5
カタン、と列車が弾む。男の頬杖はその衝撃を受け入れて沈みこむ。周囲の景色はすでに見慣れぬ建物で溢れかえり、思い出のないそれらは、青や白といった単色の絵の具となって、ただ後方へ流れていく。
すぐそばでひそひそと老夫婦が会話している。その声は穏やかに、孫娘と思しき少女の頭上を行き来する。話題の中身は少女とは一見関係がないように見えて、恐らく、不思議なルートで繋がっているのだろう。その少女はツインテールにくくった赤髪をあどけなく尖らせて、電車が揺れるたびにカックンと頷いている。まるでその話に参加しているように。
男はその様子を少し前までじっと観察していたが、今はむしろそこから顔を背けて、巡ってくる憂鬱な考え事を力なく追い払っている。ソファのモケットの触感が、左手を通じて体内に流れ込む。
「次はホワイト・ストリート駅、ホワイト・ストリート駅です」
アナウンスと共鳴するように、電車が減速し始める。じわりと押しつけるようなかすかな圧力が体に加わる。乗客皆が、自然とそれに対抗して、表立っては誰一人反応を見せない。
そのうちに雲が太陽を通過したらしい。さっと金の光が顔にかかってまぶしかった。細めた目で、なおも外を眺めると、銀に輝く十字架がまるでレールに乗って運ばれているかのように流れてきて、滞りなく退いていった。男はそれをじっとりと横目で見送った。真っ白い教会は、駐車場の隣で静かに神の所在を主張している。建物と道路のほんの少しの隙間に生えたエノコログサが、前後にふらふらと揺れている。
目を戻す。古そうなネオンのレールが絡み付いた床屋の看板。その肝心の店の窓は、厚いカーテンが引かれている。潰れているのだろう。そのカーテンは既に何年も固定され、もう風によって揺れることすらないのだ。また、その先にはT字路があって、道全体が薄暗く、ほのかに青みがかって見える。両脇を守る家々が日光の侵入を許さないのである。平等に陽光の注がれるはずのこの世界にあって、切り抜かれたように異質なその区画には、いつ降った雨の名残なのやら、水の滲みすら見て取れた。
…そこを過ぎたのはほんの一瞬のことであったはずだ。だが男の瞼の裏にはどうしてだかそこがしっかりと貼り付けられて、もう取れなくなってしまったように思われる。男はその残像と次から次へと変化する風景とを二重に見ている。
立ち話をしている二人の老婦人。片方が手振りを交えて大げさに笑いながら話している。もしかすると彼女が一方的に話し続けているのかもしれない。もう片方の婦人は、まさに壁のようになって、その話を一身に受けているわけだ。目を見開き、手を叩いた話し手の、腹の突き出た薄紅の服には「最後まで戦え!」という大層な一文が書かれていた。つばの長い帽子から銀髪が少しはみ出ている。彼女が笑うと、頭が上向いて、これ見よがしに光がさっとなだれ込み、唇を赤々と照らし出した。
それから前方に、線路脇の一本道を自転車で駆けている少年を見つけた。列車が迫ってくると立ちこぎになり、スピードを上げようとペダルを踏み込んでいる。彼は負けると分かっていて競争を仕掛けていた。列車は間近に迫った駅に向けて、気の抜けた音を立ててスピードを緩め続ける。それでも少年は追いつかれ、列車の影に飲み込まれて、最後には放出され、追い越される。……
目的の駅に着いたのはもう11時を回ろうかという頃だった。家から出発すると片道だけで1時間半は費やすということだ。しかも、ダムはまだまだ山を登った先にある。そこには電車も通っていないのでバスに乗り継ぐ必要があるが、そんな辺鄙なところでは宿を探すのは難しかろう。もし仮に存在したとしても既に他の労働者が陣取っているだろうと踏んで、麓の街で降りたのである。
男が降り立ったときには乗客がずいぶん数を減らしていた。電車の扉が閉まる音を後ろに彼はプラットホームの階段を上って、駅員へ切符を渡し、ゲートを出た。
出入り口の向こうに、四角く切られた外がある。サングラスをかけて歩く人、エンジンを震わせて走る黒い車。外はあれほど明るくてざわついているから、この駅内はこんなに暗く、静かに思えるのだ。ちらと振り返ると、切符を受け取った駅員はまだ、白い手袋をはめた手を窓口の外へ一寸差し伸べていた。最後の乗客が通り終わるまで、その白い手袋は、指をぴったりつけて伸ばされている。
男は歯ぎしりしながら外へ向かった。光と動きに溢れる世界は、彼を飲み込まんとして、一歩ごとにその袖を広げて行った。
それにすっかり包まれた時、男は街にいた。信号がちょうど青になったのも手伝って、取り敢えず真っ直ぐ進むことにした。停まって空吹かししている車やバイクの前を、ポケットに手を突っ込んで行く。先ほどは電車の中から眺めていた、絵画としての街中に今自分が足を踏み込んでいるという印象によって、なんだか違和感を覚えた。
「さて、なるべく財布に優しい宿を選ぶべきなんだが…」
つぶやきながら、あまりにあてがない話で苦笑してしまう。何しろここに来たのはこれで初めてなのだ。
右を見、左を見る。
これといって変わったところのある街ではない。いつか歩いたことがあってもおかしくないような普遍的な通りがぼんやりと続いている。
初めて物差しを買ってもらったばかりの子供が遊んだ後というふうに、空は多くの電線で区切られている。灰色にくすんだ壁に、真黒い汚れが垂れ流れるように染み込んだアパートや、安っぽい自転車が大量に並べ立てられた学生塾のスロープの下。そばにある金網で囲まれたゴミ捨て場には、たった一つの小さなゴミ袋が横に倒れていて、黄色い紙で『警告 燃やせないゴミが入っています。』などと書かれてある。当たり前の、しかもそれでいて私の記憶のどこにも存在していないはずの街だ。
男は手のひらに数字をチラチラと書き込んでいたが、ついに1ヵ月450ドルを下回る部屋を見つけることに決める。考えてみると不親切なものだ。ダム工事に従事する千二百万人は、こうして各々自分の宿泊場所も探さねばならないのだろうか。もちろん彼らのほとんどは男と同じように、遠くの街から何もわからぬまま吸い寄せられるようにやってくる新参者であるに違いない。そんな人々を放置して、一体どのようにして生活させるつもりだろう。すでにこの街のどの宿泊施設も満室になっていたりしないだろうか。
周りを歩いている人を見回したところでは、腕まくりした労働者という格好の人物はいないようである。ケータイを片手に歩く女にしても、舌を出し入れして荒く呼吸する犬を連れた男にしても、そこらに満ちているのは、休日を生きる地域住民ばかりに思われた。(しかしながら、誰か他者が傍目から男を観察してみたところで、きっと彼を地域住民として認める他ないだろう)
それではみんなどうしているというのか。今一度、工事の受付にでも問い合わせてやろうかと、ちょっと考える。だが、そんなことのために再び電話の回線争奪戦をやるというのは、なんとも馬鹿げた話に感じた。それに考えてみれば、麓の街のホテルの所在について彼らが知るはずもなかった。彼らだって初めて来る土地に違いないからである。それにしても、もし本当に一千万もの人がこの街へ押し寄せたなら、さぞかし宿主たちは儲けることができるだろうと思う。そして、宿に入れそびれた人々が闊歩して大変な騒ぎになるだろう。この片田舎の街も、全体が祭りの如く活気づくはずだ。祭りで済んだらいいようなものの、どんな重大な事件が起きるかも分かったものではない。それすら、国の計画のうちなのだろうか。
『ゲストハウス シンフォニー』と書かれてある一軒の家を発見し、その前で立ち止まる。緑の壁に黄色い鳥のシルエットが毒々しく描かれている。ペンキを塗り替えたばかりのようだ。玄関のそばに黒板が立て掛けられていて、そこには一泊25ドルと書いてある。一ヵ月いくらかはわからない。単純に計算すると750ドルだが、いくらかはまけてもらえないものだろうか。本当は、一泊前提の民宿などではなく、下宿先を探すという方向にした方が良さそうなのだが、なかなかそうなると目立つ広告が見つからない。
首を傾げながら、そこを通り過ぎる。するとすぐに商店街に入り込んだ。アーケードの薄い褐色の屋根によって視界が一気に色づく。どこからか、甘ったるい煙の匂いが漂ってくる。密かに、急激に、道を行く人々の数が増えた。そこはまるで一本の流れであるかのように、多くの人は左から右へ進んでいた。その人のうねりの間を、ネクタイにスーツを着込んだ中年男が自転車ですり抜けて行った。少し薄らいだ頭髪が上を向いていた。
なんだかその人の流れの中を自分だけ横切るのは場違いな気がした。男は後ろを向き、躊躇なく先程のゲストハウスの家へ戻った。息をつきながら黒板をじっくり見回すと、下の方に少し小さな字で『泊まりたい方は隣の居酒屋へお声掛け下さい』とある。なるほど、ここのオーナーは居酒屋の店主を兼ねているのだ。
扉を開ける。金属製の棒がいくつもぶら下がっていて、それだけでガランガランと大きな音が鳴り、男を驚かせた。ちょうど朝食と昼食の間の時間と言うこともあって、店内に人の姿は少なかった。入り口の隣には、注文のメニューが民宿と同じ黒板に、同じ筆致で書かれている。
「いらっしゃいませ。一名様でよろしいですか」と丁寧に言われるので彼はまごついた。居酒屋と書いてあるが、中は静かなカフェのような雰囲気であった。棚にずらりと並んだワインの色とりどりの瓶やビール樽が、飾りに見えたほどだ。昼間は大人しいが、夜は酒飲みでいっぱいになる、豹変型の店かもしれない。
男は、微笑みながら近づいてくるそのウェイトレスに「実は、隣のゲストハウスを見てきたんですけど」と告げた。
「ああ、ご宿泊のことでしたらこちらへどうぞ」
ウェイトレスは頷いてカウンターの後ろを通った。男はそれに続きながら天井を眺めた。そこには、オレンジ色の電球が等間隔に四つ並んでついている。
案内されるままに、従業員室と思われる部屋に入った。いくつか大きな箱型のロッカーが積み重ねられており、その中の三つに名前のシールが貼られていた。部屋の中央には、軽そうな長机が一つ置いてある。
「ここで座ってお待ち下さい」
ウェイトレスは椅子を示すと、机に置いてあったコーヒー缶をスッと取り上げ、胸の前で持った。
そして私が座るのと同時に、部屋の奥の扉を開けて向こうへ消えて行った。彼女は後ろの手で戸を閉めたのだが、それは閉じる直前で柔らかくブレーキが掛かって、中途半端に開きっぱなしになった。
「店長、シンフォニーに泊まりたいと言うお客様がいらっしゃいましたが」
戸の隙間から、ややくぐもった声が聞こえた。すると大きく「分かった」と返事があって、こちらに足音が近づいてきた。
「こんにちは」
そして顔を出したのは、背の高い、人の良さそうな男だった。続けて彼は「いつお泊まりですか」と眉を上げて聞いた。
「ええと、まだここにすると完全に決めたわけではないんですが、5月6日から長期的に部屋を借りられないかなと思いまして」
男がまだ悩んでいる最中でいることをアピールするような、だんだんゆっくりになる口調で言うと、店主はにこりとした顔で頷いて
「あなたは、あのダムの建設に携わるんでしょう?」と聞いた。
「えっ」
男は一度に血が逆上するような気がした。顔が紅潮し言葉に詰まったが、それが一体なんの感情によるものなのかを知るのには少し時間が要った。
「あ、ええ、そうなんですよ。ええ…」
頭を掻く。それはいかにも羞恥心のせいであったのだ。
「そうでしょう。あの工事が始まると言うので、ここらにある宿泊施設はどこも予約でいっぱいですよ。うちの部屋も、既に取られてるんです。すみませんねぇ、そう表に書いときゃいいんですが、怠けてまして…」
「そうですか…」
やはり、既に街にある大概の部屋は埋まってしまっているようだ。それではどうしろというのだ?
「では、空いてる部屋のあるところは、この辺にはなさそう、ということですか」
「うーん、はっきりとしたことは、ちょっと私には分かりません。多分、どこも同じだとは思いますが。何しろ小さい街ですからね」
「そう、ですか…」
落胆して、俯いた。これではここまで来た甲斐もないではないか。そしてわずかに沈黙の間ができたので、男は「ありがとうございます」と礼を言って引き下がるチャンスすら逃してしまった。
その時、どこか言いづらそうに店主は切り出した。
「…あの、国が用意したプレハブ小屋についてはご存知ですか?」
「え…?」
「もしかしてご存知ありませんか。やっぱり。ここに来た結構の人が知らないって言うんですよ。ちょっと待っててください」
店主は再び向こうの部屋へ引っ込んだ。バタン、と勢いよく扉が閉められて、それっきり音は絶えた。こうしてみると、扉はただの壁の一部になって、模様やドアノブがすこぶる要らないものに見えた。
「これですよ、これこれ」
店主はすぐに戻ってきた。その手には一枚の紙切れが握られている。
それを上から覗き込む。ダム建設の宣伝ビラだった。
黒い斑点が散らばっている見づらいモノクロの印刷紙で、頭に『労働者求む!』と大きく書かれている。
右上にダムのイメージらしいものが描かれているが、真っ黒につぶれてよく分からない。そして下の方に赤くペンで丸印が入れてあって、そこには『仮設プレハブ小屋もご用意しています。先着順なので、宿泊をご希望の方はお早めにご連絡ください(只今も増築しておりますが、戸数には限りがあります)』とあった。
「こんなものが……」
「この紙、配ってるとこと配ってないとことあるみたいで、知らない人が多いようなんです。先着順とあるので、正直、厳しいかもしれませんが、新たに増設されているかもしれませんし、一応聞いてみたらいいのでは?」
トントン、と電話番号を指して言う。見覚えのある番号だ。ケータイが履歴に残しておいているはずの、あの事務所の。
「その紙は差し上げますので、どうぞ持って行ってください」
店主は会釈して、紙を指先で男の方へ寄せた。それはどことなく、客にビールを差し出す様子を彷彿とさせた。
それで男は今度こそ握手して「ありがとうございます。こんなに教えてくださって」と礼を述べた。
紙を受け取って部屋を出ると、私を案内してくれたウェイトレスはカウンターの後ろに立ち尽くして、顔だけをこちらに向けていた。そこで目が合うとハッとして小さく頭を下げ、バツが悪そうに目を逸らせた。男は一瞬チップを渡すことを検討したが、結局彼女の背中を通り過ぎて外へ向かった。戸を開ける時、苦心して穏やかに押したにも関わらずやはり金属の棒はガランガランと轟音を立てた。