たまには休息も大事
シメールとシャルの寮室では、ささやかな祝勝会が開かれていた。友人だけの、特別なパーティーだ。
午後の陽射しが、ぽかぽかと部屋に差し込んでいる。
テーブルの上には、湯気の立つ料理の数々。陽の光を浴びて、どれもきらきらと輝いて見える。
焼きたてパンの香ばしさ。ミートソースの食欲をそそる匂い。そして、紅茶の爽やかな香り。
それらが混じり合って、まるで『幸福』と名付けられた交響詩を奏でているかのようだ。
「レインさん、今日もよろしくお願いします!」
シャルが、鼻歌交じりで、焼きたてのパンをレインの前に差し出す。ほかほかと湯気が立つ一皿。その顔は、期待に満ちてきらきらしていた。
元気いっぱいのシャルの挨拶に、レインはこくりと厳かに頷く。そして、ほとんど敬虔とも言える態度で、目の前のパンを手に取った。
「……外側のさっくりとした焼き加減は、見事です」
一口味わってから、専門家のような評価を下す。
「ですが、中の層の食感は、もう少し工夫の余地があるかもしれません。捏ねる回数や力加減を調整すれば、より豊かになるかと」
シャルはすぐに小さなノートを取り出し、レインの助言を真剣な顔で書き留めながら、なるほど、と頷いている。
シミアは読んでいた神話学のノートを閉じ、バスケットからパンを一つ取った。
ふんわりと柔らかくて、ほんのり甘い。シャルだけの、特別な味。
久しぶりに、心の底からリラックスできる。この時間が、たまらなく貴重に思えた。
レインは、テーブルの上の小さな器に盛られたミートソースの和え麺に手を伸ばす。食欲をそそる香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
じっくりと味わう。麺の茹で加減は絶妙で、ぷつりとした歯ごたえがある。おかげで、濃厚なミートソースが、より長く口の中に留まってくれる。ソースの塩気と旨味の下に、隠し味のような爽やかさが、麺の味をさらに引き立てていた。
シャルの新作に、レインは惜しみない賛辞を送った。
「シミア様も、どうぞ召し上がってください!」
シャルから差し出された小鉢を受け取り、一口。
シミアは、とろけるような笑顔を浮かべた。そして、いつもの、最高の褒め言葉を口にする。
「美味しい。シャルの味だ」
戦略家としては常人離れした鋭さを見せるシミアが、味覚に関してはこんなにも無垢で可愛らしい基準を持っている。そのギャップに、レインはいつも引き締めている口元を、思わず緩めてしまった。
「あ、今、何か失礼なこと考えました?」
いつの間にか隣に座っていたシミアが、鋭く問いかける。
「い、いえ……何も!」
レインの頬が、かあっ、と赤く染まった。なんとか平静を装おうとするが、すぐそばから聞こえる、少女の微かに甘い吐息を、どうしても意識してしまう。
「私は……ずっとシャルの料理を食べて育ちましたから。だから、私にとってシャルの料理は、シャルの料理なんです。どれも全部、美味しいんですよ」
シミアは、まるで大事な真理を語るかのように、真剣な顔で説明する。
彼女から漂う独特の、心地よい香り。それが、先ほど味わったミートソースの香ばしい余韻と混じり合って、さらに魅惑的な匂いへと変わる。
……ただ、思春期の真っ只中にいるレインにとって、その刺激は少し、いや、かなり強すぎた。
「シミア様」
まるで助け舟を出すかのように、シャルの声が響いた。
「あまりレインさんに近づかない方が、いいかもしれませんよ? なんだか、とても困っているみたいですから」
「え、ごめんなさい……」
元の席に戻っていくシミアの後ろ姿を、レインは少しだけ名残惜しそうに、それでいて、どこかほっとした気持ちで見送った。
……
午後になり、日課の鍛錬を終えたシメールが部屋に戻ってきた。テーブルに並んだご馳走を見るなり、彼女は遠慮なくぱくつき始める。
「そういえばシミア、あんたが休日の午後に、こうしてのんびりしてるなんて、珍しいじゃないか」
歴史の先生にもらった戦史の本を置いて、シミアはシメールの言葉について考えてみた。確かに、学院に来てからというもの、休日はいつも何かに追われていた気がする。図書館で資料を調べたり、王都の不穏な動きのために駆け回ったり。
こんな風に、何も考えず、ただ友達と一緒に過ごす午後が、これほど贅沢なことだったなんて。
「言われてみれば……そうかも」
ソファに座る体に、午後の陽射しが降り注ぐ。心地よくて、このまま眠ってしまいそうだ。
「言わせてもらうけどさ、あんたはいつも頑張りすぎなんだよ。楽しむ時間ってのが、まるでない」
シメールはパンを一つ手に取り、がぶりと大きく一口。
「昔、剣を習ってた時、師匠が口を酸っぱくして言ってた。『休息は無駄な時間じゃない。休んでいる間にこそ、学んだ技は体に染み込み、血肉となる』ってね。だからシミア、あんたもちゃんと休むんだ。あんたの代わりは、誰もいないんだからさ」
シミアは、こく、と大きく頷いた。
ちょうどノートの復習も、キリのいいところまで終わった。目を閉じ、柔らかなソファに、完全に体を預ける。
シャルが、そっと隣に座ってきた。そして、シミアの肩に、こてん、と頭を乗せる。
「シミア様。もう、無理はしないでくださいね」
「うん」
シャルの手が、シミアの手を優しく握る。その上から、もう片方の手を、そっと重ねてくれた。
手のひらから伝わってくる温もりに、シミアの意識が、とろとろと微睡んでいく。
(そういえば、こうしてシャルと二人で、静かに過ごす午後も、学院に来てからは、初めてかもしれない)
(……たまには、こういうのも、悪くないかな)
隣から伝わるシャルの体温と鼓動を感じながら、シミアは安らかな眠りの中へと、静かに落ちていった。