第2話
翌日。
俺は、まるで幽霊にでも取り憑かれたかのような顔色で大学の門をくぐった。
いや、実際に取り憑かれている。
スマホに。
それも自作の、超絶痛い魔王に。
笑えない。
マジで笑えない。
昨夜からのヴェルザークの「日本征服」は、深夜のテレビ通販番組をジャックして「魔王様御用達! 呪いの抱き枕(ただの低反発枕)」を延々と宣伝したり、近所の野良犬たちが謎の会議を開いて「人間どもからカリカリを奪還する作戦」を練り始めたりと、相変わらずくだらない方向で絶好調だった。
そのたびに俺のスマホはブルブル震え、ヴェルザークの高笑いが脳内に響き渡る。
もう勘弁してほしい。
俺の精神はとっくにHPゼロだ。
大学構内は、一見するといつもと変わらない。
だが、そこかしこで学生たちがヒソヒソと噂話をしているのが耳に入る。
「聞いた? 昨日の夜中、うちの大学のサーバーがクラックされて、トップページが一瞬だけ『我こそは終末を告げる黒炎の覇王なり!』みたいな中二病全開のメッセージに変わってたらしいよ」
「マジで!? うちの学科のグループチャットも、いきなり全員の名前が『闇に堕ちた聖騎士』とか『血染めの歌姫』とかに強制変更されてて大騒ぎだったんだけど!」
「購買のパンもさ、『伝説の聖剣パン(ただのコッペパン)』とか『禁断の果実デニッシュ(リンゴ入り)』とか、意味不明な名前に変わっててさー」
全部、俺のせいだ。
俺が中学時代にノートに書き殴った設定が、リアルタイムで世界を侵食している。
もう、穴があったら入りたいとかいうレベルじゃない。
マリアナ海溝の底でプランクトンになりたい。
とてもじゃないが講義に出る気力もなく、俺はフラフラと人気のない中庭のベンチに腰を下ろした。
手の中のスマホが、まるで生き物のようにズシリと重い。
「おい、ヴェルザーク……もう、頼むからおとなしくしててくれよ……。俺が悪かったから。お前を創造した俺が、全部悪かったからさ……」
小声で、情けなくスマホに話しかける。
周囲に誰もいないことを確認してはいるが、それでもこの行為自体がすでに尋常じゃない。
『フン。我が主に嘆願とはな。貴様もようやく、己が創造主としての自覚に目覚めたか?』
スマホから、相変わらず尊大な、それでいてどこか楽しげな声が響く。
『だが、我が魔力は留まることを知らぬ! 我が世界征服の序曲はまだ始まったばかりよ! 次なる余興は……そうだ、この大学の時計台から『終末を告げる破滅の交響曲(ただしリコーダー演奏)』でも高らかに奏でてやろうか!』
「やめろ馬鹿!」
思わず声を荒らげてしまった、その時。
「そのスマートフォン、少し見せてもらってもよろしいですか? 結城翔太さん」
背後から、鈴の音のようにクリアだが、どこか温度を感じさせない声が降ってきた。
心臓が、文字通り跳ね上がるとはこのことだ。
恐る恐る振り返ると、そこには、柳のようにしなやかなシルエットの女子学生が立っていた。
黒髪ストレートロング、知的なネイビーブルーの瞳。
同じ学部の桜庭詩織だ。
彼女の手には、数枚のプリントアウトされた紙。
その一番上には、昨日ネットニュースを騒がせた「国会議事堂プリン出現事件」の記事の見出しがデカデカと印刷されているのが見えた。
「さ、桜庭さん!? な、なんで俺の名前……いや、これはその、何というか、最新型のアラームアプリでして! ボイス機能がちょっと、個性的というか……」
俺の口からは、我ながら呆れるほどしどろもどろな言い訳が飛び出す。
額からは、滝のような冷や汗が噴き出している。
もうダメだ。俺の大学生活、完全に終わった。
詩織は、そんな俺の狼狽ぶりを気にするでもなく、まっすぐに俺の目を見据えてくる。
その深いネイビーブルーの瞳は、まるで俺の心の奥底まで見透かしているようだ。
「今世間を賑わせている『都内電子機器同時中二病化現象』。これら一連の不可解な事象が発生する直前、あなたの周辺では常に、何らかの特異な行動が観測されています」
淡々と、しかし有無を言わせぬ圧力で事実を突きつけてくる詩織。
その手の中の資料には、ご丁寧に俺の行動記録らしきものまでまとめられている。
ストーカーかよ!
いや、それより、なんで俺の行動がバレてるんだ!?
「そして今、あなたはその『個性的なアラームアプリ』と、かなり切羽詰まった様子で『会話』をしていたように見受けられましたが」
詩織の言葉に、俺はぐうの音も出ない。
完全に詰んだ。
これはもう、白旗を上げて土下座するしかない。
そんな俺の絶望をよそに、スマホからヴェルザークが割って入る。
『ほう、我が主の知人か? なかなか観察眼の鋭い女ではないか。気に入ったぞ、小娘! 我が魔王軍の最初の幹部、冷静沈着なる氷の軍師の地位を授けてやろう!』
詩織は一瞬だけ、本当に微かに眉をひそめた。
だが、すぐにいつものクールな表情に戻り、今度は俺のスマホに向かって、はっきりとした口調で問いかけた。
「それは一体何なのですか?」
しかし、ヴェルザークの声は、詩織にはただのノイズか、あるいは何も聞こえていないようだ。
彼は、俺の耳元で「フン、下賤の者には我が声を聞く資格すらないということか。まあ良い、我が主を通して伝えよ」と不遜なことを言っている。
詩織は数秒間スマホを観察した後、ふっと息を吐き、俺に視線を戻した。
「……どうやら、この『魔王』とやらは、あなたとしかコミュニケーションを取る気がないようですね。あるいは、あなたにしかその声が聞こえない、とでも言うべきでしょうか」
その言葉は、俺がこの異常事態における唯一無二のキーパーソンであることを、残酷なまでに明確に示していた。
詩織の鋭い、しかしどこか好奇の色をたたえた瞳が、俺を射抜く。
「結城さん、あなた一体、何をしたんですか?」
その問いかけは、まるで最終宣告のように、俺の心臓に重く突き刺さった。
俺の顔から、きっと最後の血の気も引いていったに違いない。