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しぶき  作者: 師走
8/12

8

ほとんど時刻表通りにやってきたバスに乗って、今度はやや前のめりにゆったりと進んだ。集落と言いうのはダムからさほど遠くない場所に存在していた。細やかな変化に富んでいながら、むしろ何一つ変わるところのないように思える森の風景が途切れ、はや家々が見えてきた。その感興とぴったり合わさるようなタイミングでアナウンスが告げられる。男の顔には疲労の影と未だ弛まぬ緊張とが同居している。陽は西へ西へと慌ただしく動く。


バスから降りると男はあたりを見回し、「ほう、なるほどこれは盆地だ」と思った。実にそこは定型通りの盆地だった。四方八方をとんがった山に囲まれて、その集落だけが深鉢の底のような格好で存在していた。古めかしい格好の家々が箱詰めされたように所狭しと並べられているのである。ここしかない、ここしか住めないんだと言わんばかりだった。そしてなぜだかそれらの建物のスタイルは多くの家でほとんど一致していた。黄ばんだ土壁が家を守っていて、荒削りされた木製の柱が立ち、小さな窓が通路側に一つきりついている。小さな差はあれど、全て同じ設計士が情けに駆られて無償で作ってやったのではないかと疑われるほどそれらはよく似ていた。屋根の形だとか煙突のつき方だとかいった形状にしても非常に近しいものがあった。屋根はまた、トタンで作ることに概ね決まっているらしく、そうでない屋根の家は異様に目立つほどだった。その光景は「軍隊服に規定があるように、家にもルールが通っているのだ」と男に教えた。全くの話が、ここの集落に貫徹した堅固な糸筋は、ひと目見ただけで誰にでもそれへ気づかせ、また心を打つのである。


しかも家と家の距離は非常に密着していた。完全にくっついてはいないにせよ、50センチもは開いていなかった。もしあそこに向かい合った窓がついていたなら、その気になればいつでも窓から窓へ足を入れて家を行き来できそうだった。たったそれだけのために、同じ高さ、同じ位置に、外も眺められない窓を作る?それは滑稽なようだったが、この集落の人々ならやりかねないという気がした。


これは火災にまつわる何らかの法律に引っかかるんじゃないだろうか、と考えつつ物珍しげに男は細い道を歩いた。ヒビだらけで、所々抉れた路面は、年数の暴力で傷付いただけではなく、そもそも作り方が粗暴だったのではないかと思われた。道の脇には黒いコンクリートの切れ端が盛り上がって小さく波打っている。人家から車が出入りする時は乗り上がったり下りたりで大変だろう。


いくらか畑が見えたけれど、そこに人の姿はなく、青々としたケールが深緑色の葉を結んでいた。そのすぐ向こうには商店らしき建物があったが、三列ほど並んだ白い棚にはものがからきし置かれておらず、辛うじてキッチンや風呂用の洗剤が二つ、それから安物のワインがいくつか並べられていた。店はまだやっているのかどうか、少なくとも売れる期待はしていないと見える。この店はトタン屋根の劣化が顕著で、既にメッキがかなり剥がれていて厚みのある鉄サビが生えていて、侵食によってじわじわ欠けてきていた。


…そう、ここらには生気が全く欠けていたのだ。周囲をぐるりと取り巻いた山々によって外界とはほとんど切り離されて、陰鬱な、淀んだ空気が流れていた。ただし、この空気はまた極めて神聖なものとも言えた。つまり、外を断ち、内を守り、その場限りの統一をするということは、一個独特の結界を作り上げることに他ならないからだ。彼らの日常は、外の人々の日常と交わることなく、従って聖の領域を頑なに保っているとも考えられるのである。けれども、神聖さと純粋な陰鬱とがぴたりと重なってしまえるのだとすれば、悪魔なんぞの出番はどこへ求めれば良いものだろう。


あともう一つ、男を驚かせたものがある。それは電信柱が木製であったことだった。根元が剥落して若干細くなった木の柱に、電線が細々と渡され、道の向こうから向こうへと繋がっていた。その行方を目で追いつつ、男はこう考えた。どうしてこんな酷い、今にもバラバラと崩れそうな柱が集落全体のライフラインを支えているのだろう。これでも一向、不満を唱える人は出てこないのか。より良い生活を配給するべき役人たちはこの修繕を検討しないでいられるのか。それとも、ここはもはや、見捨てられた地なのだろうか。山を降りるか、死ぬかして、一人、一人と人が減り、ついには無人になり、廃れ果てることが宿命なのか。だからこんなに頓着せずにいられるのか。ああ、もしそうなら、住人はどれくらい安楽にいられることだろう。終わりが見えているということは!


尚も歩くと、桜の木が並んで植えられている区画へたどり着いた。どれも背が低い老木であった。どの幹には平らな薄緑の苔がびっしりこびりついていたが、皮がいくらか剥がれて中身が露出した箇所には、遠慮して何も生えていなかった。その大きな楕円の傷口はすっかり黒ずんで、もはや痛々しさもなくなっている。それらはいかにも疲れた風に、先端が赤茶色に枯れた葉を茂らせていた。彼らはこの上なぜ、葉をつけるのだろう。生き延びたいのか、それとも枝がある限り、自分の意志とは関わりなく生命をつなぐ機能がどうしても働いてしまうのか、または何も考えていないのか。


これらの選択肢を検討して、男はすぐに「何も考えていないに違いない」と結論した。木はものを考えないでいられるから、人よりもずっと長生きできるものなのだ。考えないでいること、これは全く長寿の秘訣だった。これほどくたびれていても、そのことを憂いて諦めてしまうでもなしに、光合成をひたすら続けるのだから。


桜の木の反対側には小さな石垣をくっつけた民家があり、その庭には二台の車が並んでいた。一台はグレーのスズキの車で、まだ使用されている美しさが残されていたが、その隣のミニバンは中に薪が目一杯注ぎ込まれて物置となっていた。フロントガラスのすぐ横に穴が開いている。タイヤの空気はすっかり抜けて、右膝をつくように車体が傾いている。目玉のように見えるライトが虚しく視線を彷徨わせているのが悲しい。しかもこの薪は何の用途に使うのか知らないけれど、きっと冬場に必要になってくるもので、その冬というやつはこれからまだ随分先にやってくるのだから、だからミニバンはその間中ずっと湿気た古木を抱え続けなくてはならないのだ。


男はこれらを見て、たちまち住人たちの貧相な暮らしぶりを想像することができたが、外に出ている住人と一人も出会わないのを不気味に思った。そしてその時、彼の父が大昔言った言葉を思い出した。

「こういう田舎の町っていうのはな。誰もいないように見えるだろう?ところが、そうじゃないんだ。彼らは家の中からこっそりこちらを伺っているのさ。ほら、例えばあそこの窓の内側からとかね。俺たちには見えないところで、ずっと監視しているのさ。そして次の日には、もうそこら中で『昨日怪しい車が通った』という話がされている。田舎というのはそういう場所なんだ」


してみると、今ここでも、誰もいないように見えて、男の来訪はみんなが気づいていることになる。街の人たちは非常に目ざとく、外部からの珍奇な侵入者を察し、こっそりと意識する。その侵入者が気がつかないうちに情報は共有され、実に細部まで明らかにされるのだ。こういうわけだから、人は隠し事をできない。それは自分が気がつかないうちに周囲全体に気づかれ、噂され、理解されるからだ。水辺に広がる波紋のように、静かに、恐ろしいスピードでそれは拡散する。


さて、男はとうとう『宿』と書かれた家を発見した。その字はいかにも新しいペンキで、稚拙に書かれている。といっても、それを記した板張りは非常に古そうである。年季の入った板の表面に、いやにこせこせした新参者の字が貼り付いている。男はいくらか呆然とその前に立って、頭上のその看板を眺めていた。その板の右側にはなぜだか漁をするために使われるような赤い網が、壁に打ち込まれた釘に絡めるように吊られている。


そしてここの家もまた無傷ではいられないようで、土壁が剥がれていた。その剥がれた壁の内側からいくつもの正方形を作るように区切られた木枠が露出している。男はコンコンと扉をノックした。チャイムを探しても見当たらなかったのだ。大方予想できたことだが、しばらく経ってみても返答はなかった。男は再びノックしようと拳を顔の前あたりまで持ってきて、そこでさして深みのない、ありふれた考え事をした。つまり、一応待ってみたのだ。突拍子もないタイミングで返事をされるかもしれないから。彼はそのまましばらくじっと止まっていたが、最後にはやはりノックした。先ほどより大きな音で、丁寧にである。


すると中からガサゴソッと音がした。出てくる、そう確信して待っていたが、それでも長い間次の反応は訪れなくなった。音は途絶えてしまったのだ。男は困って、乱暴な『宿』という字を眺めやったり、後方に体を逸らせたり小さく頭を掻いたりした。するとやっとのことで廊下をすり足気味に歩く音が聞こえ、呻くような声が小さく聞こえるや、戸が開いて腰曲がりの、非常に背の低い老婆が出てきた。


老婆はまるで男の顔に何かついているみたいにじろりと睨めつけながら、「なんだい」と問うた。男は背筋を伸ばし、右手の人差し指を立てて朗らかな口調で

「こんにちは。ここで宿をやっていると知りましたので、泊まりたいと思いお伺いしました」

と話しかけた。


老婆は鼻をすすった。よく見ると、鼻の下から上唇にかけての皺だらけの窪みに、透明の鼻水がしっとりと伝っていた。


「ああ、宿ね。…うん、やってるよ」

老婆はぶっきらぼうな口調で肯定すると、目線を一瞬下へ落とし、すぐにまた男の方を睨みつけて「で、あんたは泊まるのか」と聞いた。


「はい、ええと、あの、まず宿泊の値段というのはいくらぐらいなんでしょうか」

「月370ドル」


そう言って老婆は目を細めた。口の端もやや上がったように見えた。


「安かろう」

「えっ、370ドルですか。それは安いと思います、ありがたいです」

男も身を乗り出すようにしてうなずいた。しかし老婆はすぐにその笑顔を引っ込めて

「つまり、その程度の金で居させてもらえるくらい、何もないオンボロ宿だってことだよ」

と付け加えた。


「あの、それでは部屋を見せてもらっても…」

おずおずと男は聞いた。すると老婆はチョッと舌打ちして、

「いいよ、こっちへ入んな」と家の中へ連れて行った。


中へ入った途端、埃っぽい臭いがして男は顔をしかめた。歩くと板が今にも抜け落ちそうな音を立てる。奇妙なことに、先導している老婆の一歩一歩には、床はそれほど悲鳴を上げないようだった。


玄関から少し入ったところに小さな一人掛けのソファが置いてある。老婆はそれに一瞬手を触れて横を通り抜けた。男もそれに倣ってポンとそこへ手を置き、またその掌を密かに匂った。加齢臭のような、酸いた臭いがしたが、思うほど不潔な感じはしなかった。


老婆は腰の後ろに手を組んで歩いている。何も語らず、家の奥を目指しているようだった。男はぐるぐる家を見回して、窓からねっとりと斜光が入ってきているのを認めた。光の柱は拡がりながらまっすぐガラス窓を突き抜け、木板にぶち当たっていた。そして、その柱の中を、キラキラした埃がいっぱいに浮遊し、移動している。それはこの部屋の汚らしさを証明するだけのものでしかないのだが、とてつもなく荘厳な景色にも見えた。


「ここがトイレだよ」

老婆はちらっとあごしゃくって横についていたドアを示した。それでも全く足は止めなかったので、男も頷きながらそこを通り過ぎた。そして突き当たりに、こじんまりしたキッチンがあった。その手前には食卓と椅子が配置されている。食卓にはバラ模様の入ったシーツが敷かれ、何も挿されていない花瓶が中央に陣取っていた。その隣に、アンテナの立てられたラジオが置かれてあって、今もボソボソニュースを流している。


「ここが一階!」

まるで何かを決意したという力強さで老婆は言い、男の方を向いた。

「…あんたは二階で暮らすんだよ。一階は大概あたしの部屋だからね」


「わかりました」

男は萎縮して答えた。先ほどからいやな空気を吸わないよう、なるべく息をすまいと無駄な努力をしていたために、声はさらに小さくなった。


「二階は見てもなんにもないよ。なんにもない!あんたはそこで暮らすんだ」

忌々しげに、また老婆は鼻を拭った。

そしてギラリとした眼で男を睨んで、「一日でも家賃を滞納したら、すぐに出て行ってもらうからね。こっちだっていっぱいいっぱいなんだ」と吐き捨てるように言った。




ーーー

4325字。どないしょう。明日700字追加する。

ー追加した。

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