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しぶき  作者: 師走
7/12

7

先ほどからバスはいくつかの丘を上下して、山の外周に沿った曲がりの多い道を突き進んでいた。かと思えば、今は急勾配の傾斜を尻下がりの格好で必死に登っている。乗客は男のほかには一人しかおらず、その相手というのは、盗み見たところでは小皺の多い顔をした年配者であって、工事従事者であるのか山村の住民であるのか判断しかねた。


背中はシートに押しつけられて釘付けにされている。電車の停車時に感じた圧迫感の比ではない。けれども乗客が何らそれに感情を表さない点では共通している。首を起こすのも億劫であるから、そばの冷たい手すりを掴んで、運転席のフロントガラスの向こうを眺める。細かく震えながら車体は前進しているのだが、車内から見ると例によって道路が自らバスの下を動いているふうに見える。巻尺を引いているかのように路面はいつまでも単調に延びていく。狭い道の左には切り立った谷間が見え、それがガードレールを心もとないものにしている。


バス停に到着した時から既に家々は寂れ、まばらになっていたのだが、山内に突入するとさらに人気は絶えた。時折こちらに手を伸ばすように木がせり出していて、木漏れ日が不規則な動きで窓ガラスを訪れる。チラチラと光る木の葉を見上げていると、自分がこれから死にゆく末期患者であるような気分になった。


病人。肺にまで圧力をかけられ、意識して呼吸を繰り返しながら顔を横向けている男は、そう言われれば確かに病人であった。薄い期待と焦燥と、不透明の恐怖が彼の全身を覆っている。枝の間から小鳥が飛び出してきても、男の表情は一向に感興を帯びない。左手の中指が膝の上をこつこつと叩いている他は、動きもない。


そこへぽつんと、真新しい屋根の尖った木造建築が現れた。右手の山肌がそこだけ削り取られて不自然に凹んでいる。小さな庭には人工芝が一面敷かれて、わずかな隙間に色の薄いバラやガーベラなどのフラワーガーデンが造られている。青天井の車庫には黒いクラウンがこちらに顔を向けており、トレードマークの王冠模様を輝かせていた。道路際には申し訳程度の小さな柵が立ち並ぶ。その柵の入り口には犬の飾りが提げてある。黄土色の体と、こげ茶の耳を持って、ちんちんの格好をした犬の腹には「フレドリック」と筆記体で記されている。


うら若く、そして多分に物好きな男女が子供を連れて引っ越してきたのだと勝手に男は予想した。そしてそれはあながち間違いでもなさそうだった。建物の玄関の脇には小さい子用の補助輪付き自転車が置かれてあったのである。


こんな人里離れた場所を、どうして住人は選んだのだろうか。都会での生活に嫌気がさしたのだろうか。劣悪さを増す治安や、騒音や、ややこしい人間関係などの忌々しさから離れて、自然の中に身を置こうとしたのか。しかしこれはどうも陳腐な推察である。あまりにありふれていて、偏見に等しい。本当は何でもないことかもしれない。土地を安く手に入れるためだとか、そういった類の、実利的な理由かもしれない。真相は庭を一瞥しただけの人間が知り得ることではない。けれども、前述のような偏見が生まれ、支持され、拡がっている理由を男はこのとき初めて悟った。


…誰であれ、人は皆、何物かから逃亡したいに違いない。だから敢えて不自由を選んだ生き方に接すると、その人に対して「ついに逃避を成し遂げたのだ」という印象を抱くのだ。苦しみの所在を見極め、そこから離れた場所へ何としてでも行き着くことを、人間は常々望んでいるのだ。それは習性なのである。変化を極端に嫌う心と、常に変化することを願う心が同居するところに、人の矛盾は存在している。


男は、しばらく呆けたように天井を見つめて、過ぎ去った庭園を未だ幻に浮かべた。それから下卑た微笑を宙へ投げかけた。彼はこう思い至ったのだ。

「ただ、苦しみから解放されるために移動したその次が極楽であるという保証はどこにもない。たとえ自転車に乗った可愛らしい幼児でも、少しでもあの庭を離れ、柵を越えて傾斜に出てしまえば、段々と加速していって、ついには深い崖の下へ投げ出されるのだから…」


彼は、そんな残酷な考えを自分で笑って、結局は金のないもの僻みさね、と声に出さずにつぶやいた。またそのうちに、彼は幻に対してズームをした。自転車のハンドルが九十度右へ向けられ、ブレーキの管が張り詰めている様を克明に思い描いたのである。前方につけられたプラスチック製のカゴは大きな亀裂が入って歪んでいる。その状態で固まった自転車は、過ぎし日の幸福の痕を留めたものではあったが、それが未来の不幸に繋がらないと誰が言えよう。


それからも、道中で二軒の建物を見かけることができたのだが、ほとんどそれらは山に取り込まれて、ツタが壁を這い回し、窓さえ隠して、一個の異形な植物の塊に仕上がっていた。もちろん人は住んでいない。あまりに殺伐としていたから、ボイラー室のような特殊な装置を入れ込んだ建物のような気もした。それでも少なくとも一つは住居であったはずだ。家の傍らに池のような水たまりがあり、それは黒い陰湿な濁りを湛えていたが、中央付近に何らかの人工物が差し込まれていたのだから。元々飾り物であったろうに、自然は強欲にそれを我がものとし、一度人に奪われた土地を、再び奪い返していた。男はその黒々とした家を見て、小さく息を吸った。これこそが、真新しいあの家のなれ果てを示していると感じたのである。



ようやくバスは停車場へ到着した。予め地図で調べてきた番号と、拡声器で呼ばれる番号とを照合させる。828-6724。合っている。ここで間違いない。もう一度確認して、紐を引き、男は腰を浮かした。扉が開くと、運転手はじっとこちらを振り返って確認した。男は軽く手を挙げた。「ありがとうございました」と言うと、運転手も微笑して「どういたしまして」と低く返した。降りる時ちらと目をやると、老人はバスに居残ってぼんやり俯いていた。ということは、やはり彼はさらに向こう側の村に住む住民なのだなと思いつつ段差をゆっくり降りた。するとすぐにガタガタと扉が閉まり、バスは走り去った。


じっと男が向こうを眺めている間に、ガスの排気はこっそりと充満し、ほてった空気が鼻に潜り込んだ。畳まれたビラを無意識に撫ぜながら男は幾度か頷いた。バス停はダムの建設予定地と程近い場所にある。もう、地図を頼る必要はなかった。湿気を含んでいるような新しい道路が、車二台分の幅をもって竹林をまっすぐ突っ切っていた。そしてその向こうに荒々しく削られた大きな陥没穴が口を開いていた。男は歩きだした。靴底が一歩ごとに高い音を出した。


竹林の向こう側へ出てみると、隣に何台ものトラックが並んでいた。すべて大型のもので、土砂を山盛りに積んだものもいくつかあった。オレンジと黒の縞模様が入ったクレーン車が高々と首をもたげている。工事は既に始まっているらしい。


遠くの方にチラチラ人が動いていた。白いヘルメットを被り、緑っぽい色の作業服を着込んでいる。誰か一人親玉らしき人が指示していて、目の前に立つ作業員が釈明するように何やら話していた。男はこれを見て、ふと、自分たちにもあのヘルメットや服などは支給されるのだろうか、と考えた。通常なら貸してくれそうだが、人数の桁が何千万ともなると、それは非現実的なことに思えた。しかし、工員の安全が考えられていないわけもなかろう。なにしろ国が主導する……。


悪い予感が頭を巡った。宿さえ確保してくれない国が、安全対策を万端にするわけはないかもしれない。


そんなことを考えつつ、男がその場に立ち尽くしていると、横の方からバカリと音がした。機敏にその方を向く。一人の男がトラックから気怠げに降りてくるところだった。彼はいくらか右膝を曲げて左足を下ろしかけると、「よっ」と言いつつ地面に飛び降りた。砂地が掻き立てられて淡く埃立った。


そして彼は馴れ馴れしく片手をあげると、「おーぅ」とこちらに向かって声を掛けた。赤ら顔で垂れ目の、五十ほどの男である。唇のすぐ上まで白混じりの髭が生えている。酒飲みのような風貌だった。彼は口にくわえたタバコを右手でつまみ出して煙を吐いた。それから、男が何も言えず固まっているのを見ると、にやりと笑って、「あんちゃんもここで働くのか」と聞いた。


「はい、そうしようと思っています」

男はやや緊張して答えた。本能が、この類の人間には気を付けろと警告していた。ちょうどその時、ドリルが回される大きな音がここまで響いてきた。


その騒音の中、彼は笑って「思っています、だって?もう採用が決まってんだろうに」と声を大きくして告げた。

続けて「今日は何しにきたんだ。まだ一般労働者は参入できないんだが」と言い、もう一歩近づいてきた。それを見て男は同じ分だけ自分も退こうかと一瞬考えたが、もちろんそんなことはしなかった。


「どのような工事をするのか見ておきたいと思いまして」

男も大声で返した。ドリルの音は鳴ったり止んだりしながら続いていた。この音のために男は少し勇気が湧いていた。


「フライングかい?真面目なんだね」

彼は再びタバコをくわえ、斜め上を見つめて大きく吸い込んだ。ここでふかされたら煙が顔まで届くだろうと男が予感した瞬間、顔を背けて横側に目一杯吐いた。それから満足げに目を細め、親指でダムの方を示して「今はあれぐらいの穴だが、あんたらが働く頃にはもっともっと大きくなっているよ」と言った。


彼は左手を白いジーンズのポケットに入れてもぞもぞと動かし、腑抜けた笑いをした。はげかかった字で『ニューヨーク』と書かれた藍色のシャツは、彼が少しでも動くたびに皺の形を変化させた。


男は彼に「あの、ところで事務所はどこにあるのでしょうか。ダム建設の」と聞いた。本当は自分で探してしまいたかったが、わざわざトラックから出てきた男に、何も質問しないのもおかしい。


彼はすん、と鼻をすすって「事務所?そんならここをぐるっと回って先のところだよ。何か用事でもあるのか?」と言った。


「えぇ、実はプレハブ小屋のことで…」

「プレハブゥ??!」

彼は馬鹿にした調子で腰を曲げて繰り返し、ケタケタと笑い出した。呆気にとられた男の顔を見ると、また大きく笑った。


彼は一通り笑い終えると、今にも泣きそうに思えるほど震えた声で言った。

「プレハブってお前、どんだけ昔のことを言ってるんだ。もう満室に決まってるだろうよ。満室!」


彼はタバコを指の合間からポロリと落とした。落ちたという感じの落とし方だった。次いで、それを靴先で力強く踏みにじった。


「…増築されると聞いたんですが」

男は細い声で言い返したが、彼はすぐに首を振った。

「無理無理。希望する人間がずらーっと予約してんの。部屋作るのなんか全然間に合ってないんだから」

そして「あんた、まだ泊まる場所決めてねぇのか」と尋ねた。


「えぇ、まぁ……」

「これは大した真面目君だ!」

彼は大仰な様子で男の肩をポンポンと叩いた。甘ったるいタバコの臭いがした。


彼はそれからくるりと背を向け、一歩離れてからこちらへ向き直り、あからさまな嘲笑を男に投げかけながら「もうみんな家なんか取っちまってるだろうよ。よっぽどもたもたしてたんだなぁ、あんたは」と言った。


「採用通知が来たのが今日だったのですが」

「それはそれは。のっけから出遅れてやがら」

彼はおかしくてたまらないというふうに腹を押さえながら笑った。が、その笑い声は、ドドーン!と突如響き渡った巨大な爆音によって掻き消された。それによって男は驚いて顔を起こしたが、彼は全く動じずに無音の中で笑っていた。


しばらくして、爆音の余韻も落ち着いてくると、遥か向こうから土煙が入道雲のように立ち昇っていくのが見えた。ダイナマイトで爆破をしたのだ。


「じゃあ、俺がいいことを教えてやろう」

彼は急に声を潜めて、上目遣いでこう言った。周りでどれほどの破壊が行われようとも、彼は微塵も気にならないらしかった。彼が気にかけているのは男一人に対してであって、それ以外のことは全くどうでも良かったのである。


「…実はなぁ、そこらの森の中で寝そべって一夜を明かすのは誰も止めてねぇんだよ。うるさい役人どももこのくらいは多めに見てくれる。だから狼や熊とさえ仲良くすりゃ、無料宿泊ができるってことだなぁ、わかるか」

そしてまたケタケタ笑い出した。


男はこの話をどう切り上げていいやら掴みかねていたが、とにかくこの相手からは離れなければならないと考えたので

「はっはぁ。…それでは、すみませんが私は急ぐのでこれで失礼しますよ」と立ち去ろうとした。すると彼は急に無愛想な声になって「まぁ待てよ」と男を引き止めた。


それから仁王立ちをして「あんた、車でここまで来たのか」と聞いた。今までとは打って変わった、冷たい言い方だった。


「いえ、バスで…」

「そいつは上出来だ」

彼は深く頷いた。

「…あんたら一般労働者なんかが、もちろん停められる駐車場スペースなんてないんだからな。それで、バスで来たってぇことは、ついさっきバスが行っちゃったんだな?なら次のバスは相当後になるな」

笑いを引っ込めても彼は赤ら顔なので、どこかとぼけて見えた。ほぼ全裸で体を冷やしながらテレビを見ているサウナ上がりのおじさんさながらに。


彼は加えてこう言った。

「あんちゃんもきっと東側から登ってきたんだろうけど、ここからまだ行ったところにちょっとばかしの集落があってよ。そこではじきに労働者が寄ってくるからってことで、大慌てで宿屋を出し始めた家がたくさんあるのさ。こうなりゃ、もうそこに泊まるっきゃねぇと思うぜ」


また爆発音がした。男は今度はさほど驚かなかったが、軽く右耳を塞いだ。


「…その宿は空いてるんでしょうか」

音が止むのを見計らって、男は聞いた。


「多分な。そんなことを知ってんのは俺ぐらいのもんだから」

彼は日に焼けた太い腕をさっと差し出して男の手を強引に握ると、「まぁせいぜい頑張りな。不便なことも多いと思うが、金が出るだけマシと思ってよ」と言い、そそくさとトラックへ帰っていった。


男は急に強く握られた手の痺れを感じながら、若干恍惚として彼が消えていったトラックの方を眺めた。そして点と点とのつながりを思った。色々なところでたらい回しにされながら、少しずつ打開策が具体化して、道が開けてくる様を。


あの男はからかい好きのようだったから、完全に彼の言葉を信じきってはいけないと思ったが、最後の情報に関して嘘はなかろうと、男は不思議と確信した。そう言えば、彼は会話の中で嘘を一つもつかなかった。下劣な冗談は、事実をもとにして誠実に言われていたのだ。男は先ほど作業員たちが蠢いていた地点に目を凝らした。


そこには誰もいなかった。指示していた人も、作業していた人も、男が会話していたわずかの間に別の場所に移動したらしい。男は続いて反対方向を見た。ダイナマイトの土煙は、段々薄らぎながら、風に乗って上空を漂っていた。ダムの穴は、1200万人を収容すべく、段々と拡張されつつあった。


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