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娘が帰ってくる時分には、男も家にいて、無差別に選び出した本をめくっていた。自室の机にあった電気スタンドは、久方ぶりに役目を得た。男は明らかに、自身を取り巻く環境の進展と言うべき変化を感じていた。それは、先の見えなかった、と言うよりは破滅的な展望しか見られぬようだった昨日までと違って、この局面を打破し、乗り越えようとするものである。
「ただいまぁ」
その心境の遷移は娘にしても同じだったものか、今日はわざわざ声を出して帰宅を伝えた。そしてバタバタと床を鳴らしてやってくるのだった。男は本をすぐに閉じてしまって、戸の方へ歩み寄った。
「お父さん」
娘の方が一足早くに着いて弾んだ声で言った。
「おかえり、エリス」
男が扉を開けると、娘は飛び入って抱きついた。抱擁するのも、ここ二ヶ月は少なくともなかった。彼女はそれから少し身を引いて、「どうだった?」と聞いた。
「電話したらな、住所と電話番号と名前だけ聞いて、採用するときは手紙送るって言ってた」
「やったじゃんお父さん!」
娘はまるで内定したように喜んだ。
「後は手紙が来るのを待ってるだけだね」
「でも、まだ確定した訳じゃないよ」
「いや、大丈夫よ」
彼女はさも自信たっぷりに、何でもお見通しという顔つきをしていた。
「だってこれは国の救済措置なんだもの。きっと採ってくれるに決まってるわ。あたし、今日もっと詳しく聞いてきたの。ダム建設の場所はね?ダナリア州のニューファーブ市というところで、広さは130km2もあるんだって!しかも働いてもらう人は、1200万人までいけるらしいの!1200万人よ、凄いでしょう?」
娘は男が思う以上に、「この事業が国の救済措置である」ということを良いように捉え、信頼していた。そしてなるほど、1200万人も囲えるなら、ここらの失職者のほとんどを賄えるかもしれないと男も思った。けれど心配な点もあった。現場は、家から近いとは言い難い距離にあったのである。そりゃあ、ダムは川の上流に作るものだから、ある程度予測していなければならなかったかもしれないが。
「ニューファーブ、か」
「そうなの。ちょっと遠いよね」
ダムの建設工事はほとんど毎日朝っぱらから行われるのだろうから、この家から通いで向かうのは難しいと思われた。
「家を、探さなくちゃいけないかもしれないな」
そうなれば、宿泊代もかさむ。少し行き先が不透明になったようだ。
「ごめん、昨日のうちに言えなくて」
娘は体を完全に離した。男は両手を少し前に差し伸べるようにしていたのを下ろして、
「全然。働くっていうのはこういうもんさ」と言った。
しばしそれから沈黙が流れた。言えることがなくなったのではなく、それぞれ頭の中を整理し考える時間が必要だったのだ。
「じゃあ私、料理作ってくるね」
娘がそう言って慌ただしく駆けて行った。その後ろ姿を見つつ、自分が今日でさえ家事を執り行う心づもりになっていなかったことに、やっと気がついた。
それから一週間とたたないうちに、採用通知の葉書が届いた。毎日朝食をとってからポストを覗くようにしていた娘は、それにいち早く気がついた。日曜日の朝だった。
妙なタイミングで目が覚めたのか、男の頭はいつもに増してぼんやりとしていて、少しよろめくようにしながら起きた。すると、居間へ来たところで、いつもなら自室で勉強するはずの娘が、そこの机で宿題をやっていて、男の顔を見るやひとこと「おめでと」と言ってそれを手渡したのだった。
そこには印刷字で、「この度は貴殿の採用が決定しましたのでお知らせします。」とあり、
「日時 1989年5月6日〜1996年8月(予定)
午前7時半〜午後5時(土曜休み)
場所 ダナリア州ニューファーブ市84-25番地
持ち物 不要(こちらで用意します)」
と、マップ付きで簡潔に記されていた。
「本当に審査もなく通すんだな。ゴロツキも多いんじゃないか」
「ゴロツキも食べていかなくちゃ生きていけないものね」
日は残り三週間ほどあった。そのうちに寝泊りする場所を探さねばならない。
「安いところにしないとなぁ」
「早速今日探してきたら?私留守番してるよ」
娘は男を早く早くに急ぎ立てようとしていた。そのために男は心づもりをする暇さえ与えられないような不満を抱かないではなかったが、他人事として傍から見れば、この手のことは前倒しにちゃっちゃと済ませて余裕を十分残して備えておくよう取り計らうことが最善であることは明らかだった。こういう件では、とかく当人が周囲からの圧倒的な期待に背を押されて、考える間もなく動かざるを得なくなるものだ。こと、その純粋な期待を有しているのが我が子となると、余計それを遮って無理に先送りにはしがたい。男は仕方なくそれに従うことにした。
だが、最小限度の逃亡策として「飯は食っていこう」と言った。
「うん、いいと思うわ。朝ご飯抜いたら、頭も良く回らないって言うもんね」
「まぁ、頭使うってほどでもないと思うけどな。それにほら、本当はここにちょっとした蓄えもあるにはある」
下っ腹を服の上から掴むと、娘は素直に笑った。男はそれを見て、満足げに冷蔵庫の扉を開けた。
「そうだ。卵の賞味期限が近いから、目玉焼きでも作って食べてよ。冷凍庫の中のソーセージと合わせて」
娘は椅子の背もたれに体を預けて、顔を反らせながら言った。
「了解了解」
男はパックの中でモグラたたきのように無作為に取り残された三つの白い卵のうちの二つを取り出し、キッチンの角に殻をぶつけて割り、フライパンへ中身を落とした。フライパンはもともとコンロの上に置かれてあったばかりか、内側に黄緑の脂が無数に浮かんでいた。なるほど、娘も先にしっかりと卵を消費したものと見える。そして男にもそれを勧めるつもりで洗わずにおいたのだ。
とすれば、娘が居間にわざわざ残っているのには、そうした理由も含まれていたことになる。先程出発を迫られた時に、「じゃあすぐに行ってくる」と返答して食事をせずに出ていけばどうなったことかと、男は考えた。
「ごめん、卵を使ってもらいたいから、ご飯だけ食べて行って?」と言われたろうか。…いや、彼女の性格上、そうは言わないだろう。きっとにっこり笑って「いらっしゃい!待っているね」と、何ら計画に狂いがないように繕い、したがって男も何も気がつかないまま家を出て、後には冷えた油脂のこびりつくフライパンだけが残る。そして娘は一人、家へいて、いつか男が帰ってくるまでには、静かにそれを洗い、拭って、引き出しの中にしまっておくのだ。それが男に使われるためにコンロの上にあったのだという事実はきれいに隠し尽くされ、男にそれを知る由はない。彼女の頭の中にのみ、それがうっすらと沈殿する……。
パリ、と冷凍ソーセージの袋を開け、若干黒ずんだピンク色の、その長めの肉棒を一本箸でつまむ。なんだかやり切れない気がした。今、何やら鼻唄を歌って頭を左右に軽く振っている娘が、男に知られないようにひそやかに保っているもの。それらの存在が、その細身の体へどれだけ堆積していることかと考えたのだ。
彼女がそのことについて何も感じていないはずはなかった。失職して、自信を喪失した男のために、彼女なりに方々に働きかけ、できる限りの手伝いをしていることはひしひしと伝わってくる。それでも彼女は不平など一つもこぼさず、男を鼓舞し続けているのだ。確かに励ます力を十分に持ったその笑顔を見て、けれど、どうしようもなく痛みを感じることがあった。
チチチチチ、と前置きをして、青白い炎が点火した。フライパンに蓋をすると、耐熱ガラスが途端にくもる。内側からたっぷりと吐息を浴びせかけられたように。冷蔵庫を再び開けて、男はめぼしいものを引き出した。
ヨーグルト、バター、ポリ袋に包まれたマカロニサラダ。いつもなら、もっと軽い、ほとんどあってないような量で済ませるのであるが、娘が近くにいるという意識によって、男の朝食はなかなか立派なものになった。
バターを食パン二枚へ塗り付け、それをパン焼き器に挿し込む。そしてつまみをひねると、娘が声をかけた。
「お父さん」
「なんだい?」
振り向くと、彼女は背筋を正して顔だけをこちらに向けていた。控えめなそばかすが頬へポツポツと胡麻のように散っている。
「もし家を、離れることになったらね?」
彼女の右手の内で、鉛筆はニ回くるりと廻った。
「あんまり気にしないでいいからね、こっちのことは」
それを聞くと、男の心臓は鷲掴みされたように縮こまった。娘は、男が実は最も気がかりにしていることを、男が一人きりで検討してみる前に、すでに見抜いて先手を打ったのである。
「あ、ああ。じゃあ、そうするよ」
「うん。けど、手紙は時々ちょうだいね」
娘は笑いかけて、前へ向き直ってまたノートへ鉛筆を走らせ始めた。
男は全身に力が入っているのを感じながら、かなわないなと思った。男がいなくなれば娘は一人きりで家にいなければならなくなる。そのことについて男は何も言わないながらに心配していたのである。あるいはこの心配は全くの無用とも思われた。なぜなら、今でさえ彼女は家の切り盛りを一手に引き受けている形であって、何の用もせず家に居候しているような男が出ていけば、むしろ家事はうんと楽になるはずだからである。
だが、それにしても、まだ十八に満たない少女を放り出すというのは気が咎めた。そんなことをはっきりと伝える資格はないと、男は悟っているのだが、彼女が一人ぽっきりでいるというイメージは、どこか判然としない、嫌な印象を与えた。
男が浮かべた想像の上では、彼女は夜、真っ暗な部屋で、月明かりと街灯の導くままに、移動式の椅子を窓辺へ滑らせて、無表情に外を見ている。退屈から逃れるために、気を紛らわせようとしているようではなく、孤独の恐怖にさいなまれて、助けを呼んでいるようでもなく、ただ涼しげに、夜更けを窓のそばで過ごしている。
いったいこれのどこが男を悩ませるのであろう。夜更けに外を呆然と眺めることぐらい、誰だって、特に自分がよくやっていることではないか。それを娘が行うことの、何をそんなに嫌がっているのか。
またお得意の、悩むだけむやみに悩んでみせる、何の解決にもならない、むしろ解決を放棄しようとする心の表れとも言える、惰性的な癖が首をもたげてきたと見える。その証拠には、男はこれについて考えると、どうしようもない、考えてみたところで仕方のないこと、すなわち「あぁ、この子に母親がありさえすれば!」という叫びが、ちらっと隙間を縫って忍び入ってくるよう思われて、それを振りほどいて別の方向性でもって真摯に考えよう考えようにも、その願望は執念深く思考にまとわりつき、ぱっと顔を背けた位置にいつの間にか回り込んでおり、また顔を振ったその正面に存在し、いつしかそればかりに目がいくといった次第。
これではただの責任の逃避と言われても仕方あるまい。何も考えずにいるのがはるかにマシだと言うものだ。だからこそ娘は、自ら気にするなと言ったのかもしれない。男がそれを言わせたのだ。うじうじと一つの決断もできない男に代わって、彼女は彼女自身で決着をつけたのだ。
男は自分のあまりのふがいなさに笑ってしまった。チン!とベルが鳴って、香り立つ二枚の食パンがせり出した。