39 優里①
優里は昼前に会社のトイレで嘔吐してしまい、しばらくそこから出られなかった。
異変に気づいた先輩社員が心配して呼びかけてくれたのを機に個室から出たものの、気分は最悪で、とても仕事など出来そうになかった。
呼びかけてくれた社員は、姉御肌で面倒見のよいことで有名なカンガルー先輩だった。先輩は優里の姿を一眼見ただけで異変を察してくれた。
「大丈夫? 無理しちゃダメよ。あなた経理部の畑野さんでしょう。その様子じゃ、今日はもう帰った方がいいわ。その顔じゃあ――ううん、ちょっと。職場には戻らない方がいいかもね」
優里は、涙と鼻水でメイクがぐちゃぐちゃになっているのを感じた。メイクポーチを持っていないので応急措置もできない。
「ちょっと待ってて。荷物取ってきてあげるから。あと、もう早退した方がいいと思うけど、どうする? 帰るなら私から課長に伝えてあげるけど」
「すみません。お願いします。ちょっと無理そうなので」
「そうよね。OK。任せなさい!」
彼女からは、「そういうことってあるある」くらいの軽さを感じた。
優里が、彼氏からのお別れLINEにショックを受けて泣き崩れた――というような推理を働かせたのかもしれない。それはそれで優里には好都合だ。
先輩が戻ってくるまでの間に、数人の女子社員がトイレに入ってきたが、皆、一様に驚いて「大丈夫?」と声をかけてくれた。
「気分が悪くて」とだけ答えたが、変な噂が流れるかもしれない。だが今は、そんなことを考える気力もない。
「お待たせ!」
先輩が本当に優里のバッグを持ってきてくれた。
「私、萩原課長とは同期なんだ。体調不良でトイレで吐いたことにしたから、話、合わせといてね。机の上のものは、谷崎さんていう女子が片付けてくれたから心配しないで。今日は、このまま帰って大丈夫よ」
「本当にありがとうございます」
「いいって、いいって。女子は色々大変なんだから、助け合わないとね!」
(マジで助かった。ちゃんとお礼をしなきゃ。えっと、この人の名前なんだっけ?)
「エレベーターまで一緒についていってあげようか?」
優里がぼんやりした顔をしていたので心配をかけたようだ。
「あ、いえ。大丈夫だと思います。さっきよりはマシになりました」
「分かった。じゃあ、気をつけてね。昼休憩が始まる前に帰った方がいいよ。じゃあね」
「失礼します」
優里は軽く会釈をして、ハンカチで鼻を抑えながらエレベーターホールへ急いだ。
会社を出たものの、こんな時間に帰宅すると母親が心配するのは目に見えている。駅のトイレでメイクを直してから、そのまま丸の内線に乗った。
行き先を決めていなかったが、しばらくして新宿駅に着いたので、なんとなく降りた。
特に新宿が好きという訳でもなく、乗り換え駅でもないが、人混みに紛れたい気持ちが働いたのかもしれない。
優里は地下街を歩きながら、飲食店の前に行列ができていることに気がついた。スマホの画面には12:49と表示されている。
どこもだいたい一時半くらいまでがランチのピークなのだ。
お腹は空いていなかったが、座って落ち着きたい気がした。食後にまったりできそうなところを探して列に並んだ。
二十分くらい経って、優里はようやく席に案内された。
メニューを選んでいると、珍しく母親から電話がかかってきた。いつもはLINEなのに、どうして電話なのかと不安になった。
店内は、それぞれのテーブルから出てくる会話がいい感じに混ざり合い、ざわざわとした騒音に変わっていた。
優里は店外に出ることなく、テーブルに突っ伏すような姿勢で、口元を手で覆って電話に出た。
「もしもし、優里? 今話せる?」
母親の口調がピリピリしている。
「あ、今、ランチでカフェにいるところ。LINEじゃ駄目なの?」
「あのね、さっき刑事さんから電話があって、今夜うちに来るって言うの。あなたと話がしたいって。早めに帰って来られる?」
「え? どうして? 何の話?」
「それが分かんないの。とにかく話が聞きたいとしか言わないの。もう。犯人は逮捕されたって言っていたのに――」
「分かった。今日はそんなに忙しくないから、半日有給とって、三時か四時には帰るようにするから」
「本当? 会社は大丈夫なの?」
「うん、平気平気。じゃ、切るね」
隣のテーブルの中年サラリーマンが優里を睨んでいる。電話するなら外でしろと言いたいのだ。
優里は知らんぷりをして注文することにした。
(家に帰る前にこの顔をどうにかしないと。あとでホットマスクを買って温めるか……)