夜明け前、正義は歩く
この世界には、勇気より先に拳を振るう者がいる。
だが、それでも――
たった一歩の「拳(正しさ)」が、誰かを救う光になることもある。
路地裏の薄暗がりに、金髪癖っ毛の少年は悠然と立っていた。周囲を取り囲む悪漢たちの視線を受けても、彼の表情には一切の焦りは見られない。むしろ、口元には楽しげな笑みが浮かんでいた。
彼の名はまだ明かされていないが、その姿勢や眼差しからは、ただ者ではないことが窺える。
「おいおい、そんなに睨むなって。俺、ただの通りすがりだぜ?」
少年の声が響くと、悪漢の一人が怒声と共に少年に向かって拳を振り上げた。しかし、少年は微動だにせず、ただ足元に転がっていた空き缶を無造作に蹴り上げる。それが偶然にも悪漢の顔面に直撃し、彼は地面に倒れ込んだ。
「あれ? 大丈夫か? 俺、何もしてないけど。ラッキー!」
少年はその滑稽な様子に軽く肩をすくめた。次に、別の悪漢が背後から少年に飛びかかる。少年が何気なく身をかがめた瞬間、背後の悪漢は彼の頭上を飛び越え、前方の壁に激突する。
「おっと、タイミング悪かったな。俺、ただ靴紐が気になっただけなんだけど。」
少年の動きは、まるで偶然が連続しているかのようだ。彼自身も驚くほどの幸運が、彼を守っている。悪漢たちは次々と自滅していき、少年は無傷のままだ。
「運も実力のうち、ってね。」
少年は肩をすくめながら、次の相手に向かって歩み寄る。その動きはまるで舞踏のように優雅で、しかしその先に待つのは死神のような冷徹さを感じさせた。
彼の戦い方は、まさに「ラッキーボーイ」の名にふさわしいものだった。
⸻
その頃、ヴィクトルは冷静に状況を見極めていた。彼は柔道の使い手であり、体格差をものともせず、相手の動きを読み取っていた。
「柔よく剛を制す、ってね。」
ヴィクトルは低く身を沈め、巨体の懐へと滑り込む。
肩車に入る素振りを見せたその刹那——悪漢の足元をすくうように小外掛けを放つ。肩車は囮、真に狙ったのは小外掛けによる一撃だった。ぐらりと揺らいだ巨体が、鈍い音を立てて倒れる。
その隣に飛び込んできたのは、金髪くせっ毛の少年――
「おいおい、ガキんちょ」
ニヤリと笑って、肩越しに言う。「都合のいいとこだけ使ってんなよ。“剛よく柔を断つ”ってのもあるんだぜ?」
「ぐっ……そっちは僕が言いたくなかったやつ……!」
「ハハ、だろーな」
「ていうか! お前もガキだろ!!」
「……んだとぉ?」
火花が散りそうな視線の応酬。しかし、その空気すらどこか楽しげで、妙な連帯感すら漂っていた。
その様子に、一人の悪漢が怒気を荒げた。
噛み殺していた焦燥が破裂する。
「舐めるなよ、クソガキッ……! 一流貴族の忠実なる配下のこの俺が――負けていいはずがねえんだよ!!」
叫ぶなり、男は重心を低く落とした。獣が喉元に喰らいつく寸前の姿勢で、ヴィクトルめがけて猛然と突進する。
その眼にはもはや理性の光はない。あるのは忠義か狂気か――境界線の見えぬ執念だけだった。
ヴィクトルは、悪漢の突進を冷静に見極めた。
瞬時に間合いを詰め、左手で相手の袖を掴む。腰を滑り込ませ、「袖釣り込み腰」の体勢を取る。しかし、相手の巨体から伝わる重みを感じ取り、彼は即座に判断を下した。
――このままでは押し負ける。
一瞬で技を解き、内股への切り替えを選択。相手の内腿に自らの足を滑り込ませ、軸を崩す。重心が揺らぎ、ヴィクトルは体を捻りながら相手を地面へと叩きつけた。
鈍い音が響き、巨体が倒れる。
ヴィクトルが声を荒げた。
「やれっ、トドメだ。」
その隙を、ラッキーボーイが逃すはずもなかった。
「おっしゃ、チャンス!」
足元の空き缶をつま先で弾く。狙ったわけでもないのに、それは見事な放物線を描いて倒れた悪漢の顔面を撃ち抜いた。
「ラッキー!」
声を上げるや否や、次の敵へと勢いよく踏み出す――が、勢いあまって足を滑らせた。宙に浮く視界、ぐらりと傾く重力。だが、地面に叩きつけられるよりも早く、彼の体は悪漢の足元に突っ込む形となり、敵の脚を刈るようにして巻き込んだ。
「うおっ、いてて……あれ? 倒した?」
地面に転がりながら見上げた先には、顔面から倒れ込む悪漢の姿。
偶然か、奇跡か、いや――これが彼の日常である。
ヴィクトルはポケットから石を取り出し、瞬時に魂気を込めた。
冷徹な正義が彼の指先から流れ、石はわずかに青白く輝き始める。
それを握りしめた手のひらから、力がみなぎっていくのを感じながら、彼は静かに目標を定める。
「逃がさない」
目の前の悪漢が一歩踏み込むのと同時に、ヴィクトルは力を込めて石を放った。
石はほとんど目にも留まらぬ速さで飛び、
鋭い音とともに、石は彼の顔面に直撃。悪漢の顔が一瞬で歪み、体が大きく後ろに倒れ、力なく地面に倒れ込んだ。
その反動で、血が唇から溢れ出るが、意識を失うことなく、眼前の空虚を見つめ続ける。
「これで、終わりだ」
ヴィクトルの冷徹な表情に一切の感情は浮かばない。彼は目の前の相手の動きを見届け、戦闘の終結を確信した。
金髪癖っ毛の少年は立ち上がり、ヴィクトルに向かって親指を立てる。「やっぱ、俺ってラッキーだな!いや、俺たちか!!」
ヴィクトルは苦笑しながらも頷く。「ああ、確かにラッキーに助けられたよ。」
ラッキーボーイは肩をすくめながら、にやりと笑った。「だろ?運が良ければなんとかなるってね。」
少女を無事に救出でき、二人の少年は互いに笑い合った。
リリィは、しばし立ち尽くした後、ヴィクトルとラッキーボーイを見上げる。涙で潤んだ目をこすりながら少女は駆け寄り、声を震わせながら二人に感謝の言葉を口にした。「本当に、ありがとうございます!」
少女の声は震えていたが、その目は力強く、二人の姿をまっすぐに見据えていた。
「私はリリィ。リヴァンディア近郊で家族と農業をしています。今日は……古書屋に、治癒魔法の本を探しに来ていて……でも、まさかこんな目に遭うなんて……」
言葉が詰まりかけたところで、彼女は深く頭を下げる。
「あなたたちがいなかったら、私は……っ。本当に、心から感謝します。」
沈黙が降りた。
一瞬の間をおいて、リュークが頭をかいた。やや目を逸らしながらも、口元には照れ笑いが浮かんでいる。
「いや、ラッキーだっただけさ。……君が無事で良かったよ。リリィ、いい名前だな。」
彼はふっと息を吐き、そして手を差し出すような仕草を加えて名乗る。
「俺はリューク。“運が味方してくれるバカ”ってよく言われる。でもな、運も実力のうちだって思ってる。」
「ふふっ...」
リリィが小さく笑い、その無邪気な笑みが空気を柔らかくした。
ヴィクトルも、リリィに目を向けわずかに口角を上げて言葉を継ぐ。
「ヴィクトルだ。今日、こいつの相棒……というより保護者になった。」
リュークが「おい!」と抗議の声を上げたが、ヴィクトルは動じず、淡々とした声で続けた。
「君が生き延びたのは、君自身の強さでもある。誇っていい。」
リリィの目に、じんわりと涙が浮かぶ。
その柔らかな空気を、無遠慮な笑い声が破った。
「クク……お涙ちょうだいかよ。ほんっと、お人好しだなぁお前ら……!」
縛られた悪漢の一人が、血のにじんだ口元でニヤつく。
「だがな。あの貴族様の名を聞いたら、震えて逃げ出すぜ……“レオナルド様”ってな。あんたらがぶちのめしたのは、その忠実な配下だぜ……!」
ヴィクトルの瞳が細くなる。リュークは眉をひそめ、リリィがその名に息を呑んだ。
「レオナルド……?」
「へへ、知らねえのか? 街の裏じゃ有名な“女児狩り”の変態貴族だ。竜人のガキとかをさらって、あんなことやこんなことしてんだよ……売り飛ばしたりな。こいつもそのルートに乗る予定だったんだぜ?」
視線がリリィに向けられる。
「お前もだよ、小娘。人間だからって安心してんなよ。若けりゃ、それなりに高く売れるんだ……!」
言い終える前に、リュークの拳が容赦なくその顔面を殴打した。
「二度と口を開くな。」
その声は、どこか怒りを超えた、冷たく沈んだ響きを持っていた。
ヴィクトルは、すでに警備隊を呼びに向かっていた。ほどなく、数人の騎士が到着し、悪漢たちは無様な姿で引き渡される。
だが、彼らの背後にある“レオナルド”という名が、この先の物語にどんな影を落とすのか――
そのとき、三人はまだ知らなかった。
「悪漢に少女がさらわれ、少年たちが助けに現れる」――
それだけなら、よくある冒険譚かもしれない。
けれどこの街には、裏で人が売られ、金と快楽のために命が踏みにじられている現実がある。