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しぶき  作者: 師走
2/12

2

男は戸へと向かった。暗闇は部屋全体を覆い尽くしていたが、それは足の進みを何ら邪魔しなかった。あたかも泥棒のように、男はドアノブをひねって慎重に戸を押し開けた。暗澹とした男の部屋の中に比して、娘のいる方からは暖かな光が漏れ出てきていた。男は誘われるようにそこへ向かった。食器の置かれるコトリという音が聞こえた。


鍋が見えた。机の中央に、白い湯気が立ち昇る鍋が陣取っている。それは煮えた乳の音を奏でつつ、柔らかな香りを漂わせていた。

「シチューか」

と男は呟きながら手を擦り合わせ、いかにも期待した風に部屋に入った。

「そうよ」

娘は器に鍋の中から取り出したものを入れながら言った。人参の鮮やかな色と、白濁した汁の色が目に入る。男の前にその器を置いて娘はちょっと笑いかけた。

「ごめんね、具材があんまり買えなくてさぁ」

「あぁ、うん、十分過ぎるくらいだよ」

男はほとんど無意識のうちに、この食事を作るために使われた金のことを思った。そしてそれを考えたという事実に対して甚だ不愉快に感じたが、それすら顔に表さなかった。


「パンは公平に一人二つずつね。シチューにつけて食べるとおいしそうよ。こうやって」

彼女は小さなパンを掴むと、その先をシチューに浸し、ぱくりとついばんだ。そしてんんっと鼻を鳴らして右手で口元を押さえ、男の方を見やりながら、ふとうなずいて見せた。


続いて男も同じようにしてパンをシチューに浸してほふった。たちまちにして口いっぱいにその味が広がる。


「おいしい?」

娘が聞いた。


「もう、それは、おいしいよ」

「よかった」

娘は笑って、また食べはじめた。やや張り詰めたような視線が、そっと外れたのを感じた。

事実、料理は美味かった。具材が少ないと言っていたが、男には何一つ不足していないように感じられた。光の中にも次第に体が慣れ、悠然としていられるようになっていた。


彼女は着けていたエプロンに気づいて、今更ながらに外した。そして言った。

「そうだ、あのね、お父さん。今日学校の体育で高飛びあったの。そしたら先生がバーの位置をどんどん上げてさぁ。全くどうしてあんなに急いでたのかわからないんだけど、飛べなくなるところまで上げるわけよ。そしたら、それでもみんな頑張ろうとするんで、走り込んで行ってバーの前で立ち止まっちゃったり、やけになってジャンプしてバーを蹴飛ばしたりするの。特にニックって子なんか、思いきりバーに右足引っ掛けてそのまま仰向けに倒れちゃってね、その体めがけてバーが落っこちてきたの。それでみんな大爆笑」

「ハハ、そうか。先生もそれ狙ってたんじゃないか」

「あ、そうかもしれない。意地悪ね」

「本当にな」


男と娘は向き合った自分たちに隔てられた机一つ分の距離、そのわずかなよそよそしさ打ち消そうと、相手を見やったり、皿に視線を落としたりしながら話している。


「お父さんは、一日変わったこと、なかった?」


ハッとして顔を起こす。娘はうつむいてスプーンでじゃがいもをすくって食べていた。それからややあって、男が喋りださないの知るや、顔を上げて微笑んだ。


「いや、特にこれと言って…」

「じゃ、今日も部屋にこもりきりだったの?」

努めて茶化すような口調で、彼女は言った。数度小さく頷きつつ男はパンをほおばった。


「大変よねえ、仕事してる人って。会社の都合ですぐやめさせられたりするんだもん。学校なんて、やめたくてもやめられないのに」


彼女の顔が直視できなかった。責められていないことはわかっているのに、自分の犯している罪を、すでに明らかになっている罪を、さらに暴露されているような心地がした。


「えぇっとね」

娘はピクリと体を起こして服の中をまさぐり、小さな一枚のメモ用紙を取り出した。

「ねぇ、これなんだと思う?」

そこにはボールペンで10桁の数字が書かれていた。急いで書き写したものらしく、右下へ徐々に垂れながら羅列したそれを、間に配置されたハイフンが、電車の連結部のように辛うじて繋げていた。男は少し不安になった。


「これは…、もしかして」

そこで区切り、目尻を下げて「俺の新しい職場の番号かな?」と囁く。


「きっとね」

娘はうなずいた。


「でも、審査を通るのは望み薄だと思う。何しろ今は、どこも新しく人を雇うだけの余裕がないからね…」

男は言い訳するように言った。実際に、もういくつもの仕事場へ頭を下げて回ったのだ。しかし無駄だった。受け入れてくれる気配すらなかった。「残念だけど」と彼らは決まって言った。「うちも手一杯でね。どれほど人を削らなくちゃいけないかを常々検討しているくらいなんだ、新しく人を雇うだなんて」そして首を横に振った。

どこもかしこも人手不足でありながら、誰も雇い入れたくはないという、ほとんど矛盾した状況に苦しんでいる。経済は完全に破綻しているのだ。


「でもね、お父さん。これは違うのよ」

いつの間にか再び下を向いていた男に、彼女は身を乗り出すようにして力強く言った。もう二人とも何も口につけていなかった。


「これはね、国の救済政策の一つで、職を失った人たちに仕事を与えるための事業なの。この近くにね、新しくダムを造るんで、そのために何百万人もの人を募集しているのよ」

「へぇ」


そんなことが行われているとは全く知らなかった。確かに、そうであれば、自分も受け入れてくれるかもしれない。娘はその時やっと気がついたように、またシチューを飲み始めた。けれども、目線はこちらに向いたままだった。言外に「どうする?」と判断を求めているのだ。しかも彼女の期待は、間違いなく、男がこの情報を喜び、挑戦することを想定していた。


男はこの時、二ヶ月のうちに自分がずいぶん卑屈になっているのを知った。本来であれば、飛びつくようにしてすがらなければならないはずの条件にうなずくことを、渋る自分がいたのである。何に対して不満を抱かなければならないのか、男自身にもわからなかった。今まで経験がなく、また見下げてもいたような肉体労働にたずさわるしか道がないということに対する嫌悪なのか、国が今さらになってその場しのぎの工事を始めたということへの怒りか、それとも実は今までのように深く思い悩む生活のほうに満足していたのか、それとも何か別の生理的で根源的な理由によるものなのか、とにかく男はその魅力的な応募を請け合いたくなかった。けれども、果たしてこんな逼迫したときに贅沢が言えるものだろうか?


「なるほどね」

男は左肘をついて、唇を人差し指と親指で軽くつまんだ。

「それはやってみるっきゃないね」


「でしょ?」

娘はスプーンを皿に置き、舌で口周りを拭き取って言った。それだけでは足りず、ティッシュを一枚抜き取って口をぬぐう。


「明日、朝一に電話をかけてみよう。もう募集はかかっているんだろう?」

「えぇ、まぁ、多分……」

そこで彼女は、自分の仕入れた情報に不備があったことに気がついたようだったが、曖昧にうなずいてみせた。しかし電話をかけるのが早すぎるようだったら、期日を聞くなり調べるなりしてその日まで待てばいいだけのことだし、とりあえず通話を試みるのは損にならないだろうと思われた。


「ありがとう。じゃ、やってみるよ」

男はそう言って無理にウインクしてみせた。

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