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しぶき  作者: 師走
3/12

3

食事が済むと娘はすぐにキッチンに立って食器を洗い始めた。


「俺がやっとくから…」

男は申し出を断れるとわかっていながら、一応声をかけた。

すると娘は食器をガチャガチャ鳴らしてスポンジを走らせつつ

「いいの。私にも手伝えることは手伝わせて?」と言う。


この善意に男はいつも苦しめられる。「私にも手伝えること」と言うが、男よりも娘のほうがよほど働いているのである。男はそれに不合理を感じているが、それでいてやめてくれとも言えず、甘んじて娘の行う家事による恩恵を受けていた。自分にもできるはずのことをやらずに。


時折は、心の中で「女の方が男より家事に向いているから」と考えて逃避したくなる。けれどもその理屈で言うなら、男は仕事に出向いて金銭を稼ぎ、家計を支えなければならないのではないのか。それを放棄している自分は、では一体なんだ。自分は一体、何の役割を果たして、どの立場で、何の意義を担って生きているんだ。こうして男は頭を痛めながら、明るい居間をそっと抜け出し、自室へと塞ぎ込みに行くのが常であった。



次の朝、男が目を覚ませるといつものように娘はすでに学校に出発しており、家はしんとしていたが、居間の卓上に置き手紙があった。そこには『帰ったら結果を教えて!!』と記されていた。男はぼんやりと、その走り書きされた字を眺めていた。あまり大きな感興を起こすでもなかった。そういえばそんな話があったなあと感じた程度である。


しかし、洗面所でうがいをし、粘っこい唾を飲みこむと、みるみる倦怠感が湧いてくる気がした。今日でなければ駄目と言うわけでもないだろう。こう男は思った。何百万人もの人を働かせるのなら、何も急いで連絡を取る必要もなさそうなものではないか。とりわけこの事業は、失業者に職を与えるためのものであると言う。それならなおのこと、多く余裕を持たせておいて、むしろ期限直前の駆け込みや着工中の飛び入りでの参加すら歓迎して、ダムなり何なりを造るものではなかろうか。もしすぐに収容人数を超えて応募を打ち切るというなら、それは国の不手際と言えよう。


男は冷蔵庫から牛乳とブルーベリージャムを取り出し、机へ置いてコップを棚から抜き取った。そしてなるべくそばにあるメモ用紙を意識しないようにしつつ朝食にした。


バスケットの内からパンを一つ手に取り、わずかなジャムをヘラで掻き出して塗り付ける。小鳥の騒がしいさえずりが聞こえた。釣られて窓に目を向けると、白塗りの近隣の住宅に街路樹の影が大きくかぶさって、それがちらちらと揺れていた。赤い車が走り去り、向こうから歩いてくる人の姿を一瞬だけ隠した。彼らは全く日常を生きているように見えた。けれども少し角度を変えれば、彼らの内心にも諦めや絶望が巣食っているのを認めることも可能である気がした。ひっきりなしに踏みつけられる路面や、閉まりきった窓にまで!それらにまで秘められているらしい、この苦痛は、果たして一時的な、つまり男自身に原因が求められるべき幻覚に過ぎないと断ずることができるものかどうか。


コップへ牛乳を注ぐと、紙パックについた小さな露が指先に触れ、そこを冷やす。もしくは指先がその露を温めると言ったほうが正しいかもしれない。なぜならこの露は男の体が温かいという以上に、冷たくあるべき存在であるようだからだ。


白濁した波が膨らんでコップの壁面に打ち寄せられるのを見ながら、男は、それでも今日すぐに電話しなければならないと思った。それはもしかすると娘のくれたメッセージがなければ至らなかった結論であるかもしれない。しかしそのメッセージが主要な、あるいは少なくとも唯一の原因であるとは思われなかった。冷静に考えてみれば、すぐにでも連絡を取ろうと奮起するのが正しいのであって、それを避けようというのは、昨日去来した、あのひ弱な感情が尾を引いているからに違いないのだ。それだけだ。


そんな気持ちに流されてたまるものか、と反発するのは当然のことと言えた。当然、反発すべき( 、、 、、、、、)。もしそうでなければ、一体どのようにして、この重い腰に理由をつけ、正当化を図ろうと言うのだ。これはよくある気の迷いというやつであって、もちろん振り払わなければならない。


男は一口のパンをなるべく長く咀嚼し、牛乳を加えずにゆっくりと飲み下した。手をゆっくりとメモ用紙へ伸ばして、そこにしわを寄せないように留意しつつ手前へ滑らせて持ってきた。帰ったら結果を教えて。そう、少なくとも今日、娘が帰ってくるまでには、男は何らかの結果を携えているはずだった。合格であるとか、不合格であるとか、結果が出るのに時間がかかる、書類が要るらしい、募集はまだみたいだったetc………。ただ、「電話をしていない」、これではない。これだけはありえない。


男はとうとう牛乳を引っ掴んでパンの残りを喉奥に詰めこみ、それを一気に流し込んだ。そして昨日手渡された電話番号の書かれた紙を取りに自室へ向かった。ちょうどその時、陽に雲でもかかったらしく、一面が薄暗くなった…。



ケータイを手にして、何度目かのため息をつく。電話をかける段になって、なぜこんなにも緊張するのだろう。今まで様々な会社に拒絶されてきた記憶のせいだろうか。いやむしろ、これまで拒絶されるはずだった手段で、おそらく承諾されるのだろうという予感にこそ、この根強い抵抗があるようだ。


男はひとまずケータイを机の上へ放り出して、部屋の中をぐるぐると歩き始めた。そんなことをしてもどうにもならないと知っていてこそ、いずれ来たる結果を、少しでも先延ばしにして時間を空費してみようと思った。自分は拒否しているのではない、準備をしているのだと考えた。外へ散歩に出たかった。けれどもそれは思い留めて、窓へ額をつけるようにもたれかかった。


先ほど見えていた人々はもうどこかへ消えてしまって、道には誰もいなかった。世界はこれでも、流動しているのだ。世界は止まらない。そこにどれほどの足枷となるような負の感情をたたえていたとしても、世界は絶え間なく動いていて、男もそれに属しているはずであった。どんなに緩慢にでも、どんなに自ら望まずとも、小さな変化は肉体にも精神にも重ねられているのである。それを超克はしていないはずだ。まだ自分は世界と断絶していない。


振り返った。ケータイは手の届く位置にあった。男はそれを拾い上げ、とうとう番号を打ち込んだ。コールが始まったのを聞くや、男はやってはいけないことに手を出したような後悔を感じたが、もう取りやめにしようなどとは思わなかった。コールは幾度か繰り返されたが、なかなかつながらない。男は息を抑えて待ち続けた。


プルルルル

プルルルル

プル


「ただいま、回線が混み合っております。しばらく時間をあけてから、再度お掛け直しください」

聞き慣れた女声のアナウンスが流れて、電話はぷつ、と切れた。男は茫然とそこで立ちすくんだ。電話の切断を教える、非情なブザー音が、怒声のように右耳の鼓膜を繰り返し叩く。束の間、眼の焦点が合わなくなり、部屋全体が丸くかすんだ。


その時、いきなり後ろから男へ抱きついたものがあった。それは、焦燥と勇気だった。男は、きっと電話を今同時に多くの求職者が掛けているのだと、はっきり認識したのである。やはり国の主導した事業は存在し、自分と同様の境遇の人間がそこへ殺到しているのだ。こうしてはいられない。


男はすぐさま同じ番号を打ち込んだ。そして耳をそばだてて待った。小さなケータイの画面の裏から、何千人、何万人の人間の息遣いが伝わってくるようだった。ここへきて、男は奇妙な連帯感を感じていたのだ。


コールはまだ続く。男はただ待った。多くの人物が密集する中で、自分だけに光が当たり、話が聞かれることを待った。もはや職を得ようなどという目的すら意味を持たなかった。男は待った。


プルルルル

プルルルル

プッ


「ただいま、かい…」

「っん!」


男は何度でも繰り返してやろうという気になっていた。先ほどまであれだけ嫌がっていたのに、どうしたことか、今度はやめることができなくなっていた。男はメモ用紙と携帯とを同時ににらみながら数字を素早く打ち込んだ。そしてコールした。


プルルルル

プルルルル

プッ


「はい、お電話いただきましたソールドダム建設事務局のマイク・エイベルと申します」


つながった。とうとうつながったぞ、私が、あれだけの人数の中で。さっと体が膨らむように思われた。しかし言葉が見つからない。


「あの…」

「す、すみません」

男は言った。


「私、エマニュエル・スミスと申す者ですが、そちらで求人募集をされているということで…」

「ええ、募集しております」

「私も働かせていただけないでしょうか」

「エマニュエル・スミスさん、ですね。ではご住所と電話番号を教えてくださいますか」


それを伝えると、その相手は「それでは採用となりましたら数日中にお手紙で通知させていただきますので、それまでお待ちください」と言って早々に切り上げた。


あっという間に済んだ。男がぽっかりと穴が空いたような心地で携帯を閉じた。これだけのことだった。これで終わったのだ。自分が長々と渋っていたのは、そしてまた期待していたのは、このたったの1 、2分のやりとりだったぞ。鼻から笑いが漏れ出た。これで娘にも報告ができる。彼女はおそらく、これしきのことだというのがわかっていたろう。


「さて、では散歩にでも行くかな」

男はそうつぶやいて、家を出た。



いつもより気分がいいので、昼食も外で摂った。と言って、どこかの料理点へ入ったわけではない。コンビニで買ったスパゲティーを河岸ですすっただけのことだ。コンビニの書籍コーナーには経済の本がぎっしり詰まっていた。曰く『なぜアメリカ経済が崩壊したのか』『ウィルソン大統領の失策』等々。しかしそんなものを買って読むことのできるやつは、まだ幸せだろう。そう思って、男はまるでそれらを見なかったように歩いた。


川に着くと、赤レンガを重ねて作った橋が、キュッとすぼまったアーチを描いているのが目に入る。ずいぶん古いもので、長年の風化で黒ずんだりツタが飛び出て下まで長く垂れていたりするが、崩落する恐ろしさはこれっぽっちも感じない。マガモなどの水鳥が数羽、川の穏やかな流れの中を泳いでいる。男が近くにいても、一向気にかけない様子である。だから男も彼らに注意を向けなかった。


青い空が水にすっかり投影されて、雲も天地を等しい速さで走っていた。風が草を撫ぜ、男はそれに合わせて身震いした。ナイロンフォークでくるくると回して、スパゲティーを絡め取る。それを口に入れるとトマトの味がした。陽光はのどかで、ほんのり涼しい風も、全く自分を疎外しないように思われた。人は河原には見えず、反対側の河岸にはランニングをしている人がいた。半袖の服から飛び出した腕は白々と冴え、太腿に一切の余分な脂肪がなく、その人は同じ速さで、軽い足音を響かせながら、左から右へと移動する。それを若干迷惑そうに、車が少しスピードを落として追い抜かしていく。ああ、世界は不可逆的に流動を続けているはずなのに、一見すると反復を繰り返し、ややもすると停滞の形をとっているようにすら思われるのは、一種の慰めだろうか。


靴がチクリとする。そこを見るとオナモミの実が二つ付いている。それをむしり取るのは案外手間が要った。靴紐をしっかり噛み込んでいるのを引き剥がすと、指にトゲが当たって痛かった。それらを手のひらに収めて、手首をしならせて放り捨てると、狙い通りに水面へ落ち、かすかな波紋を広げた。それでも水鳥は驚かなかった。


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