒厳令で、ヴラドの残党をいくらか炙り出せたが、多くの貴族から不満の声も上がっておる。種蒔き祭の巡幸は、近衛軍の人員だけでは、少しばかり手薄になるやもしれぬ……」
アルウェン将軍は、巻物を受け取ったものの、それに一瞥もくれず、シミアの方へと向き直った。
「陛下。種蒔き祭の警備につきましては、このシミア・ブルンを推挙いたします」
彼の声は、少しの迷いもなく、広間に朗々と響き渡った。
「彼女の知恵は、千の兵にも勝ると、私は信じております」
「私が、ですか?」
シミアは、驚いて自分を指差した。
ミリエルは、こくりと頷く。その瞳には、まるでこの提案を予期していたかのような、悪戯っぽい光がきらめいていた。
「そうじゃ、シミア。種蒔き祭の警備は、最重要事項。じゃが、王室が動かせる手勢には限りがある。ゆえに、そなたの知恵を借りたい」
シミアは、理解した。
これは、単なる任務ではない。
暗殺者の脅威がまだ消え去らない今、女王の巡幸経路は、敵が駒を落とすのを待つ、巨大な盤上そのものだ。
そして自分は、その盤側で采配を振るう者となる。
アルウェン将軍と、女王ミリエル。
二つの、信頼に満ちた視線を感じながら、シミアは覚悟を決めた。
「はい。必ずや、ご期待に応えてみせます」
クラウディアとライナスの顔が、脳裏に浮かんだ。あの二人なら、きっと重要な情報をもたらしてくれるはずだ。
「……ただ、一つだけ。この任務に当たる人員を、私に一任していただけないでしょうか?」
「無論じゃ」
ミリエルの口元に、満足げな笑みが浮かぶ。
「種蒔き祭の警備は、そなたに全権を委ねる」
……
王宮から学院へ戻ったシミアは、まず当番のメイドに、クラウディアとライナスを軍事戦略学の教室に集めるよう伝言を頼んだ。
それから、一人で自室へと戻る。
ドアを閉めると、まっすぐにベッド脇の引き出しへ向かい、中から、カシウスの名が記された、あの短剣入りの手紙を取り出した。
便箋を机の上に広げ、窓から差し込む光に透かすようにして、その筆跡を注意深く観察する。
黒板に書かれていた、流麗で、秀麗なカシウスの筆跡とは違う。
この手紙の文字は、懸命にそれを模倣しようとはしているものの、いくつかの画の転折部分に、ためらいや、不自然な力みが見られた。まるで、腕の悪い模倣者の仕業のようだ。
(そういえば、最初の手紙は……)
シミアの脳裏に、あの日の午後が、閃光のように蘇る。トリンドルに、邪魔をされた、あの時。
(トリンドルがドアをノックして……心配させないように、手紙を枕の下に隠したんだ……)
彼女は、はっと振り返ると、足早にベッドへ駆け寄り、勢いよく枕をめくり上げた。
見慣れた、カシウス直筆の署名が入った封筒が、そこに、静かに横たわっていた。
シミアは、その封筒を手に取った。
中の便箋を引き抜き、最後の確認をしようとした、その瞬間。
指先に伝わった感触に、全身が凍りついた。
軽い。
あまりにも、軽すぎる。
封筒の中が……空っぽだった。
(手紙が……ない?)
氷のような悪寒が、背筋を駆け上った。
慌てて封筒を逆さにし、力任せに振ってみる。
だが、ぱらぱらと、目に見えないほどの小さな埃が数粒落ちてきただけで、他には何も出てこなかった。
暗殺者が、手紙を? でも……どうして? そんなことをすれば、手紙に何かあると、私に疑わせるだけじゃないか。いつの間に、消えたんだ?
次から次へと、疑問が湧き上がってくる。
その時、コンコン、と。
ドアをノックする音が、混乱した思考を断ち切った。
「シミア様、クラウディア様とライナス様へ、ご伝言は確実にお伝えいたしました」
「……分かったわ。少しだけ待つように伝えて。すぐに、私も向かうから」
シミアは、声の震えを必死に抑えつけた。
空の封筒を、もう一通の手紙と重ね、引き出しの一番奥へと仕舞い込む。
少しだけ乱れた襟元を直し、そして、未来へと繋がる扉を開けた。