食卓に潜む罠
シミアが寮室のドアを開けると、むわり、と。新鮮な野菜が混じり合った、濃い草いきれのような匂いが鼻を突いた。
帰ってきた彼女に気づいたシメールが、やれやれと頭を掻く。その顔には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「おかえり。今日の『シャル厨房』は、大豊作らしいぞ」
「安いお野菜……おいしいお野菜……ぜーんぶ、買ってきた……」
厨房からは、調子っぱずれだけど、純粋な喜びに満ちたシャルの鼻歌が聞こえてくる。
シミアがそっと覗き込むと、厨房のテーブルは、まるで山のように新鮮な野菜で埋め尽くされていた。小隊一週間分の食料でも準備するのか、というような光景だ。普段のシャルは、必要な分だけきっちり買う、やりくり上手だというのに。
「今日、誰か特別な客人でも来るの?」
シメールは首を横に振り、にやりと意味ありげに笑う。
「その吉報は、シャル本人から聞かせてやるのがいいだろうさ」
部屋に入ってきたシミアに気づくと、シャルが、宝物を見せる子犬のように駆け寄ってきた。いつも穏やかなその瞳が、興奮でぱちぱちと瞬いている。
「シミア様! 聞いてください、すごいニュースです! わ、私……ついに、すっごく安いお野菜を手に入れたんです!」
「安い野菜?」
シャルと一緒に何度も市場へは行っている。王都の物価の高さは、嫌というほど知っていた。日々の必需品が、そこまで安くなるなんてことがあるだろうか。
「それがですね」シャルが、興奮した様子で身振り手振りを交えて説明する。「今日、市場へ行ったら、新しいお店を見つけたんです。銀潮連邦から来た商人さんだそうで、これからたくさん買うかもしれませんって伝えたら、どうなったと思います? なんと、全部のお野菜を半額で売ってくれるって!」
「半額!?」
「そりゃ、安すぎないか!?」
シミアとシメールは、ほとんど同時に驚きの声を上げた。
「はい!」シャルは、誇らしげに胸を張る。「これで、私たちの『シャル厨房』も、安くて安定した材料が手に入ります!」
「つまり、これからもずっと、その値段で買えるということ?」
シミアの問いに、シャルは力強く頷いた。
(一度きりじゃなく、これからも、この値段で? そんなこと、ありえるんだろうか?)
シミアは、記憶の中の商人たちの顔を思い浮かべてみた。だが、『これからたくさん買うかもしれない』なんていう、あやふやな約束のために、ずっと赤字覚悟の値段で売り続けるようなお人好しは、一人もいなかった。
祝うべき、最高の出来事のはずなのに。
シミアの心に、けたたましく警鐘が鳴り響いた。
脳裏に、クラウディアの鋭い眼差しが、彼女の冷たい言葉と共に蘇る。
――『カシウスの協力者は、やり方は巧妙でも、動かせる『力』は、極めて限られている』
(学院の中では、力が限られている。でも、商人みたいな『外部』の力なら、話は別……)
――『戦略家たるもの、勝利のためなら手段を選ぶな』。
カシウスの穏やかだったはずの教えが、今では悪魔の囁きのように聞こえる。
「シミア? どうしたんだ?」
シミアの顔から、さっと血の気が引いたのを見て、シメールが心配そうに声をかけた。
シミアは一瞬だけ躊躇い、すぐにクラウディアとライナスとの推理を、ありのまま二人に話した。
「つまり……」シメールは即座に意味を理解し、その表情をこわばらせた。「シャルが出会ったその『商人』とやらは、あたしたちを陥れるための、カシウスが仕掛けた罠かもしれない。そう、あんたは心配してるんだな?」
シャルが、信じられない、というようにテーブルの上の野菜を見つめる。まだ土の香りがするそれらを前に、彼女の瞳が不安げに揺れた。
「シミア様……カシウス先生が、本当にそんなことを? 八百屋さんに成りすまして、食べ物に毒を盛るなんて……」
シメールは、国境の野営地を包んだあの業火と、シャルがつけていた血塗れの髪飾りを思い出す。声が、氷のように冷たくなった。
「……あの男なら、どんな卑劣な手を使ってきても、あたしは驚かない」
「ごめんなさい、シャル」シミアは彼女の隣に歩み寄り、有無を言わせぬ、それでいて申し訳なさそうな響きを込めて言った。「少し、心配なんです。その野菜を、少しだけ分けてもらえませんか? ドードリン隊長に、調べてもらいたいんです」
シャルは、こくりと頷いた。小さな籠を取り、野菜を少しずつ、種類ごとに摘まんで入れていく。そして、それを大事そうにシミアに手渡した。
「結果が分かるまで、水を差すようで悪いんだけど、まだその野菜には触らないで。せっかく、あんなに喜んでいたのに、本当にごめんなさい」
「いえ、シミア様」シャルは、ふるふると首を横に振った。最初の喜びは、シミアの不安によって、もうどこかへ消え去ってしまっていた。「おっしゃる通りです。よく考えたら、私もおかしいと思っていました。あんなに安い値段で売ってくれるなんて」
シミアは籠を受け取ると、足早に寮室を出ていった。
……
夕暮れ時、寮室のドアが、慌ただしくノックされた。
ドアを開けると、ドードリン隊長が、ぜえぜえと息を切らしながらドアフレームに手をついていた。その顔は、恐怖に引きつっている。
「シミアさん! 絶対に……絶対にその野菜を食べてはなりませんぞ!」
その言葉に、シミアの瞳孔が、きゅっと収縮した。
急いでドードリン隊長を部屋に招き入れる。シャルが差し出した水を、彼は礼を言って一気に飲み干した。
「動物にいくつか試させたのですが……」ドードリン隊長の声は、まだ震えている。「しばらくして……すべて、奇妙な死に方を……。あの野菜には、間違いなく、何らかの遅効性の毒が含まれています」
その言葉は、重い槌のように、シャルの心を打ち砕いた。
テーブルの上に並んだ、瑞々しく、美味しそうに見える野菜たち。信じられない、というようにそれを見つめる彼女の顔から、さっと血の気が引いていく。
「そんな……お野菜に、毒だなんて……」
「シャル、相手は本気でシミアを狙ってる。そのためなら、どんな手でも使ってくるんだ……」シメールは慰めようとしたが、かける言葉が見つからなかった。
「シャルさん」ドードリン隊長は、厳しい表情でシャルに向き直った。「今からでも、その野菜を売った商人のところへ、我々を案内していただけますか? このような危険な暗殺者を、これ以上街で野放しにはしておけません」
シャルは、テーブルの上に山と積まれた野菜を、ちらりと見た。
悲しみをぐっとこらえ、力強く、こくりと頷いた。
だが、彼らがその店があった場所へ駆けつけた時、そこはすでにもぬけの殻だった。
まるで、あの愛想の良かった『銀潮連邦の商人』など、最初から存在しなかったかのように。