45 正子の矜持
堤はあることを思いつき沈黙を破った。
「立川。ガイシャの着衣に土や泥といった汚れは付着していなかったな?」
「はい。そのような報告はありません」
石田が、堤の言わんとしていることを先読みした。
「そうか。三千代は何で窓枠を拭いたんだろう。あの部屋に雑巾のようなものは無かった気がするが……。ただ、そういう視点ではちゃんと探していない――」
山田も気がついた。
「あっ! ということは、まだ部屋に残っている可能性が!」
「主任!」
石田が興奮気味に訴えた。
堤の中では、既に決まっていた。
「そうだな。行ってみるか。立川、連絡してくれ」
「はい」
「主任、俺も同行してもいいすか?」
山田が瞳をキラキラさせながら言った。
「いいだろう。立川、四人で行くと伝えろ」
「はい」
そんな四人にエールを送るように、天井の蛍光灯がチカチカと点滅した。
堤らは十四時半に高木邸を訪れた。正子も呼ぶため、この時間にしてほしいと一夫に言われたのだ。正子がいつも実家を訪問する時間なのだろう。
メインダイニングのソファーには、事件発生直後と同じように、一夫としずか、それに正子が座っていた。
堤と立川は、三人に対峙するように、彼らの向かいに立ったまま話をしていた。石田と山田は家に入るなり、三千代の部屋の捜索に向かわせた。
堤は、捜査本部の公式見解ではなく、一個人としての推察だと前置きをして、佐藤が侵入してから三千代が発見されるまでの経緯について、推論を発表した。
正子は、所々、「何ですって」とか、「まっ」とか言いながら堤を睨んでいたが、堤は無視して最後まで話した。
一夫は沈痛な面持ちで素直に問うた。
「犯人が逮捕された後の情報がなかったので、どうなったのかと心配していたんです。でも今のお話だと、三千代が亡くなるまでに相当動き回ったことになりますが、刺された状態でそんなことが本当に可能なのでしょうか」
「医師の見解によれば、可能性はある、としか言えないのです。そこが苦しいところで――」
しずかは相変わらず上の空といった感じで、心の動きが分からない。それに比べ正子は、誰の目にも激怒していることが明らかだった。
「三千代の失態と言いますか、何と言うか、その――。刺されたというのに、助けも呼ばずに私に対する嫌がらせをしたせいで亡くなったということでしょうか。そんな恥ずかしい話が世間に公表されるのですか?」
「いえ、まだそうと決まった訳ではありませんし、検察がどのように裁判をするのかまでは、我々には分かりかねますし――。正直、裁判に持ち込むまでの道筋が、まだ見えていないのです」
堤が正直に伝えたところ、一夫が驚いて、正子より先に発言した。
「どういうことですか? 犯人が逮捕されたというのに、裁判で有罪にできないということですか?」
堤たち四人だけでなく、警察組織全体に対するお馴染みの批判――「警察は何をやっているんだ!」――と、一夫は言っているのだ。
「誠に遺憾です。ただ、三千代さんが佐藤に刺されたというのも、佐藤の供述以外に証拠がないのです。もし裁判で佐藤がこの供述を翻すようなことがあれば――」
堤は、さすがにその後を続けることが出来なかった。
正子は憮然として黙りこくっている。
「もし、犯人が無実だと言えば、どうなるんです?」
一夫に詰め寄られ、堤は仕方なく重い口を開く。
「三千代さんの部屋に、窓から侵入した痕跡は発見されていません。密室状態で亡くなったという事実からは、その、普通に考えた場合――」
「まさか、犯人は証拠がないのをいいことに、自殺だと主張するのでしょうか?」
一夫も興奮していた。
「まだ捜査情報は公表しておりませんから、佐藤は、そういう可能性があることを知らないと思います。ただ――」
堤の煮え切らない態度を叱るように、正子が急に口を挟んだ。
「私がやりました」
その場にいた全員が呆気に取られて、ポカンと固まってしまった。
堤は想定外の事態に慌てた。そんな証言を取るために来た訳ではないのだ。
「あの、何を――」
正子は微塵も揺らがず言い放った。
「私が窓を閉めました。だって、あんな状態ですもの。外から丸見えの状態にはしておけませんでしょう。ああ、その前に汚れは拭き取りました。何度も申し上げましたが、この家は重要文化財ですのよ。汚れを放置するなど、断じて許されることではありません。ええと、それからナイフでしたわね。ナイフが刺さっていたら、抜いてあげようと思うのが心情というもの。それが自分でも不甲斐ないことに、なかなか抜けなくて。私、手が滑らないように、スカートの裾をこうして柄に巻き付けて引っ張ってみたんですの。でもやっぱり、怖くて震えていたんでしょうね。力が入らずナイフの柄を擦っただけで終わってしまいましたの」
正子の態度からは、まるで殺人事件の現場であろうと、汚れていたら拭き清めるのが当然だというルールでもあるかのようだ。
堤から聞いた話を拝借して、自分がやったと言っているのだ。