雨宿りの出会い
シミアは、ドードリン隊長と共に帰路についていた。
午後の日差しは暖かい。だが、王都の街路に漂う、得体の知れない息苦しさを、それは少しも和らげてはくれない。
高い塀と庭園に囲まれた貴族の屋敷が、静かに、よそよそしく立ち並んでいた。
アルウェン将軍が最後に漏らした、困惑に満ちた問いが、こだまのように頭の中で響いている。
――『じゃあ、奴の狙いは何なんだ?』
脳裏に、カシウスの姿が浮かぶ。
まだ彼が、師であった頃。何度も、何度も、繰り返し聞かされた言葉。
――『戦略が、指揮官のすべての行動を決定づける』
(カシウスの戦略目標……本当に、手紙にあったように、私を『教育』すること?)
シミアは、すぐにぶんぶんと首を振った。甘すぎる考えを振り払う。
クラウディアとライナスが、気づかせてくれたはずだ。敵となったカシウスが、自分を『教育』しようとしているだなんて。そんな風に考えるのは、あまりにも傲慢だ。
「シミア様、少し顔色が良くなられましたな」
隣を歩いていたドードリン隊長の声が、思考を中断させた。
「え?」
「駐屯地へ向かう前は、ずいぶんご心配な様子でしたので。今も、万全とは言えないでしょうが……なんと申しますか、進むべき道を見つけた、というようなお顔をされています」
ドードリンの言葉に、シミアは少し驚いた。
だが、すぐに、ふっと吹っ切れたような笑みを浮かべて、頷いた。
「ええ。道は見えました」
そして、こう付け加える。
「敵の本当の狙いさえ分かれば、すべてが解決するはずです」
「俺はあまり頭が良くないんで、そっち方面でお力にはなれそうにありませんが」
ドードリンは、照れ臭そうに頭を掻いた。
「ただ、いつも命令を受けて思うんです。命令を出す側は、結局、一番急ぎで、一番重要なことを任せてくるもんだ、と。例えば、将軍はあなたの身をとても心配されている。だから、俺に護衛を命じた」
「一番、重要なこと……」
ドードリンの、飾り気のないその一言が。
まるで稲妻のように、シミアの頭の中に立ち込めていた霧を、一瞬で貫いた。
(カシウスにとって、一番重要なことって、何?)
その時だった。
ぽつり、と。
冷たい雫が、なんの前触れもなく、彼女の手の甲に落ちてきた。
訝しんで空を見上げると、いつの間にか、巨大な暗雲が空一面を覆い尽くしていた。
直後、大粒の雨が、ばらばらと音を立てて降り注いできた。
シミアは、あたりを見回す。
ここは、王都でも有名な高級住宅街。高い柵と、手入れの行き届いた庭が、道と屋敷を隔てている。
見渡す限り、雨宿りできそうな軒下さえ、見当たらない。
もう諦めて、濡れて進もうかと思った、その時。
少し離れた場所にある、一軒の屋敷に、目が引きつけられた。
その屋敷の、豪奢な玄関ポーチ。
紫色の華やかなドレスを纏った女性が一人、籐椅子に腰掛け、悠然と座っている。
まるで、雨を避けているのではなく、雨景色を愛でているかのようだ。
シミアは、もう迷わなかった。
ドードリンの手を引き、その屋敷の、見事な彫刻が施された鉄門の前まで駆け寄ると、大声で助けを求めた。
すぐに、メイドが傘を差して屋敷から出てきて、門を開けてくれる。
二人は、ポーチの中へと招き入れられた。
「ありがとうございます、雨宿りをさせて頂いて」
メイドから乾いたタオルを受け取り、濡れた髪を拭きながら、シミアは心から礼を言った。
「お気になさらず。可愛らしいお嬢さんが雨に濡れるのを、見て見ぬふりなどできませんから」
シミアは顔を上げた。
そこには、微笑みをたたえた一対の瞳があった。
目の前の女性は、高価そうな紫のドレスを身に纏い、優雅に佇んでいる。その完璧な微笑みは、親しみやすいようでいて、どこか得体の知れない距離感を感じさせた。
どこかで、会ったことがあるような……。
「ママ、誰か来たの?」
客間の方から、鈴を転がすような、子供の声がした。
声のした方を見ると、滝のように流れる純白の長髪をした、小さな女の子。
雨上がりの空のような、灰青色の瞳をぱちくりさせながら、こちらを不思議そうに見ている。
「ママ、この間の、お姉ちゃんだ」
その少女を見て、シミアは、はっとした。
あの日の、同じように突然降ってきた、激しい夕立。
そして、印象的だった、あの言葉。
「……リアンドラちゃん?」
リアンドラは、嬉しそうに駆け寄ってきて、こくこくと頷いた。
「まあ、先日のお優しい方が。奇遇ですこと」
ヴァンナ・クロウェルの微笑みに、心からの温かみが加わった。
「さあ、中へどうぞ。外は風が強いでしょうから。温かいお茶とお菓子を用意させますわ」
シミアが断る間もなく、ヴァンナは優雅に立ち上がり、自らシミアを暖かい客間へと案内する。
同時に、メイドに、ドードリン隊長のため、ポーチに席と茶菓を用意するよう、そつなく言いつけた。
目の前に出された、見た目も美しい、甘い香りのするショートケーキ。
シミアは、ごくりと喉を鳴らした。
残念ながら、ついさっき駐屯地で、お腹がはちきれそうなほど食べたばかりだ。とても、これ以上は入らない。
「お姉ちゃん、ケーキ食べないの?」
リアンドラが、にこにこしながらシミアを見ている。
小さなスプーンでケーキを大きくすくうと、幸せそうにぱくりと口に運んだ。
「大丈夫ですよ。私たちの故郷では、こう言うんです――甘いものは、別腹だって」
シミアは、ふとヴァンナの方を見た。目が合う。
彼女は、すべてを見透かしたような、穏やかな笑みを浮かべていた。
「一口だけでも、いかが? 私たち『深海商会』が、最も誇る品ですの。きっと、気に入ってくださるわ」
一口だけ、と心に決めて、シミアはスプーンを手に取った。
だが、柔らかなクリームと、きめ細かなスポンジが口の中でとろけた瞬間。
不思議な、心地よい満足感が、満腹感を一瞬でどこかへ追いやってしまった。
シミアが、一口、また一口とケーキを食べ終えるのを見て、ヴァンナとリアンドラは顔を見合わせ、微笑んだ。
「お姉ちゃん、私、お昼寝の時間だから。またね!」
「うん……」
廊下の奥へと駆けていくリアンドラを見送ってから、ヴァンナは再び、シミアへと視線を戻した。
「美味しいケーキでしょう? 港湾同盟では、議員の方々に一番人気の午後の茶菓子でしてよ。毎日、一万個は軽く売れますの」
「一万個!?」
「こう見えても、私たち『深海商会』の規模は、あなたが想像なさるより、ずっと大きいのですよ」
ヴァンナは、ふと話を変えた。リアンドラが消えていった部屋の方を見やり、母親らしい、絶妙な憂いを表情に浮かべる。
「ただ……私に付き合って王都へ来てから、リアンドラも、そろそろ学校へ通う年頃になりました。同じ年頃のお友達と、一緒に学んだり、遊んだりさせてあげられないのが、不憫で……」
ヴァンナの言葉は、シミアの共感を誘った。
シャルのことを思い出す。もし、シャルがそばにいてくれなかったら、自分はどれほど孤独だっただろう。
「王都にも、学院はあります」シミアは、トリンドルのことを思い出しながら言った。「よかったら、リアンドラちゃんも、私たちの学校へ」
「領主学院、ですわね?」
ヴァンナの瞳に、待っていました、と言わんばかりの光が、一瞬だけ宿った。だが、それはすぐに、母親としての、ごく自然な躊躇いの色に変わる。
「噂はかねがね。ただ、あの子は少し内気なところがありまして。王国の貴族の方々の、複雑な社交の輪に馴染めるものか、心配で……」
「もし、ご心配でしたら、私が学校でリアンドラちゃんの面倒を見ます」
「本当ですの!?」
ヴァンナは、シミアの手を取った。その感謝の仕草は、心からのものに見える。
「まあ、それは、なんて心強い! でしたら、そのお礼と言っては何ですが、今後あなたが何かお困りの時は、いつでも私を頼ってくださいましね」
突然の申し出に、シミアは少し戸惑いながらも、こくりと頷いた。
ふと、シャル厨房のことが、頭をよぎる。
「そうだ、実は私たち、最近学院で……」
シミアが言い終わらないうちに、ヴァンナは、にっこりと微笑んで請け負った。
「ええ、お安い御用ですわ! 私たち『深海商会』の食材の品質は、保証いたします。リアンドラさんの恩人ですもの、すべての商品を、原価でお譲りしましょう」
「いえ、そんなわけには!」
シミアは、慌てて断った。
「どうか、通常の価格で、私たちに売ってください」
雨が上がると、二人はヴァンナの丁寧な見送りを受け、屋敷を後にした。
雨後の庭園は、水蒸気が立ち込め、空気が清々しい。
まさに、屋敷の門を出ようとした、その時。
誰かに見られているような感覚がして、シミアは背筋に冷たいものを感じた。
思わず、振り返る。
視線は、自然と屋敷の二階、ある一つの窓へと引き寄せられた。
ほんの一瞬、カーテンの端が、さっと揺れたような気がした。
風が吹いただけかもしれない。
だが、もう一度目を凝らした時、そこには、ただ真っ白なカーテンが静かに垂れ下がっているだけだった。
「シミア様、お話は済みましたか?」
ドードリンの声に、はっと我に返る。
シミアは頷き、心の奥に引っかかった、拭いきれない違和感を、ひとまず押し込めた。
「そういえば」ドードリンは、立派な屋敷を見上げ、何かを思い出したように言った。「以前、公務でここに来たことがあります。ここは元々、ルルト家の屋敷だったのですが、反乱ののち、王家に没収されましてな。いやはや……もう、買い手がついたとは」
「ルルト家……」
心の違和感と、気になる偶然が、シャル厨房の仕入れ先を見つけたという喜びを、すっと薄めていく。
シミアは立ち止まり、もう一度、屋敷を振り返った。
雨上がりの陽光を浴びて、ひときわ静かに佇むその豪邸は、今の彼女の目には、まるで、見えない霧に包まれているかのように映っていた。