32 正子の愚痴
妹尾視点で話が続いています。
途中、二階では佐川視点となっています。
正子と佐川が廊下に出て階段を上がる足音を聞いてから、妹尾がしずかに問いただした。
「奥様は、何か思い当たることでもおありですか?」
「え? いいえ。別に」
しずかが驚いて一夫に助けを求めた。
「刑事さん。私たちは何も――」
一夫は従順に正子の主張を繰り返すつもりらしい。
「間違っていても構わないので、もしかしたら、と、思いついたことを教えていただけないですかね」
しずかは逡巡した結果、気になったことは伝えておこうと決めたようだ。すっと顔をあげて話し始めた。
「私の気のせいかもしれないんですけど。あの方――優里さんが、三千代さんの側でしゃがんでいたような……。本当に見間違いかもしれないんですけど。もし、しゃがんでいたとしても、一秒とか二秒とか、本当にそれくらいだったと思います。あら? って思ったらすぐに立ち上がったので……。まだ息があるか確かめようとされたのかもしれません。よく分からないですけど……」
「本当ですか?」
「いえ、だから、本当かと言われると、その――困ります。私もよく覚えていないんです」
しずかは庇っているような感じではない。本当に一瞬だけ目に入ったのだろう。となると、一瞬だけ目を盗んでしゃがみこんだ獣人は、いったい何をしていたのか。
妹尾はしつこく聞いてみるもんだと思いながら、畑野優里の事情聴取を頭の中の予定表に書き加えた。
三千代の部屋は床を清掃しただけで、特に手をつけてはいないらしい。現場写真で見た血溜まりもダイイングメッセージも消えていた。子機はテーブルの端に置かれている。
「綺麗に掃除されたんですね」
「まあ、それは、あなた、大急ぎで業者に来ていただきましたわよ。カーペットは捨ててしまおうかとも思いましたけど、汚れが落ちたので、ひとまずはそのままにしてあります」
「あの文字ですが――」
途端に正子が不愉快そうに眉を顰めた。
「まあ、あの子の書きそうなことですわ。いつも私のことを逆恨みしておりましたもの。私が良かれと思って世話を焼いても、その有り難みを理解しようとはしませんでした。あの子は小さいときから、他人に自分の落ち度を指摘されると、すぐに逆上しておりました。もう疳の強い子で……。両親も手を焼いておりました。還暦を過ぎると、ますます怒りっぽくなって。本当に始末に負えないったらなくて……。趣味といえば人形だけ。やけにお金を使っていたみたいですけれど。怪しい人に騙されているんじゃないかって、一夫も心配しておりましたのよ。相当な額を湯水のように使っていたみたいですからね。さすがにボケていた訳じゃないと思いますけど」
亡くなった妹のことを実姉がここまで言うとは、ガイシャも浮かばれないな、と佐川は三千代に同情した。
「三千代さんが還暦を過ぎても、お姉様から注意されることがあったんですか?」
「あなた、それはもう。急に人が変わることなんてないでしょう? あの子はこの家にずっと住んでいながら、この屋敷の価値を全然理解しておりませんでした。どうしてかしら? はあ。それにおかしな連中とも付き合いがあったようですし――」
自分でため息をついておきながら、それを燃料に正子は饒舌さを増した。
「この家の獣人が、こんな亡くなり方をするなんて。もう、ご先祖様に顔向けできませんわ。おまけにテレビでは、こちらが反撃できないのをいいことに、面白おかしく好き勝手を言っているでしょう。ひどい話だわ。ああ、そう言えば、あなた方、外のマスコミの皆さんに忘れずに、ちゃんと注意しておいてくださいな。もう、この年でこんな厄介ごとに巻き込まれるなんて。この家にこんな業があるはずないのに――。一夫の厄年も終わっていますからねえ。三千代はどこで足を踏み外したのかしら。私は、結婚してこの家を出てからも、何かにつけ兄弟の面倒をみてきたんですのよ。一夫はともかく、三千代は結局、縁に恵まれず独り者のままでしたからね。親身になって世話を焼いてくれる家族は、私と一夫しかいないっていうのに、あの子ったら――。私たちに何かあったら、あの子はどうするつもりだったのかしら」
「あ、あの――」
永遠に終わりそうにない正子の愚痴を、佐川はやっとのことで止めた。
「ちなみに、事件前日の話なんですが」
「え?」
まだ言い足りない正子は、急に話題を変えられて不機嫌さを隠そうともしない。
「四月十日の土曜日ですが、三千代さん宛に、午前中に電話がかかってきたはずなんです。三千代さんの様子が変だったとか、何か聞かれていないですか?」
「十日の午前中ですか? さあ、それは一夫たちに聞かないと分かりませんわ。私が到着したのは十三時くらいですから」
「え? 十日の土曜に、お姉様はこちらにいらしてたんですか? 週末はお見えにならないって仰っていましたけど」
「あら、あなた! そりゃあそうでしょう! 翌日は道長のお見合いですもの。一夫の長男ですからね。時期当主の嫁ともなれば、然るべき方でないと。釣書をみる限りでは、まあまあというところでしたし。道長は写真で選んだんじゃないかと心配になりましたのよ。それで前日から私たちで話し合いをしていたのです。お相手の方とお会いしないことには、話の進めようがないじゃありませんか。道長には、ちゃんと家に連れてくるよう、言い含めましたけどね」
「その、十日の日は、一夫さんご夫婦と息子の道長さん、そしてお姉様と三千代さんとで、翌日のお見合いについて、話をされていたのですね」
「道長はこの家には来ておりません。何か予定があるとかで。ですので、お相手を連れてくるようにと、一夫が道長に電話で伝えました。前日の話し合いは、大人四人で――と言っても、三千代からは真剣味が感じられませんでしたけど」
「そのことで三千代さんと言い争いとかされたのですか?」
正子は自分の人格を攻撃されたと思い激昂した。
「まっ! あなた、なんて事をおっしゃるの! 私は三千代の様子を申し上げただけで、諍いをしたなんて言っておりません! だいたい、三千代はこの家の行く末について、考えたこともないでしょうよ。私と一夫で精一杯ここまで繋いできたというのに。次の世代に引き継いで、その子たちが無事にやっていっている様子を確認するまでは、私は死んでも死にきれませんわ!」
正子は歌舞伎役者が大見得を切るように、勢いよく顔を振って佐川を睨んだ。
いったい何ミリあるのだろうと気になるほど、濃いアイラインで縁取られた正子の目を見てしまった佐川は、メドューサの眼力もこんな感じだったのかもしれないと硬直した。
(しまった。長くなると思ってズバッと聞いたのが間違いだった。単刀直入すぎた……)