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家を出ると、やはり老婆は敵と対峙しているように男の方を睨みながら「で、あんたは泊まるのかい」と先ほどと同じ質問を繰り返した。家の中を案内されたことで、すっかり男が心変わりしてしまうのを期待しているふうに取れかねない態度だった。
「ええ、そうですね」男は力なく笑いかけながら上空を見やった。淡い橙色の光線を八方に溶かした太陽が、ちょうど遠くの山の先のほうに隠れかけていた。それによって、山頂付近に生え揃ういくつかの針葉樹が枝と枝の間を後光のように照らし出されて、赫々と燃え立っていた。時間がもうないのだ、と男は感じた。
「ここにさせてもらいます」
そして男にとって時間云々より重大なことだが、疲労があまりにも甚だしく体にのしかかっていたのである。時間がないのだ、と遠くを見てまで理屈をつけたのは、結局この体力的な理由を隠蔽するためでしかなかった。
「ふん、そうかい。あんたも物好きだね。それとも、もうここしか選択肢がないかね」
老婆はまた目を細めて、下唇を突き出して鼻の下を巻き込むようにし、「何しろここは安いからね、安さだけが取り柄さ」と付け加えた。どうもこの老婆は、相手より自分が優位だと感じ、しかもそれが特に自虐的な理由であった場合に、冗談交じりにこのような誇らしげな表情をするらしかった。それはいかにもこんな田舎くさい所にいる、ひねた人間そのものであった。
…ウゥゥ、ヴォウ!
そこへ、たまりかねたような鳴き声が後方から聞こえた。振り返ると、道を隔てた向かいの家の傍に、小さな手製の檻が作られてあって、その中にいる犬が前足をこちらに差し出すように伸ばして低く構えていた。男が反応を示さずにいると、それは身を起こして再び鳴いた。そして、未だ方角の定まらない方位磁針のようにじたばたともどかしげに体を二周回して、はめ込まれた鉄棒に足を置いて立ち上がった。
「し!し!うるさい子だね、黙るんだよ!」
老婆はそう叱咤した。しかし男が衝撃を受けたのは、それが殊の外優しげな、甘えたような声でなされたということだ。もちろん犬はそんな言葉などお構いなしに、檻に手をかけたまま舌を出して息を吐き、またバタバタと体を一回転させた。
男はそれまで硬直していたのだが、その余分な回転にむしろ救われたように、犬から目を戻して「それでは、工事が始まる5月14日からここに来させて貰います。それで今、携帯番号はお教えした方がよろしいでしょうか」と老婆に言った。
すると老婆はそれを鼻で笑って、右手を振り、「連絡なんかするもんかね。どうせこっちじゃ何一つ、食べ物一つだって用意してあげはしないんだ。もしその5月14日、あんたが別のマシな宿を見つけて、ここにとうとう来なかったとしても構わないね。私の生活はそれで何ら変わりはしないんだから」と返し、また思い出したように「…ただ、ただ、住むからには家賃滞納はしなさんな。絶対にしないことだよ」と念を押した。
男は曖昧に微笑してうなずきながら、「わかりました。それではまた二週間後に」と言い残して立ち去った。刹那に、犬が一段と低い、野太い声で威嚇したので、またしても老婆は「こら、何回言ったらわかる!静かにせい!」と猫なで声で叱った。
その声を背中に聞きつつ、男はとぼとぼと来た道を帰って行った。山から吹き下ろされてきた冷ややかな風が顔や腕を洗った。彼はその寒気にくしゃみをしかけて、口をいがめた。けれど結局くしゃみは出なかった。それは出なくて、代りに急に泣きたいような気に襲われた。
なぜだろう?あまりに社交辞令としての笑顔を絶やさずにいたので、その反動だろうか。実際、男の頬の上側の筋肉は凝り固まってジンジンと痛んでいた。男は恐る恐るそこに指先を持っていって揉みしだいてやったほどである。それでも、無論泣きたい理由はそれだけでなく、他にもあったのだ。
また、チラリと後ろを見る。老婆は未だ路上にいた。両膝を曲げ、向かいの家の犬へ何ごとか話しかけて、あまっさえ親しげに腕をわずかに差し出していた。当の犬の様子はよく見えなかったが、鉄棒と鉄棒の間から若干はみ出るように飛び出した薄っぺらい布切れと、小屋の屋根を成す質の悪いプラスチック製の板の積み重ねたものが、みすぼらしく存在しているのははっきりと分かった。
…今、あいつは俺に向かって吠えついたな。
男は苦々しい顔で歩き続けた。
…だからこそ、あの婆さんは内心、犬を褒めているのではないか?
頭の中に鉛が溜まったような気怠さで、今にも倒れそうだった。彼は全く一人ぼっちなのだ。街で感じたのと同じように、いやそれにも増して、この地も、深く男を敵視し、除け者にしていた。動物という、人よりも純真であるはずの存在も、はっきりと男へ牙を向けていた。しかもそれをまた人間が歓迎し、増幅していた。そういう構図であったのだ。それが意図的に行われたのでなくとも、すなわち、あの老婆がたまたま犬好きであったに過ぎなかったとしても、男にとって間違いなくその構図は実在していた。
道の脇の地の露出した部分に雑草たちが栄えていた。それを見て、男は迷わずそれを踏みつけた。爪先で捻るように擦り付けて、二度三度と足裏を叩きつけた。しかも雑草は千切れなかった。そうしている分だけ痛むのは男だけであった。奥歯を噛み込んで、男は何度も雑草を踏みつけた。風景全体から、また小さなこの植物から、どんどん自らが敵として隔たっていくのが感じられた。無我夢中で男を砂を蹴り上げ、とうとう葉をグシャグシャにしてしまうと、悔いるような長いため息をついてまた歩き出した。
バス停に戻ってよくよく時刻表を覗くと、十分と経たぬうちに次のバスがやってくることが知れたので安堵した。運行便の本数は思った以上に多かったのである。非常に新しい表が用いられているところを見るに、ダム工事の件で増便してくれたものと見える。
男はベンチも何もない、ただ看板が立っているだけのバス停の地面にへたり込み、ぼんやりとした。
そしてふとポケットの中から宣伝ビラを取り出した。それはもはやシワだらけになっていて、手でしっかり伸ばさなければチリ紙にしか見えなかった。いや、どれほど伸ばしたとしても、既にこれは無価値な紙屑でしかないのだが。
男はその印刷の粗雑な様を見ながら、どうもこれは居酒屋の店主が受け取った後、またコピーして作ったものらしいと考えた。元はさらに綺麗なカラー印刷であったことは疑いない。そうでなければ写真など使うはずはないのだ。それを、わざわざ店主はこの紙の存在を知らない人に有益な情報を提供するために、モノクロでプリントアウトし直して、また赤ペンで印をつけていたのだ。そう考えると情報は既に知ってしまったものにとってはただのゴミでしかないが、それを知る前なら極めて高い価値を占めているということになる。それは一般論とも合致している。情報化社会と呼ばれるほど、現代は情報に富み、それを重視するのだが、その理由はこれだ。
また情報のみならず、その情報の指し示す実質である「物」に対して価値を見出したいなら、速さが肝要になる。その物と紐づけられた情報をいかに他者より早く見つけるかで、価値は途方もなく変化するからだ。例えばこのビラにしてみても、もし男が配布されだした直後に受け取っていたなら、今頃プレハブ小屋の中であぐらをかいていたことだろう。早ければ、ただ早ければ、このビラだって優良で貴重な情報であり続けられたのだ。
…これは、単に情報の扱いばかりを伝えているのではない。それだけでなく、この変わりやすい認識というものが、一介の物体をその内奥からどれほど変革させてしまうかということを、教えているのだった。男は身震いした。そしてそれを照れ隠しするかのように深呼吸して、体を膨らませた。そしてその時にバスは坂をゆっくり向こうから降りてきた。今度こそ乗客は自分一人であろうと男は推定した。
電車の中で、どう過ごせばよいものかもはや分からない。
だんだん暗くなる外界に対して車内の電灯はさらに白々と、力強く輝いていくようだった。電車の中に吊り下げられたポスターを見て、そこに映り込む映画俳優のやや整い過ぎた顔を見て、目を閉じる。
そのうち、心の内から突然、この電気を消してくれ、という言葉が浮かび出た。男自身、そんな事を思うとは予期していなかったことであり、不意を突かれた形であったのに、それからも言葉は勝手につながっていった。
早くこの電気を消してしまうんだ!みんなみんな消してしまうのだ!どうしてここだけが明るいと言うのだ、外はあんなに闇めいていくというのに。和合しろ!天行に合わせるんだ!人工の光で自然の闇を被るなどと下手な考えを起こすのはよせ。なぜ溶け込まない?なぜ諦めないんだ。消せ、消すのだ!
けれども、電車は依然明かりを外へこぼれるほどいっぱいに保って走り続けたし、男は疲弊しきった顔何一つ変える事はなかった。自分の心の叫びについて、さして深い考察を与えようとすら思えなかったのである。
それから各駅に停車することに、ヒゲを豊富に蓄えた男や、珍奇なほどに太った少年などが乗り込んできたが、男はもうそれらにかまっている余裕はなかった。目をどれほどつぶっても眠ることすらできず、苦痛の時間はとどまることを知らなかった。
自宅の前にやっとのことで(男からすれば本当にやっとのことで)たどり着く。男は手をあげたり下げたりしてどのように行きたくを知らせが良いのか考えると試みにドアを引いてみたが、もちろん鍵がかかっていた。ロックだってしている事だろう。娘の防犯意識は一人前にしっかりしている。不審な人物がやってくることを常に本気で想定しているのではないだろうが、そういう人物が「万が一」きたとしても対処できるような習慣をつけているのだ。それを今回だけ怠るということはあり得なかった。むしろ通常のように遂行することによって、働きに出る男へ安心感を与えることができるはずであった。
ところが今回はその目論見通りにはいかなかった。男は唇を噛むと、何度か首を振った。下らない、結果の見え透いた賭け事をやって、彼はしっかりと負けたのだ。閉め出されているからと言って、疎外されているのと同義ではないものを。
男の精神は不安定であった。生活において、何らかの著しい変化が加えられた時には、しばしばひどい疲れを伴い、それは脆弱な精神に直結するものだ。
観念して、男はチャイムを鳴らした。するとすぐにバタバタと足音が鳴った。男はうつむいていた顔をすぐにあげればならなかった。
想定していたよりもよほど早く娘は鍵を開けて「お帰りなさい、父さん」と言い、服へすがるように抱きついた。男はやっとのことで娘の髪を手櫛で梳いた。
娘は上目遣いに男の方を見ると一瞬驚いたように目を開いて「疲れたでしょう、父さん、大丈夫?」と言った。男はしまったと思いながら力を振り絞って微笑みを浮かべ、「ああ、大丈夫だよ、なんとかね」と答えた。
「お父さん、お昼ご飯はちゃんと食べたんでしょうね」
「え、あぁ」男は昼間に駅で待ち時間に食べた五つのパンのことを考えた。
「まぁ、食べたさ」
これは嘘ではなかった。誇張気味ではあったかもしれないが、断じて嘘ではなかった。
それを聞くと、娘は「信じるよ」と全くもって懐疑的な口調で言い、
「晩御飯はまだでしょう?今から作るから」と続けたが、男はそれを止めた。
「すまないけど、ちょっと寝させてくれないかな?なんて言うんだろ、やっぱりどうも体に来てて…」
すると娘は「ごめん、そうだよね。じゃあ作り置きしておくからレンジでチンするようにしてよ。それで良い?」と言った。
「あぁ、ありがとう…」
「起きたらチンして食べてね。必ずチンするんだよ?」
それを聞くと、男の眉がぴくりと動いた。それは、娘の重要事項の強調の仕方が、偶然あの老婆のそれと重なってしまったことに起因するものかもしれない。つまり、娘が敵であると、あり得ない図式を一瞬でも想定した、自分に対する怒りである。先ほど娘がドアに駆け寄ってきた時、あまりの速さに驚いた、老婆と重なり得ないその親近感を、もう忘れてしまったのか。
しかし悲劇的なことには、男はこれを「もしかすると、自分は今娘のことを鬱陶しがったのではないか?」と捉えた。彼には既に一歩進んだ思考をする能力が損なわれてしまっていたのだ。それとも、この男の考えこそが真実だったろうか?私の考え方があまりにも楽観的過ぎるだけか?それは分からない。とまれ、彼は恐怖した。どれほど疲れているからと言って、娘を拒絶しようとした自分の態度に、底のないくらいの恐怖を感じたのである。それはつまり、娘を疎外するということは、今度は本当の意味において、彼女さえをも敵に回すことであるから!
男はドアを開けると一旦振り返って、呆然と娘の方を見た。娘は口を一文字に結んで緊迫した顔でこちらを見つめていた。男はそれを何も言わずに数秒間見下ろしていた。だがそこで突如「そんなに俺が大事かい?」というつぶやきが口をついて溢れた。娘は甚だうろたえたらしかった。男自身も動揺した。
「いや、これはその…」
彼はすぐに言い訳しようとした。が、それよりも娘の返事の方が早かった。
彼女は「大事じゃないわけ、ないじゃない」と声を震わせて言ったのだ。
「…大事じゃないわけ、ないでしょう?」
娘の目が一時にうるみ始めたのが分かった。男はどうにかしようと必死に考えを巡らししたが、実際のところは体は何一つ動いてくれず、冷酷に娘を見下ろし続けているに過ぎなかった。
「父さんは自分のことをどう思ってるの?大事じゃない、って?…父さんは、父さんは、私が父さんのことどう思っているか知っているの?知らないの?」
固くこぶしを握りしめて、娘は肩を震わせ泣いていた。思わず男は被さるように娘を抱き込んだ。娘の体の小刻みな震えが胸の中で感じられた。しばらくして、彼女は熱い息を吹きかけながら耳元で「父さんは、私のこと大事じゃないの?」と囁くように問い掛けた。
「大事に決まってるじゃないか」
「じゃあ、なんで私が父さんのことを大事に思ってないって、考えられるの?私の思いが、父さんの思いより、軽いなんてあり得ると思うの?」
男も喉が詰まった。
違うんだ、さっきのはまるきり違う、意志とは関係ないデタラメだ!間違ったんだ!
そう言いたかったが、口は緩慢にも動いてくれなかった。しまいには男も娘にしがみついて泣いていた。ほとんど涙を絞り出すようにして、悲しさと恐ろしさとに泣いていたのである。
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0:00はギリギリアウトだなぁ。惜しいことだ。文も急いでいるし。