第4話
「はぁ……はぁ……!ま、撒いたか……?」
裏路地をいくつか駆け抜け、息も絶え絶えに俺と詩織がたどり着いたのは、大学から少し離れた商店街のアーケード。
幸い、雨は降っていない。
ジメっとした初夏の午後の空気が、荒い呼吸をするたびに肺を満たして不快指数を上げていく。
さっきまでの全力疾走で、俺の貧弱な体力はとっくに限界突破。足はガクガク、心臓はバクバク、脇汗びっしょりだ。
「ええ、おそらく一時的には。ですが、彼らもプロです。すぐに追ってくるでしょうね」
詩織は俺とは対照的に、息一つ乱していない。
額にうっすらと汗は浮かんでいるものの、その立ち姿は相変わらずシャキッとしていて、まるでファッション雑誌から抜け出してきたモデルのようだ。
この状況でその冷静さ、マジで尊敬する。
いや、ちょっと引く。
俺はぜえぜえと息をしながら、近くの自販機にもたれかかる。
「なんで俺が国家権力っぽいのに追いかけられなきゃなんないんだよ……」
「原因は、あなたのスマートフォンに巣食う『魔王』とやらにあるのでしょう。自己申告によると、あなたの『黒歴史』そのものだそうですが」
詩織の的確すぎるツッコミが、俺の心の傷口に塩を塗り込んでくる。
ぐうの音も出ないとはこのことだ。
「うっ……そ、それはそうだけど……! でも、俺はあいつを呼び出した覚えはねーぞ! 勝手にインストールされて、勝手に日本征服とか言い出して……!」
「責任転嫁ですか。見苦しいですね」
バッサリ。詩織の言葉は、時にその辺の魔王様より切れ味鋭い。
その時、俺のスマホがまたブルリと震えた。
画面には、得意満面のヴェルザークが映し出されている。
『フハハハ! 我が主よ、見事な逃走劇であったな! あの者ども、さぞや悔しがっておろう! これぞまさしく『疾風迅雷の魔王軍(メンバー二人)』よ!』
「うるせえ! お前のせいでこっちは命がけなんだよ! てか、お前が余計なことするから、あの黒スーツの人たちに目をつけられたんだろうが!」
俺がスマホに向かって吠えると、詩織がやれやれといった表情で首を振る。
「結城さん、そのように大声で『魔王』と会話するのは、いかがなものかと。周囲から見れば、ただの危険人物ですよ」
「だってこいつが!」
『まあまあ、我が主よ。些細なことは気にするでない。それより、次なる余興の舞台はどこにする? この寂れた商店街を、一夜にして『魔界の闇市』に変えてやるのも一興だが……』
「頼むから何もしないでくれ! いいか、ヴェルザーク。お前が何かするたびに、俺の寿命と社会的信用がゴリゴリ削れていくんだぞ! ちょっとは自重しろ!」
『自重? 我が辞書にその言葉はない! あるのは『征服』『破壊』『そしてちょっぴりお茶目なイタズラ』の三つだけだ!』
こいつ、全然話が通じねえ……!
詩織は、そんな俺とヴェルザーク(の声だけ)のやり取りを冷静に観察しながら、ふむ、と小さく顎に手を当てた。
「なるほど……その『魔王』の行動原理は、あなたの過去の設定に基づいているのですね。そして、あなたはその設定を熟知している、と」
「ま、まあな……。伊達に中学時代の貴重な青春を、ノートへの設定書き殴りに費やしてねーからな……って、何言わせんだよ!」
「つまり、彼の行動パターンはある程度予測可能であり、彼の好む『設定』を提示することで、行動を誘導できる可能性がある、ということですか」
詩織の目が、知的な探求心でキラリと光る。
なんだか、すごく嫌な予感がする。
この人、俺の黒歴史をダシにして、とんでもないことをさせようとしてないか?
「結城さん。私たちは今、非常に危険な状況にあります。あの黒いスーツの人たち……おそらく政府の特務機関でしょう。彼らはあなたを、そしてそのスマートフォンを確保しようとしています。まともに逃げ切れる可能性は低いでしょうね」
「だよな……。どうすりゃいいんだよ……」
俺が途方に暮れていると、詩織は意外な提案をしてきた。
「一つだけ、現状を打開できるかもしれない場所と人物に心当たりがあります。そこなら、彼らの追跡を一時的にかわし、対策を練る時間も稼げるかもしれません」
「え、マジで!? 」
俺が食いつくと、詩織は意味ありげな笑みを浮かべた。
それは、普段の彼女からは想像もできないほど、どこか悪戯っぽい、そして底知れない何かを感じさせる表情だった。
「あなたの、その『聖域』ですよ。結城さん」
「俺の……聖域……?」
詩織の言葉に、俺は一瞬、思考が停止した。
まさか。まさかこの人、あの場所を知っているとでもいうのか?
俺が唯一、心の平穏を得られる、そして同時に、俺の黒歴史が最も濃密に凝縮された、あの場所に……?
「行きましょう。あなたの行きつけの、小さなゲームショップへ」
詩織の言葉は、俺の最後の逃げ道を塞ぐ、決定的な一撃となった。
なんで聖域のことを知ってるんだよ!
ああ、もうどうにでもなれ…………。
スマホからは、ヴェルザークの「ほう、我が主の聖域とな? それは興味深い。魔王たる我にふさわしい玉座でもあるのか、楽しみよのう!」という、どこまでも空気を読まない声が響いていた。