7 恥ずかしい記憶
「この人、痴漢です!」
優里は、車内で隣に立つ男の制服の裾を引っ張り、大声をあげて助けを求めた。
朝七時台の電車は、八時台に比べればマシとはいえ、かなり混んでいる。優里は中学に入学した初日から四日続けて、痴漢という卑劣な犯罪の被害にあっていた。
まるでブレザーの制服が目印のように、キモいオヤジたちが近寄ってくるのだ。
今日こそは、今日こそはーーと、声をあげる勇気を身体中からかき集めるのだが、お腹から喉元あたりにきたところで止まってしまっていた。
四日目の今日は、横に立つ男が自分と同じくらいの背丈で、なおかつイーグルにしては見た目に険が無く、何よりも同じ年頃だったため、一気に喉元を通過して口から言葉が噴出したのだ。
「この人、痴漢です!」
優里の周囲が少しだけざわついたが、視線を向けるだけで誰も動かない。優里は駅員に引き渡そうと、男の制服の裾を掴んでドアの方へ行こうとしたが、男に振り解かれてしまった。
「違うよ」
男は冷淡な口調で言った。
「僕は見ていなかったけど、可能性でいうなら、そこの、新聞を持っているおじさんだと思う」
そう言って男が視線を投げた先には、折りたたんだ新聞を持つスーツ姿の中年男性が立っていた。出っ歯のネズミだ。
「な、何だと。ふ、ふざけんな!」
お前が真犯人だと指名された男性は、怒りながらも次の駅で降りた。その駅が彼の本来の目的地かどうかは不明だが。
「どうして――」
言葉を失った優里に、男は容赦無く言葉を浴びせる。
「どうしてかって? そりゃあ君の近くにいた獣人の中で、一番、挙動不審だったからね。君が『痴漢です』って言ったときも、ビクンと体を硬直させていたし、あの男が乗り込んでから三駅は通過したけど、新聞を一度も折り返さなかった。電車が少し揺れただけで大袈裟に体を揺らしていたしね。変な奴って思っていたけど、痴漢行為をしていたのなら頷ける――」
優里は男の話を聞きながら、恥辱やら後悔やら憤怒やら色々な感情が混ざり合い、その捌け口を求めた結果、男のこめかみあたりを殴ってしまった。いわゆるグーパンチというやつで。
「いてっ」
饒舌だった男が黙って優里を見つめた。周囲の乗客たちは関わり合いになりたくないようで、完全に無視を決め込んでいる。
残された優里は気まずいまま棒立ちし、次の駅で車両を乗り換えた。
通学に最適な時間帯の電車だったが、もう同じ時間帯に同じ車両には恥ずかしくて乗れない。そう思うと、あの男に対する怒りが再燃した。
仏頂面のまま登校すると、やっと世界が変わった。
「優里、おっはよー」
よく日に焼けた可愛らしいシマリスが、優里の腕に自分の腕をからませながら声をかけてきた。
「おはよう」
「今日は大丈夫だった?」
「それがさ……」
同じクラスの洋子には痴漢のことを話してある。皆似たような経験をしているだけに、「痴漢なんか死んでしまえ」と言い合っては怒りを発散していた。
電車の中での経緯を話すと、何故か爆笑された。
「ウケるー。にしても、そんな説教くさい奴いたんだ」
「そ。めっちゃ恥かかされたよ」
「ま、でも、もしそのオヤジが犯人なら、ちょっとは懲りたんじゃ――。あ、吉岡君、おっはよー」
洋子が、すぐ側を足早に抜かしていった男子に声をかけた。
「ああ、おはよう」
振り返った男子も挨拶をした。その顔は、ついさっき電車で間近に見た顔だった。
「うんああっー!」
優里が言葉にならない唸り声をあげたので、洋子はめんくらっていたが、吉岡と呼ばれた男子は、見覚えのある冷たい視線を優里に投げてよこした。
「君、やっぱりうちの生徒だったんだ。制服でそうかなって思ったけど。あんまりジロジロ見ると痴漢にされちゃうから、はっきり確認できなかったんだよね」
(んだとー!)
「ええ? マジで? 吉岡君だったんだ。あははは。ウケるー」
洋子が笑い転げている側で、吉岡は真面目なトーンで優里に苦言を呈した。
「しょっちゅう話題になっているだろ。冤罪の恐ろしさについてさ。容疑をかけられただけで会社員なら一巻の終わりなんだぜ。ちゃんと確かめてからじゃないと、他人の人生をぶち壊すことに――」
「どうやって確かめんのよ。ええ? あんたも側にいたんなら注意しなさいよ。バカッ! 最低!」
それ以来、彼とは口をきいていない。中学三年間、同じクラスになることはなかったが、学年が同じだったので、行事では一緒になることはあった。それでも優里はガン無視を貫いた。
洋子からは、「吉岡たすく」という名前と、彼が「まあまあのイケメン」で、「勉強はかなりできる」ということを聞かされていた。中学卒業後の進路は知らない。ただ――それだけだ。
記憶の封印を解かれて蘇った中一の吉岡と、今の吉岡とが二人がかりで、またしても優里を人前で辱めにかかっている――。
込み上げてくる怒りに、優里は気がつけば拳を握りしめていた。磨いたネイルが手のひらに突き刺さる。
「とりあえずほら。神楽坂駅まで行こうよ。ええと、あれ――? 大江戸線の方がよかった?」
優里が返事をしないで黙っていると、東西線の方でいいと勝手に解釈したようで、吉岡は平然と歩き出した。
振り返りもせずに歩いていく彼の背中に、優里は思いっきり飛び蹴りを喰らわしてやりたかったが、そんな身体能力があるはずもなく、駅までの十分間を黙ってついていくはめになった。