0-7 ソラ(前編)
十六年前、ライトシュタイン家でソラは生まれた。
大貴族の家系のソラは様々な人物の祝福を受け、生を受けた。ブルテン皇帝ですら、ザベル将軍に祝辞を送ったほどだった。
それから十年……
晴れ渡った空に照らされた青い海、その海沿いにきれいな立ち並んだ多くの純白の建物。青と白の景色がきれいに分かれている巨大な港町パシフィルド。その町全体を丘から見下ろすように、純白の巨大な屋敷であるライトシュタイン邸は建っていた。
ライトシュタイン家の庭園で十才のソラは母とお茶を楽しんでいた。
テーブルに着き、ソラは母と楽しく会話をしながら紅茶を飲む。
ソラの母、ファミリスは当時、年齢三十一歳。白い髪、細く小さな目、明るい雰囲気を持っている。
ファミリスはニコニコ笑いながらソラに話しかける。
「ソラは最近、何の本を読んでいるの?」
その質問にソラはティーカップをおぼつかない手つきで置いて答える。
「最近はグラート・ディルリッチの哲学書をよく読んでます」
「ああ、あの『ダークサークル』の名付け親ね」
「はい、それで有名な方ですが、哲学者としても非常に有能な方です」
「へぇ、そうなの、それでその哲学書の内容はどう?」
「少し難しいです。内容がかなり濃密なうえ、専門的知識を前提に置いた論理を展開するので」
「それは大変そうね。理解できそう?」
「はい、他の哲学書と平行に読み進めているので、理解するには問題ありません」
「がんばってるわね」
ファミリスはほほえむ。ソラはティーカップにもう一度口につけたあと、二人が座るテーブルから少し離れた庭園の一角に目を移した。
そこには父ザベルがイスに座りながら本を片手に二人を眺めていた。
ソラはテーブルの方に向き直り、一瞬だけ眉を寄せた。
ソラの父親ザベルは非常に優れた才知を持つ人物だった。そして寡黙な人物でもあった。
対してソラの母親ファミリスはザベルと対称的で平凡な人物だった。しかし明るく、優しく、快活な人物でもあった。
ソラはその頃からザベルに対してどこか不快感を持つようになっていた。
父は物事を常に冷静に分析する優れて頭脳を持っていた。しかし、人の心や感情すらも他人事のように分析していく様は、ソラにとっては不気味だった。父の分析は非常に的を射ているものだったが、それは逆に人を人とは見ていない、冷たい印象を受けた。
少し離れた場所から、ソラとファミリスの様子を見つめているザベルの無機質な目を見るたびに、ソラは自分たちが観察されているような嫌な印象を受けていた。
その頃のソラはほとんどの時間を屋敷の中で過ごすようになっていた。内乱が始まり、国が荒れてから、家を外出することがほとんどできなくなっていた。その理由は、軍人である父親の立場もあり、ソラの身の危険が考慮されてのことだ。
ソラは家にいるほどんどの時間を母親と屋敷の使用人と過ごしていた。
八才頃までは家庭教師が毎日のように訪れていたが、
「この子は私が教えるより、自分で勉強した方が効率が良いでしょう」
という言葉を残したあと、訪れなくなった。
家でのソラはひたすら読書とチェスに明け暮れていた。
読書の読み物は、屋敷に大量に保管されているザベルが若い頃に読んだ学問書。
チェスの相手は、ほとんどいない父親に代わり、年寄りの長い鼻の執事レッドロッドが務めた。ただしレッドロッドは七才頃からソラの相手が全く務まらなくなっていたため、ソラは目隠しチェスや、早打ちチェスなど、一人で勝手に試行を凝らして打っていた。レッドロッド執事はゲッソリしながら毎日のようにそんなソラを相手にしていた。
それから二年後……
十二才のソラは屋敷の部屋でザベルとチェスを打っていた。
「チェックメイト」
ザベルは最後の駒を動かし、そう言った。
「うう……」
ソラは悔しそうにうなる。
「あと一歩だったのに……」
「その言葉は二年前から言っているだろう。この調子だとあと二年はそう言い続けるな」
「二年後にはお父様に勝てるということですか?」
「二年後には私との実力差が思っていた以上にあったことに気づくだけだ」
その言葉を聞いてソラはムッとした。
紅茶の時間、庭園でファミリスと共に紅茶を飲むソラは小さくため息をついた。
「また勝てなかった……」
「そんなに落ち込むことはないわよ。あの人は特別強いんですから」
「わたし、お父様にだけ負けたくないの」
「あの人はソラにとってのライバルね」
ファミリスは嬉しそうに笑う。それを見てソラは少し眉を寄せる。
(ライバル……? 違う……私はお父様が嫌いなだけ、だから、あの人にいいようにされるのは、我慢できない)
「でもきっとあの人もソラの事をライバルだと思っているわ。だってソラとチェスの勝負をしているとき、一番真剣な顔してるもの。やっぱりソラはすごいわ。あなたは父親に似たのね」
ソラは全く嬉しくなかった。
(私は……人殺しなんかじゃない)
ソラはファミリスを見た。
(どうしてお父様はお母様と結婚したんだろう。そもそもお父様みたいな人間が、お母様のような人に惹かれるとはどうしても思えない。まるで、お母様が自分の意のままに動かせるから、妻として迎え入れたように思える)
ソラは眉を寄せた。
(それに、私はお父様が笑っているところを見たことがない。私を見てもお母様を見ても、お父様は表情一つ変えない。そういえば、子供は私一人だけだ、貴族なのに男の子がいない。どうしてだろう……そうか、私しか産めなかったんだ。だからお父様は、お母様にも私にも興味がないんだ)
ある日の昼、父は軍人のグロモン中将を客として招いていた。
食卓をザベルとファミリスとソラとグロモンで囲む。
グロモンは上機嫌に口を開く。
「ソラ譲、君の父親は軍人として非常に有能だよ。軍内ではロストブルーを最高の英雄と呼ぶ声が強いが、私は君の父の方がすごいと思うよ。ロストブルーは一回の戦場で倒せる敵は多くても千人かそこらだが、君の父が軍を指揮すれば数万の敵を倒すことができるのだからな」
(それだけたくさんの人を父は殺してる……そんなの何の自慢にもならない)
ソラは戦争が嫌いだった。多くの人が死ぬ戦争を認めることが出来なかった。それは同時に、軍人であるザベルを認めることができないのと同じだった。
ソラは思っていた、ザベルは軍人として卑怯だと、自らの指揮で数万の人を殺しながら、ザベル自身は一切、手を汚していない。
ザベルはいつものように表情一つ変えずに、何も感じず、人を殺め続けている。ソラにはそう思えた。
ある日、ソラは軍服に着替えたザベルと廊下で会った。
「また任務ですか。お父様」
「そうだ」
ザベルはそれだけ答えて、ソラを横切ろうとした。その瞬間、ソラは今まで自分の中に溜め込んでいた思いをついにザベルにぶつけた。
「どうしてお父様は軍人になったんですか」
ザベルは足を止め、ソラを無機質な目で見つめた。
「ライトシュタイン家は代々軍事貴族だ。私も父の跡を継いだだけだ」
「自分の意思ではないのですか」
「私の意思でもあるし、父の願いでもあった。それに決まりでもあった」
「……!!」
ソラは不快な表情をした。
「その程度のことで、そんなことで、あなたは戦場へ行って人を殺めているのですか?」
「……おまえは戦争が嫌いだな」
「言った覚えはありませんが?」
「見ていれば分かる。だから私を遠ざけるのだろう? 戦争をする私を」
ザベルは表情を変えずに言った。
「戦争を好きになれと……?」
「そうは言ってはいない」
「戦争は多くの人同士が武器を取り、殺し合いをすることです。とても正気のこととは思えません」
「おまえは戦争を愚かだと思うか?」
「愚かの行為だと思います」
「そうか……」
ザベルは一瞬黙った。
「だがなソラ。本当に戦争は、正気を失った人間が行う行為なのか? 愚かな人間が行う行為なのか? ならばなぜ、戦争は何度も繰り返されている?」
「それは……」
「戦争は正気を失った人間や、愚かな人間が起こしたものではない。まともな人間が、真剣に考え、導きだした、一つの答えだ。だから戦争は繰り返す。ならば、戦争とは人そのものだとは思わないか?」
「人そのもの……?」
「戦争を馬鹿だと言うことは人を馬鹿だと言うことだ。戦争を愚かと言うことは人を愚かと言うことだ。戦争を狂っていると言うことは人を狂っていると言うことだ。ならば、戦争を認めることは、人を認めることにはならないか?」
ザベルはソラの目をじっと見た。
「戦争を馬鹿だ愚かだと言っている内は、戦争を真に理解することはできない。ならばそう言っている限り、戦争を肯定するにしろ否定するにしろ、戦争と向き合うこともままならない、無知な批評家に過ぎないとは思わないか?」
「私がそうだと……?」
「自分で考えてみればいい」
ザベルはソラを横切り、そのまま屋敷の外へと歩いていった。
ソラはその背中をにらんでいた。
(あの人はずるい。そうやって人を説き伏せて、自分の行いを正当化してるに過ぎないんだ。自分が人を殺してる事実を正当化してるに過ぎないんだ)