盟約
シミアは、廊下のアーチ窓から校舎の外を眺めた。
しとしとと、雨が降り続いている。
世界中が、灰色の薄い紗に包まれていた。
曇天は、まるで水を吸って重くなった、巨大な毛布のようだ。
王都の上に、ずしりとのしかかっている。
シミアの心の上にも、同じように。
この雨は、カシウスから送られてきた、目に見えない手紙そのものだ。
どこにも逃げ場のない、網の目のように。
雨音は、その網が発する、不快な囁きに聞こえた。
誰もいない廊下を、とぼとぼと歩く。
その足は、まるで自分の意志を持っているかのように、ある扉の前でぴたりと止まった。
よく知っている、けれど、どこか近寄りがたい扉。
――軍事戦略課の教室。
中から、聞き覚えのある二つの声が聞こえてくる。
好敵手を見つけたような、白熱した響き。
「……カル砦を直接包囲する! 全兵力を集中させて、一気に勝負を決める!」
「甘いわね。なら、すぐにグレン渓谷とライン要塞の兵を動員して、あなたの側面を突くわ。さあ、どう攻めるつもり?」
シミアは、そっと扉を開けた。
巨大なジオラマの前で、ライナスとクラウディアが、軍事演習に没頭している。
ライナスは、眉をひそめるクラウディアを見て、余裕の笑みを浮かべていた。
一方のクラウディアは、将軍の駒を、その華奢な指先でいじらしくくるくると回している。
どうにも、置き場所が見つからないらしい。
「あなたの支援部隊、入城させるの?」
「させるわけないだろう」
「なら、こっちは兵を二手に分けるわ。南は投石機で城壁を絶え間なく攻撃。北は機動力のある騎兵で、あなたの援軍にまとわりつく。元々、総兵力で劣っているあなたが、兵を分散させたらどうなるか。……各個撃破されるだけよ」
「降参、降参!」
クラウディアは、苛立たしげに駒をジオラマに投げ返した。
ごとり、と鈍い音が響く。
「この辺境防衛戦、どうやっても勝てないじゃない!」
そう言ってから、クラウディアは、いつの間にか側に立ち、黙って盤面を見つめていたシミアの存在に気がついた。
「クラウディア先輩、ライナス先輩」
シミアは丁寧に挨拶したが、その視線は小さな戦場から離れない。
「この戦役、演習の前提に、少し問題があるように思います」
ジオラマの上では、王国を示す青い旗が孤立した城に立てこもり、鋼心連邦の赤い旗に幾重にも包囲されている。風前の灯火だった。
「前提? 兵力で劣る中、どうやって辺境の砦を守り抜くかっていうのが、前提じゃないの?」
クラウディアが、不思議そうに尋ねた。
シミアは、静かに首を横に振る。
「いいえ。この戦役の本当の前提は――鋼心連邦に、この膠着状態を打破する力があるかどうか、です」
すっと手を伸ばし、指先でジオラマの上を滑らせる。
双方の駒を、開戦前の状態に戻していった。
「数でも質でも、王国軍が劣勢に見えます。ですが、もし鋼心連邦に二千人以上の損害を与えることができれば、敗北するのは、むしろ彼らの方です」
「ほう? それは、どういう理屈かな、シミア君」
傍らで見ていたライナスが、興味深そうに問いかけた。
「鋼心連邦の戦略目標は、単に辺境を奪うことではありませんから」
シミアの声は、穏やかで、明瞭だった。
「彼らはこの戦いを通して、大陸全土に己の力を示し、各国の反応を探っているのです。そのためには、最低でも三千人の兵力を温存しなければ、戦後にこの四方を敵に囲まれた地を守り抜き、馬鹿みたいに長い補給線を維持することなどできません」
その指先が、ジオラマの砂漠地帯を、そっと撫でた。
まるで、見えない鎖に触れるかのように。
「じゃあ、あなたが鋼心連邦の軍師だったら、どうするの?」
クラウディアの瞳に、負けん気の光が宿る。
「この計画自体を、破棄します」
シミアの答えは、あまりにきっぱりとしていて、二人を呆然とさせた。
「鋼心連邦の国策では、本国から遠く離れた、長期的な侵略戦争を支えることはできません。拙速な攻撃は、致命的な過ちです」
「でも……もし、この戦が避けられないとしたら?」
「避けられない、としたら」
シミアの眼差しが、一瞬で鋭くなる。
「カシウスの解法が、やはり最適解です。彼は援軍が到着する前に天羅地網を敷き、前線の領主たちの心に不信の種を蒔いた。そして全兵力を集中させ、孤立した主力を狩る。あと一歩で、成功していたはず。彼の唯一の過ちは、迎撃戦において、何としてでも王国軍を殲滅するという覚悟を、貫けなかったこと」
「たとえ、自軍に甚大な被害が出て、その後の戦闘能力を失うことになったとしても?」
クラウディアの問いに、シミアは頷いた。
「はい。彼は、闇に潜む間諜。機会は一度きり。一撃で仕留め損なえば、次はありません」
その指先が、ジオラマの上を素早く動く。
鋼心連邦を示す駒のほとんどを、援軍の通り道である峡谷に、正確に配置していく。
必殺の包囲陣。
その迷いのなさに、ライナスとクラウディアは、思わず息を呑んだ。
「じゃあ、もし、戦況が長期の膠着状態に陥ったら?」
クラウディアは駒を手に取り、盤面をシミアが来る前の状態――カル砦の前で、赤と青の軍勢が睨み合っている状態に戻した。
シミアの顔に、一瞬、困惑の色が浮かぶのを、見逃さない。
クラウディアの口元に、得意げな笑みが浮かんだ。
「……ローレンス王国に、撤退を進言します」
その答えに、二人の天才の顔に、同時に、信じられないという表情が浮かんだ。
シミアは何も説明せず、ただ手を伸ばす。
そして、その手のひらで、王国軍を示す青い駒のすべてを、ためらいなく、一気に払い落とした。
彼らが代々守ってきた、辺境の地から。
その光景がもたらす衝撃は、どんな言葉よりも雄弁だった。
シミアは顔を上げ、二人をまっすぐに見つめ、一言一句、はっきりと告げた。
「想像できますか? 我が王国が代々守り、そして、重い負担にもなっていたあの辺境が、突然、鋼心連邦の手に落ちる。それが、銀潮連邦や永劫烈陽帝国、そして輝煌帝国にとって、何を意味するのか」
「容易に勝利を得られないのなら、〝勝利〟という名の毒杯を、その手でくれてやるのです。鋼心連邦に、私たちに代わって、大陸中からの敵意を受け止めさせる。それこそが、最も有効な解決策です」
「……彼らが、最後に辺境を返すと、保証できるのか?」
ライナスは、シミアの漆黒の瞳を見つめた。
そこには、驚愕する自分とクラウディアの姿が映り込んでいる。
「できます」
シミアの答えには、自信が満ちていた。
「彼らが占領したその瞬間から、現地で抵抗組織を作ればいい。彼らの支配に、ほんの少しでも揺らぎが生じれば、この大陸を横断する〝黄金の回廊〟は、彼ら自身の首を絞める絞首索に早変わりするでしょう。そうなれば、彼らにとって最良の選択は、自ら交渉のテーブルにつくことです」
「この戦役について、私にできる貢献は、以上です」
シミアは二人に軽く一礼し、その場を去ろうとした。
その手首を、華奢な手が掴んだ。
クラウディアだ。
彼女の、すみれ色の瞳は、すべてを見透かすようだ。
「でも、あなたはどうなの? あなた自身の戦いも、この盤上のように、簡単に〝撤退〟できるわけ?」
シミアは、首を横に振った。
「私に、退く場所はありません。戦い続けるしかないんです」
その顔に浮かんだ、年に似合わない、重い決意を見て、ライナスは魅力的な笑みを浮かべた。
「ならば、我々と共に戦おうじゃないか」
シミアは、不思議そうに彼を見上げた。
「私たちの助けは、無条件じゃないわ」
クラウディアが手を離し、言葉を引き継ぐ。
「これは、ギブアンドテイクの同盟。ライナスも、そういう意味で言ったのよね」
「ギブアンドテイク……。お二人は、私から何を得られるというのですか?」
「君は天才だ、シミア」
ライナスの声は、どこまでも率直だった。
「君の才能は、今代の女王の翼の下で、決して埋もれることはないだろう。君についていくことは、旧態依然としたどこの大家族に従うよりも、将来性がある。そして我々は、君にとって、捨て駒にできないほど重要な存在になる――それこそが、我々が得る、最も重要なものだ」
「あなたは、私たちを必要としている」
クラウディアの視線は、刃のように鋭い。
「あなたは、自分が決して触れることのできない、貴族社会の、もっと深いところにある視界が必要。エルデ家とローゼン家の力が、必要。それに、私たちが提示する条件は、断れないほどいいものでしょう?」
シミアの脳裏に、シャルの、決意に満ちた、恐れを知らない顔が浮かんだ。
(シャルは、もう覚悟を決めた。私は、このまま足踏みしているだけでいいの?)
硝煙の見えない戦場は、もう、絶望的な状況にまで追い詰められている。
(今は、闇に潜む暗殺者を見つけ出すのが最優先。どんな小さな力も、助けも、無駄にはできない……)
「それに、あたしにとっての最大の見返りは、あなたについていくことで、あの退屈な貴族社会から抜け出せること、かしら」
クラウディアの悪戯っぽい笑みに、シミアの胸が、きゅっと締め付けられた。
過去に裏切られた痛み、最も信頼した相手に、すべての弱さを見透かされた無力感が蘇る。
だが、今ならわかる。
孤軍奮闘の末にあるのは、破滅だけだ。
もう、他に答えは、ないのかもしれない。
シミアは勇気を振り絞り、顔を上げた。
たとえ、目の前にあるのが罠だとしても、それがどうしたというのだろう?
かつては、カシウスが用意した、勝ち目のない戦場に、たった一人で飛び込んだ。
だが、今回は、同盟者を選ぶ権利がある。
目の前で、それぞれの家を継ぐ宿命を背負った、未来の盟友たちが、答えを待っている。
「では、どうか、お力をお貸しください」
シミアは、深く、深く、頭を下げた。
この、あまりに性急な決断が、後の王国の勢力図に、どれほど大きな影響を与えることになるのか。
この時のシミアは、まだ、知る由もなかった。