17 接点
部屋のドアが開いたので、堤は部屋の観察をやめて素早く視線を移した。
「お待たせいたしました」
甲高い声とは裏腹に、ふくよかな体を引きずるように、今泉かなえが部屋に入ってきた。スパンコールのついた上着を着ている。
堤がまだ二十代の頃に流行っていた気がするが。彼女の中では今でも勝負服として愛用しているのかもしれない。
年寄りにとっては十年や二十年など、ついこの前くらいの感覚なのだろう。よほど来客が珍しいとみえる。
左手の薬指には大きな青い石の指輪をしている。立川のメモにあった指輪だろう。
「まさか本当にすぐお見えになるとは思いませんでしたわ」
去り際に社交辞令で、「いつでもいらして」などと立川に言ったのだろう。
「すみません、またお時間を取らせてしまって」
立川が謝ると、かなえは嬉しそうに破顔した。
「ふふふふ。いいのよ全然。お客様がいらっしゃると楽しくて、つい、はしゃいでしまいますの」
なんの言い訳なのか。
「すみません、早速なんですが――」
立川がいきなり本題に入ったのが気に入らなかったのか、かなえが遮った。
「あら、ごめんなさい。お茶がまだでしたわ。優子さん! ねえ、優子さん!」
「あ、いえ。どうかお構いなく」
「いらっしゃるって分かっていたのに本当に申し訳ないわ。優子さん!」
堤たちを出迎えてくれたお手伝いさん――優子が慌てて部屋に入ってきた。
「はい、奥様」
「まあ、あなた、お客様にお茶もお出ししないで何をしているの」
「すみません、すぐにお持ちしますので」
「ちゃんと伺った? 何になさる? 最近は皆さん、コーヒーがお好きなんでしょう? あなた、勝手にお紅茶をお出しする気だった? 私は午前中は緑茶をいただくことにしておりますの」
雇用主という立場にしては、優子へのあたりが少し強過ぎやしないだろうか。
「あ、あの、では、我々もお茶をいただけますか」
堤の意見が聞きたい訳ではなかったらしい。
「あなたは何になさる? 昨日は確か――」
「あ、ミルクティーをいただきました」
「そうそう! お代わりなさったのよね! 優子さん、茶葉を覚えている? お客様が気に入ってくださった――」
「ああ、あの! 私は紅茶には詳しくないので、その、お任せします」
「あら、そう? じゃ、優子さん、急いでね」
「はい、すぐにご用意いたします」
急いで部屋を出ようとする優子に、
「あ、それと。お菓子も何か添えてちょうだいね」
「はい、奥様」
やれやれ。ネクタイを緩めたい気分だ。
「あの子ねえ。もうちょっと気が利くと思ったのに。いちいち指示を出さないとダメなのよ。でも最近は人手不足みたいでね。昔は、『万事心得ています』という使用人が、どこの家にもいたんですけどね」
七十二歳なら戦後生まれのはずだが、いつの時代の話をしているのだろう。
堤はこのままかなえのペースで進められてはかなわないと、佐藤洋太の写真をテーブルに置いた。
「この男のこと、ご存じじゃありませんか?」
さすがにかなえも黙って写真を見た。
「名前は佐藤洋太。サークルでご一緒だった島田明子さんの兄です」
かなえは能面のように表情を失った。
「ご存じですか?」
堤が繰り返す。
「ええ、まあ。明子さんにも困ったものですわね」
立川が横で、「ビンゴ!」と、心の内で叫んだのが聞こえた気がした。
「この男とお会いしたことがあるんですか?」
「あまり思い出したくないのですけれど」
「ご不快な思いをさせてしまって申し訳ありません。ですが、殺人事件の捜査ですので――」
「もちろん協力いたします。当然のことですからね。この男――え? まさか、三千代さんを殺した犯人って、この、この――」
どっしりと構えていたかなえも、殺人犯という言葉の衝撃には負けるのか。
「いえ、まだそうと決まった訳ではありません。あらゆる可能性を考慮に入れて捜査をしておりますので。犯人なのか、そうでないのか、それをはっきりさせたいのです」
「ま、まあ。そうですか」
「それで、最初にこの男とお会いしたのはいつですか?」
立川は一言も漏らさずメモする気で、顔をあげようともしない。相手を観察しないでどうする。
「確か、一月の中旬くらいだったと思いますけど。明子さんから電話がありました。昨年色々あってサークルをお辞めになったのに。何の用かと思えば、三千代さんに取り次いでほしいと言われましてね」
「ご自身で直接連絡しないで?」
「そうなんです。まあ、連絡を取りづらいのも分かりますけどね。結構な迷惑をかけていたって聞いておりましたから。そのときは、ご自身の件も含めて、お兄様がお会いしたがっているということでした。私はてっきり、お兄様が明子さんの件を償われるのかと思ったんですの。それが、あなた――」
私の言いたいことはお分かりでしょう? と、堤が素直に頷くのを期待して、かなえが彼に視線を投げかけた。
堤が仕方なく意味のない相槌を打つと、トントントンとノックする音が聞こえた。
「失礼いたします」
優子が大きなトレイを抱えて入ってきた。
「まあ、やっときたわ。お待たせしすぎよ。いやあね」
「申し訳ありません」
優子は脊髄反射で反応しているのかもしれない。「はい、奥様」「申し訳ありません」のどちらかが、脳が指示を出す前に口を突いて出るのだ。
優子はかなえと堤に緑茶を、立川にミルクティーを出した。そして飲み物の左側に二センチほどの羊羹の皿を添えた。
それを見たかなえがため息をついた。
「あなた、何なのこれは。若い方に羊羹なんて。あなたのセンスだとミルクティーに合うお菓子がこれなのかしら。参っちゃうわ、もう。昨日エシレバターを使っているフィナンシェを買ってきたところじゃない。どうしてそれをお出ししないの?」
「申し訳ありません。三つ残っていたんですけど、今日お出しすると、明日奥様が召し上がる分が――」
「ま、なんて貧乏ったらしいことを! 私に恥をかかせる気?」
かなえはパンパンに膨らんだ顔に埋もれている小さな目を一層細めて、優子を睨みつけた。
「奥様。私のせいで、明日の奥様のおやつがなくなってしまったら申し訳ないです。私は甘党なんで、和洋、どっちのスイーツも大好きなんです」
立川がかわい子ぶって一生懸命取りなしている。さては、昨日もそんな調子で懐に潜り込んだんだな。
「あら、そう? もう優子さん、お客様にこんなに気を遣わせて。それじゃあ、せっかくのお申し出だし、羊羹をいただくとしましょう」
「本当に申し訳ありませんでした」
「いいから、もうあなたは下がりなさい」