0-3 フロウ・ストルーク(前編)
それは約一年前の出来事。
セサミボーダーという名の町、その中心地、純白の屋敷が連なる貴族住宅街にフロウ・ストルークは住んでいた。
その頃のフロウは、将来この町の町長である父親の後を継ぐために、様々な教育を受けていた。
貴族の家庭に生まれたフロウは裕福で何不自由ない生活を送っていた。そしてフロウにとってはそれが当たり前のことだった。
そして将来は町長になってセサミボーダーの町を治める。それがその時のフロウの目標だった。
フロウはその目標に向け日々努力をしていた。
その頃のフロウにはそれが一つの強い目標であったが、目標とは別にフロウは家族に対してある大きな秘密も持っていた。
ある日の午後、フロウはいつも通り屋敷の一室で家庭教師に勉強を教えてもらっていた。
フロウは大きな机に座り、問題を解いている。
問題を解き終わるとそれを先生に手渡す。
先生は問題を採点すると満足そうに口を開く。
「うん……素晴らしい、満点だ。フロウ」
「本当ですか! 先生」
「やはり君は理解が速いな」
フロウにとってはいつもの通りの結果だ。それでもほめられると素直にうれしかった。
その日の夜フロウはいつものとおり、父と母、三人で食卓を囲んだ。
母はうれしそうに口を開く。
「今日も満点だったそうね。フロウ」
「はい、母上」
「先生がほめてらしたわ。フロウは自分が今まで教えた生徒のなかでも特に優秀だと」
「そんなこと……、僕なんてまだまだです」
フロウは笑いながらそう言った。
「剣術の先生も言っていらしたわ。フロウには特別なものがあるって。ホント、フロウは我が家の自慢ね。この町の将来も明るいわ」
「後はもう少し背が伸びるといいのだがな」
父が落ち着いた声で口を挟む。
「そうねぇ、もう二年前から止まってしまって……でも大丈夫よ、フロウ。またすぐ伸び始めるわ」
「ベ、別に僕は気にしていませんよ。母上、たとえ身長が低くてもこの町を立派に治めることはできます」
「だが威厳はないな」
父がまた口を挟む。
「まあ、あなたったら、大丈夫よ、フロウ。父上も私も背は高いから、あなただけ低いなんてことは……」
「だ、だから、気にしていませんよ!!」
「声が大きいぞフロウ。食事中だ」
最近なにかとこの話題が多い、十八歳になるフロウはいまだに身長が150cmない。町を歩けば五つは年を下に見られる始末だ。これのおかげで年上好みのフロウには、いまだに付き合う相手がいない。
知識が広く、頭も良い、運動神経もあり、気配りもでき、顔も整っているフロウだが、この異様に小さい身長のため、おかげさまで彼女ができる気配がない。実は秘かな悩みである。
そんな悩みはさておき、フロウにはある秘密がある。
家族の誰も知らないある秘密が……
ある日の午後、フロウはいつもどおり屋敷で昼食を食べたあと、いつもどおり自家用馬車に乗り、いつもどおり町に出る。ある場所に行くために。とはいえ、そこは同じ町の中心部、あっという間に着いてしまう。
大きな屋敷が並ぶ街の中心部、その中でもひときわ巨大な純白の建物。
セサミボーダー町立ジーブ図書館。
グラウドでも屈指の書籍数を誇る図書館である。ここに通うのがフロウの日課の一つだ。
フロウは広い図書館内に入ると、大きな本棚のあいだを歩く。
「さてと……」
フロウは適当に一冊本を抜くと、さらさらと素早く読み始める。
そして三十分ぐらい読むと、それをすぐにもとの本棚に戻した。
実はこの図書館に行った目的は読書ではない。
このあっという間に終わる読書は食卓での話題作り、つまりは「しっかり読書をしていました」と家族に報告するためのものだ。
フロウはそのまま階段をのぼりニ階のテラスへ上がる。
一階は人が多いが、二階は専門的な本ばかりで人の姿はまばらだ。
フロウはさらに三階のテラスに上がる。
ここまで行くと誰もいない。ときどき専門家らしい老人がいることもあるが……
「今日はいないね」
フロウは誰もいないことを確認するとテラスの壁に取り付けられている大型の窓を全開に開けた。
窓から見える純白の屋敷の屋根の数々。優しい風が入ってくる。
フロウは迷わずその窓から身を乗り出し、外に飛び出した。
フロウの体は図書館の窓から勢いよく落下する。
右足で建物の壁に触れ、軽くブレーキをかける。
そしてフワッと地面に落下する。
もうこれを何十回もやっている、フロウにとっては慣れたものだ。
図書館の外でフロウを待っている使用人は、まさかこんな所から外に出るなんて思ってもいないだろう。
家族に内緒で外に出るフロウ。
外に出てしまえば自由の身、フロウはタッタッと走りながら裏道に入る。
そして町の中心部からあっという間に飛び出す。
セサミボーダーの町の中心部から外側、そこには平民の住む町が広がっている。それよりもさらに外側、町を囲む最外部。そこには平民と農民が入り混じって住んでいる荒んだ町並みが広がっている。
フロウは路地裏の陰で平民の服装に手早く着替え、髪を少し乱し、そして念のため護身用の短剣を懐に忍ばせる。
そして荒んだ路地を歩く。木製のハリボテの様な民家が延々と続く景色。まともに補修もされていない家の数々は痛々しいほどだ。
ブルテン皇帝が悪政をふるってからは、国全体が荒れ果てている。
そしてとくに貴族、平民、農民の権力差は異様な隔たりを見せ、地位的に下位に属する者の生活は目もあてられない。
フロウはこの路地のさらに裏道に入る。
ボロボロの家に挟まれた裏道は、子供一人がやっと通れるほど狭さだ。
フロウはそこを難なく抜ける。
そして少しだけ広いスペースに出た。フロウにとってはいつもどおりの道順だった。
そこには、ひときわボロボロの小さな家が建っている。
比較的大きな木製の家々に囲まれているその家は、周りに光が届かず外の路地よりもさらに暗く、荒んだ雰囲気だ。
フロウはそこに近づく。
家の扉が目の前まで近づいたその時、小さな音色が耳に入ってきた。
その音色が耳に入った瞬間、フロウは、辺りの景色が急に明るくなり、光に包まれるような感覚がした。
美しく、そして優しい音色。
フロウはゆっくりと扉を開けた。
美しい音色がよりはっきりと聞こえてくる。
暗い部屋のなかで一人の少年がフルートを吹いている。
少年は年齢十六、七、黄色い髪に茶色の瞳をしている。柔らかい顔つきで、全体的に優しげな雰囲気を持っている。
暗い家に響き渡る美しい音色。
荒んだ町でこの空間だけ、柔らかな黄色い光に包まれたような錯覚を覚える。
そして曲はゆっくりと終わった。
少年は静かにフルートから顔を離し、フロウの方を見てニコッと笑う。
「やあ、フロウ」
「綺麗な曲だね。マウル」
「うん、最近作ったんだ」
「僕のお迎えに吹いてくれたんだね」
「ハハハ、さすがフロウ、なんでもお見通しだね」
マウルは頭を触りながら笑顔で言った。
マウルはフロウの友達だ。
五年前、当時十三才のフロウは屋敷の生活に飽き飽きしていた。
町長になることに興味がないにも関わらず、そのための勉強ばかりが続く日々。
ある日フロウは図書館から始めて抜けだし、町の最外部に出た。
貴族の服装をしたままここへ来たフロウは、町のチンピラ達に目をつけられ襲われた。
必死で逃げるフロウを偶然見つけたマウルは、フロウを裏道へと引っ張り、チンピラ達を巻いて助けた。
それをきっかけにフロウとマウルは友達になり、以来フロウはたびたびマウルの家を訪れるようになった。
マウルの地位は農民。
本来なら貴族が農民と友達になることは世間的には許されない。
けれどフロウにとってはそんなことは関係なかった。フロウにとってマウルは大切な友達だからだ。
十八になって両親の信頼を得てからは毎日のように図書館に通い、そしてこっそり抜け出し、ここに来ている。
フロウはここでマウルの演奏を聴いたり、雑談などをしたりして過ごしている。
「『ダークサークル』……?」
マウルがフロウに聞き返す。
「そっ、『ダークサークル』……地位の隔たり、長く続く内乱、乱れる人の心、そんな混沌とした今のこの国の状態を、哲学者クラース・ディルリッチが国を丸ごと呑み込む暗黒円『ダークサークル』って名付けた。以来、国中でそう呼ばれてる。今のマウル達農民の生活が荒れ果てているのもその一つさ」
「そうなんだ。今のこんな状態が国中で起きているんだ……」
「そう、この町の最外部の今の状態も『ダークサークル』の影響だって言えるね」
「それじゃあ、今起きてる国軍と解放軍の大きな内乱も?」
「そうだね、それも『ダークサークル』に含まれる……ただ、ここだけの話、僕は解放軍側の方を支持してるんだ」
「解放軍側を? ……だけどここは国軍領だよ」
「うん、だからここだけの話……正直、国軍の暴挙には耳を疑うことが多いからね。スロンヴィア虐殺にピークライト虐殺、ライゲン虐殺……挙げればきりがないからね」
「うん……確かにそういう話を聞くごとに、すごく怖く感じる。ボクらにも同じことが起こるんじゃないかって……」
「そうだね、それほど今の国の状態は悪いって言える。特にマウル達農民に関しては、はっきり言って異常だ……でもねマウル」
「なに?」
「僕が町長になったら、この町のこんな状態を変えてみせる。農民がちゃんとした生活を送れるような、そんな町に変えるんだ。そうすれば今の状態を、この町だけでも変えることができる。そして、もしかしたらこの町から、その変化がこの国中に広がって、国全体が変わることだってあるかもしれない!」
フロウは強い口調でそう言った。それを聞いてマウルがほほえむ。
「そうだね。そうなったらステキだね」
「そうさ! 夢はでっかく持たないと!」
「フロウだったらきっとできるよ。僕もそうなるように応援するね」
「ありがとうマウル。それじゃあさ、応援ついでに聞かせてくれない? いつもの曲」
「ハハハ、またか、フロウは好きだね」
「マウルは嫌い?」
「ううん、もちろん大好きさ」
マウルはそう言って白いフルートに口をあてる。
その直後、暗く狭い部屋は、美しい音色に包まれる。
フロウにとってここは、自分の屋敷よりもはるかに質素で、狭く、暗い空間だ。けれどこの音色一つでこれ以上ないほどの癒しの空間へと変わる。
マウルのフルートによる演奏はそれほどまでに美しいものだった。
マウルの持っているフルートは実は高価のものだ。
美しい装飾が施された白色のフルート。
マウルの誕生日にフロウがプレゼントしたものだ。
マウルはそれまでは木のフルートを使っていた。
壊れて捨てられていたフルートを真似て、マウルが木を削って作ったものだ。音が出るようになるまで相当苦労したらしい。
その木のフルートをフロウが吹いても、かすれたような音しか出ない、しかしマウルが吹くと美しい音色を奏でた。
マウルには音楽の特別な才能があった。
フロウがプレゼントしたフルートを初めて吹いた日、マウルはわずか三十分でそれを自分のものにした。
そしてマウルが奏でたいつもの曲。
それを聞いた時、フロウはあまりの美しさに感動すらした。
フロウは屋敷で父親が招待した音楽家たちの演奏を良く聴くが、そこで聴いたどのフルート奏者よりもマウルの音色は美しかった。そしてマウルが作る曲、それは屋敷で聴いたどの曲よりも暖かく、優しい音色だった。マウルの性格がよく出ているとフロウは思った。
フロウはそれらの曲がなによりも好きだった。
音色が静かに止む。
温かい光に包まれていた部屋が、再び暗く沈む。
「ねぇ……、マウル」
曲を吹き終えたマウルの前で、フロウはこの日まで、ずっと考えていたことをマウルに話す。
「マウルは音楽家になる気はないかい?」
「音楽家?」
「そっ、フルート奏者」
「考えてことないな。ボクは好きで吹いてるだけだし、それにボクの腕で音楽家になんて……」
「そんなことはないよ。僕は色々な演奏を聴いているけど、マウルの腕は決してそれに劣らない。しっかりとした指導を受ければ、きっとすごいフルート奏者になれる!」
「だけど……」
「フルート奏者として有名になれば今の生活だって抜け出せるよ。大丈夫、僕も協力するから」
マウルは少し考えた。
「うん、わかった。ボク、音楽家を目指して見るよ」
マウルはそう言ってニッコリと笑った。
その答えを聞きフロウも嬉しくなってニッコリと笑った。
その日の夕食、フロウの父がある話を始めた。
「最近、町の最外部に住んでいる農民達がなにやら奇妙な集会を開いているらしい……」
「奇妙な集会? どんなものなんです」
母が聞き返した。
「詳しいことはわからん。だが警察の話では反乱を起こそうとしているのではないか、ということだ」
「反乱!?」
「セウスノール軍が勢いを増してから、そのようなことが国のあちこちで起きているらしい。そのような反乱は主として貴族をターゲットに行われる……」
「怖いわ……取り締まれないのですか?」
「無論取り締まるさ。今その対策を立てているところだ」
その話を聞いてフロウは食事の手を止めた。
「確かに対策を立てるも大切だと思います。しかし、それより今の農民の待遇を少し改善した方が良いのでは?」
それを聞いて、父は静かな口調でしゃべる。
「……町にいる農民は領地を追われて移りつんだ者が多い。そのような者達に一人ひとり構っていては町の運営は成り立たん」
「その理屈はわかります。それでも、今の貴族と農民との生活にはあまりに差があります。町の貴族の生活レベルを少し落としてでも、農民、平民の待遇の改善をはかるべきではないんですか。それが結果的に町の治安を良くすることにも繋がります」
「お前の言いたいことはわかる。しかし、それを貴族が了承するはずがないだろう。それをさせるにはかなり強引な手を使わなければならない」
「それでも……」
「それができたとしても平民や農民の生活レベルの向上は今の体制下で容易にできることではない。フロウ、おまえは頭がいい……しかし頭がいいだけで経験を持たないおまえは、いつも小手先で物事を考える。現実はそう構想どおりにはいかないものだ」
「……!!」
フロウは言葉に詰まった。
「とにかく今、町の最外部は非常に治安が悪い。お前がそこに近づくことなどないと思うが、住宅街の少し外側にも、そのような輩はうろついている。十分気をつけろ」
「…………はい」
「農民などと関わってもロクなことはない」
「……! 父上、今の発言はどうでしょうか? 農民にも『誇り』を持っている者はたくさんいるはずです。それをひとくくりにするのは間違いです」
「しかし、町の治安を一番乱しているのは農民だ」
「それは生活に困っているから……」
「どんな理由があろうとも、危険なものには警戒する。当然のことだろう」
母も口を開く。
「フロウ、父上はあなたを心配しているのよ。分かるでしょう……?」
「…………はい」
約一週間後、フロウはいつも通りマウルの家にいた。
フロウが重く口を開く。
「今回も駄目だったか……」
「うん。農民は組合に入れないって……」
マウルは肩を落とす。
「これで三つ目……町にある組合全てか……」
「うん……」
「組合に入って許可を得ない限り、音楽家として商売するのは不可能に近い……」
「けど……演奏すら聴いてもらえない」
重い空気が流れる。しばらくの沈黙。
フロウは口を開いた。
「マウルの腕なら絶対に音楽家としてやっていけるのに……地位なんて関係ないじゃないか……! そんなの音楽といったいなんの関係があるんだ!!」
フロウは声を荒げた。理不尽と思える状況に対して怒りがわいていた。
「フロウ……」
「本当に信じられないよ! もし僕に町長になるっていう目標がなければ、今ごろ解放軍に入ってるぐらいさ! ……こんな地位だけで人を判断するなんて正しいはずないんだ!」
フロウは感情的になっていた。
「…………地位か」
マウルは静かに言った。フロウと違い冷静な表情だ。
なにか違うことを考えているように感じた。
「……マウル?」
フロウはその様子が気になり顔をのぞく。
「あっ! ゴメン、フロウ。“地位”って聞いてちょっと思うことがあって……」
「“地位”で?」
「うん、前にフロウが『ダークサークル』の話をしてくれたよね」
「えっ? うん」
「ボク達の世界は今、『ダークサークル』に呑まれているんだって。地位の大きな開きもその一つだって」
「…………うん」
「ねえ、フロウ。でもさ、ボク達って不思議だよね、こんなに混沌としてる世界のなか、こんなにも境遇が違うのに、ボク達は出会い、そして互いに大切な友達になってる」
「そんなの……当たり前だよ。友達になるのに境遇なんて関係ない」
「……でも、ボク達はただ会うだけでも、こうして隠れて会わなきゃならない」
「………………」
「ねぇ、フロウ。ボク、ときどき思うんだ。ボク達はきっと、生まれながらに友達だったんじゃないのかなって」
「生まれながらに?」
「うん、たとえ二人が今とは違う境遇であったとしても、ボク達は出会っていればきっと友達になった。地位なんか関係なく、どんな境遇でも、ボクらはきっと友達……」
フロウはそれを聞いて思わずほほえんだ。
「そうだね、僕もそんな気がするよ。でも今とは違う境遇で会いたかったなぁ。そうすれば堂々とマウルに会えるもの」
「そうだね。フロウ」
マウルもニコッとほほえんだ。
ある日の朝、フロウは父と偶然、屋敷の廊下で顔を合わせた。
「フロウ、今日は早めに帰ってこいよ」
「え……なぜです?」
「なんだ、聞いていないのか? 今日は著名な音楽家を屋敷に招いているんだ。食卓の場で間違っても遅れることのないようにな」
「……! わかりました」
(これは……チャンスだ!!)
フロウはその日、マウルの家に行くまでのあいだ興奮しきりだった。
マウルの家に行っても興奮は収まらなかった。
「大チャンスだよ! マウル! こんな機会二度とない……!!」
「で、でも、その先生、貴族なんでしょ。ちゃんと演奏聴いてくれるかな……」
「それは大丈夫! 僕に考えがあるんだ」
その日の夜、家族とその先生を加えた四人で食卓を囲んだ。
その音楽家の先生は、四十代半ばの男性、丸い眼鏡をかけており、大きな鼻が特徴的だった。
グラウドでは、楽器は主に、フルートとたて琴が親しまれている。この先生はマウルと同じフルート奏者だった。
食事が終わった後、先生は父に客室に案内された。
先生が一人になるのを見計らってフロウは屋敷の門へと向かった。
鋼鉄の門は固く閉ざされ、警備も二人配置されている。
フロウは警備の二人に声をかける。
「ゼクソン、サーズ、母上が呼んでいるよ」
「ターニア様が?」
「うん、早く行ってあげて」
「わかりました」
警備員の二人はそう言って屋敷のなかへと入っていった。
フロウはその姿を見送ると内側から鋼鉄の門を開ける。
そして外へとヒョイッと顔を出す。
「マウル、大丈夫だよ」
フロウがそう言うと塀にくっついて隠れていたマウルが顔を出す。
「フ、フロウ、大丈夫なの……?」
マウルは不安そうな声を出す。
「大丈夫さ、見つかりっこないよ。仮に見つかっても僕がなんとかするから」
フロウはそう言ってマウルを敷地内に連れだす。
そして屋敷の裏へと連れて行った。
窓から漏れ出す屋敷の明かり、それに照らされるマウルの姿は、いつものホコリだらけの恰好よりもきれいになっていた。
「ちゃんと洗ってきたみたいだね」
「う……うん、すごく時間かけて」
「よし! あとは服装だ」
フロウは屋敷の植木に隠していた大きなバッグを取りだす。
そしてそこから貴族が着る高価な服を出した。
「うわあ、きれいな服」
「僕が買ったんだ。新品だよ」
「ごめんね、こんな高価の服……」
「いいんだよ。お金のことは」
フロウはマウルにその服を着せると、部屋から持ちだしたクシで丁寧に髪を整える。
身だしなみを整えたマウルは、農民とは思えないほど上品に見えた。
柔らかい黄色い髪にもともと整った顔、冷たい夜風が吹くと黄色い髪がフワリと浮いた。
「どこかの育ちのいいオボッチャンみたいだ」
フロウが思わず言った。
「や、やめてよ。なんだか恥ずかしいな」
マウルは顔を赤くする。
「よし、とにかく行こう。時間はあまりない」
フロウはマウルを引っぱり、開けておいた窓から屋敷に入る。
そのままマウルを連れて先生のいる客室に向かった。
屋敷は広い割に住んでいる人間は少ない。客室は少し遠いが、注意していけば誰にも見つからずにたどり着ける。
二人は誰にも見つからないように、慎重に、慎重に、先生のいる客室へと向かった。
二人は客室の扉の前に立った。フロウの心臓はここにきて初めて高鳴り始めた。
フロウはチラッとマウルの顔を見る。
マウルは青い顔で、唇を震わせている。フロウよりはるかに緊張しているようだ。
「僕が合図するまで中に入らないでね……扉から少し離れて待ってて」
フロウはマウルにそう言って扉をノックした。
しばらくして扉が開き、先生が顔を出した。
「……ん? フロウ君。どうしたんだ、いったい」
「夜分遅くに恐れ入ります。少し失礼してもよろしいでしょうか?」
「ん……? ああ、いいとも」
先生は不思議そうな顔でフロウをなかに入れた。
「あの、ここに来た理由はほかでもない。先生に聴いていただきたいんです。僕の友達の演奏を」
「友達の演奏?」
「はい、フルート奏者でとても才能があるんです。先生ならば、きっと理解してくださると思いまして……」
「今来ているのかね?」
「は、はい、マウル!」
フロウが呼ぶと扉がゆっくりと開き、マウルがヒョコッと顔を出す。
不安そうに部屋を見渡している。
「大丈夫、入ってきて」
緊張した様子のマウルは固い動きで部屋に入ってきた。
「この子が……」
先生はマウルの方をジッと見る。
先生に見られ、マウルはあまりの緊張でアワアワしている。
フロウはその様子を見て少し不安になる。
(大丈夫かな。これで演奏できるのか? とにかく早く始めた方が良さそう……)
「マウル、先生に君の演奏を聴いていただいて」
「う、うん!」
マウルは真っ赤の顔をしてうなずくと、白いフルートを取りだす。
そして一度ゆっくり深呼吸すると、スッと口をつけた。
口をつけた途端、マウルの表情が急に真剣になる。
今までの様子とは一変し、静かな雰囲気がマウルを包む。
マウルは演奏を始める。
その瞬間、その客室は暖かな光に包まれた。
黄色い光、淡い赤い光、薄い青い光、その光は優しく演奏を聴く者の体を包み込んだ。
(すごい、やっぱりマウルはすごい……いつも以上の響きだ)
先生は静かな様子で、その演奏を聴いていた。
優しく温かな光がしばらくのあいだ客室を包んだ。
そして演奏は終了した。
マウルはフルートから口を離す。
するとまた、顔がみるみる赤くなる。
フロウはチラッと先生の表情を見た。
先生は無表情でマウルの方を見ている。ゆっくりと口を開く。
「フロウ君、彼はフルートに関してどのような教育を受けてきたんだね」
「えっ!? え~と……独学です」
「独学……」
先生はアゴを指でさする。
「ど、どうでしょうか? 彼の演奏は……?」
「…………天才だ」
「……!」
「信じられない……これが独学なんて。しかしこの音色の特徴、確かに独学としか……、しかし信じられない」
先生の額から汗が流れている。驚嘆の汗だ。
フロウは確かな手ごたえを感じた。
「せ、先生がよろしければ、彼にしっかりとした指導を受けさせてはいただけないでしょうか? 彼ならきっと……」
「ああ、もちろんだ。喜んでそうさせてもらおう。彼ほどの才能をこのままにしておくことは、フルート奏者としての私が許さない」
「そ、そのことなんですが、先生。実は彼には少しだけ、ほんの少しだけ問題が……」
フロウはここで初めてマウルの地位について打ち明けようとした。
「問題? なんだね」
(大丈夫だ、絶対に)
「彼は農民なんです」
それを聞いた瞬間、先生の顔色が変わった。表情が急に固まる。
そしてゆっくりと顔を手で覆う。
「…………、なんてことだ……」
「先生……?」
先生はフロウの顔を見つめる。
「フロウ君、すまないがそれは無理だ。農民は音楽家にはなれない……」
「……! そんな、なぜですか!? 先生もあの演奏を聴いたでしょう! 彼には才能がある!」
「フロウ君、残念なのは私も同じだ。しかし無理なんだ」
「しかし! 音楽は地位でするものではないでしょう! どんな境遇の人が演奏しようと、その演奏が素晴らしければ同様に人の心を動かすことができる!!」
「そのとおりだ。しかしね、私は今までさまざまな子達に音楽を教えてきた。貴族だけではない、平民にもだ。そして、過去には音楽家になろうとした農民の子にも教えたことがある。だが、無理なんだ。農民は音楽家にはなれない……今のこの国での音楽の世界では、農民が踏み込める領域はないんだ」
「境遇と音楽はなんの関係もない! マウルの表現する音色は素晴らしい!! それで充分じゃないんですか!?」
「フロウ君、聞いてくれ。境遇とは運命にも等しいものだ。そこから人は逃れることなどできない。どんな才能があろうと、腕をもがれた音楽家が楽器を弾けないのと同様に……」
「そんなこと……!」
「フロウ君、それにマウル君、だったね。本当にすまない。私では君の力になることはできない」
マウルはこれまでの会話をぼうぜんとただ黙って聞いていた。
「ご家族には内緒で連れてきたのだろう。先ほどの演奏をもし聴かれていたとしても、私がしたことにするから、君は早くここから出たほうがいい」
フロウはそのままマウルとともに警備の目を盗んで屋敷を出た。
夜の暗い道を、フロウとマウル、二人きりで立っていた。
「送るよ。マウル……」
「え……!? でもフロウ……こんな夜に屋敷から出たら」
「いいんだ」
フロウは静かにそう言った。
夜の道を歩く二人。
そのときのフロウの表情は、表情だけなら冷静そのものだった。
しかし、内心ははらわたが煮え返る思いだった。フロウは心臓のあたりに燃えるような熱さを感じていた。
夜の道でなければ、真っ赤に上気した顔で、マウルに内心を気付かれていただろう。
フロウはマウルに気付かれないように静かに歯を食いしばっていた。
(境遇? 地位? なんだ、それは。マウルは才能がある。それなのに……、境遇だって、地位だって、ただの人間が定めているラインじゃないか。そんなもの、マウルとなんの関係があるんだ。どんな境遇だってマウルはマウルだ。どんな地位だってマウルの演奏は美しい。そんなの、聴けば誰にだってわかるじゃないか。どうして……! どうしてそれがわからないんだ……!!)
フロウはあまり悔しさで涙が出そうだった。
言葉が出てこない。
フロウとマウルは黙って町の最外部へと歩いて行った。
フロウはマウルを家まで送った。
「それじゃあね。マウル」
「待って! フロウ」
立ち去ろうとするフロウをマウルは止めた。
「マウル?」
「ボクの演奏、一曲だけ……聴いてくれないかい」
フロウはマウルに部屋へ招かれた。
フロウはこんな時間にマウルの家に入るのは初めてだった。明かり一つない漆黒の空間。
暗闇のなかでマウルの声だけが響いた。
「ねぇ、フロウ。少しだけ話を聞いてくれないかい」
「なに……?」
「ボクはね……嬉しかったんだ」
「えっ?」
「フルート奏者になれなかったのは確かに悲しかった。でもねフロウ、それ以上に、ボクのためにフロウが色々としてくれたことが、ボクには嬉しかったんだ……」
「マウル……」
「ボクの演奏は、確かにたくさんの人に聴かせることはできないのかもしれない。だけど、フロウには聴かせられる。ボクにとって一番聴かせたい人に聴かせられる。一番聴かせたい、たった一人に聴かせられる。ボクはそれだけで十分幸せだ……」
「マウル…………、ハ……ハハハ、贅沢だな……マウルの演奏を一人占めにできるなんて」
「ありがとうフロウ。本当にありがとう。今日のことも、そして今までのことも、だから、これはボクからのほんの少しのお返し。聴いてフロウ、ボクときみが一番好きなこの曲を……」
マウルはゆっくりと演奏を始めた。
漆黒の空間に暖かな光が差し込み、そして満たす。
優しい音色、温かな音色、包み込むような音色。
暗闇のなかで音色が響く。
暗闇のなか、本来ならマウルの姿は見えない。
けれどフロウの目には、確かにそこにマウルの姿が映っていた。柔らかな光に包まれて演奏するマウルの姿が……
(そうか、そうだったんだ。父上や先生が間違っていたように。僕も間違っていたんだ。才能……名誉……そんなもの、マウルにはきっと、なんにも関係なかったんだ。そんなものがなくても、マウルは、人は…………こんなにも輝ける)
フロウの目から熱い涙がこぼれ落ちる。
(ありがとう、マウル。ありがとう)
……フロウはこの日の出来事を、今でも鮮明に思い出せる。
けれど、その時のフロウはその後に起こる、ある悲しい出来事を、欠片ほども予期してはいなかった。