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しぶき  作者: 師走
11/12

11

何か大きなものから引きずり出されるように目を覚ました時、部屋は真っ暗になっていた。男は目を細く開け、また閉じかけて、再び見開いた。自分が本当に眠ったのか、長い瞬きをしていたのかすら確言できないほどの、呆気ない覚醒である。


彼は無意識のうちによだれを口の端でズッとすすった。いくらかベッドの上にも垂れ落ちている気配がした。次に鼻から息を長く吸って胸をいっぱいにすると、肘でベッドを押しつけて上体を起こした。左足はちょうど、足首より向こう側の、まだ脱いでいない靴だけを几帳面に外に出していたが、右足は靴のまま布団につま先が食い込んでいた。暗がりの室内とは言え、男の目は先ほどまでさらに瞼と言うフィルターを通して暗闇に慣れていたから、自分の体の状態を視認することは難しくなかった。


頭が重たかった。若干苦しげに男は息をした。体が一向に休まっていない。苦々しく立ち上がると、すぐに彼は、寝ていた自分が上着を脱ごうともがいていた痕跡を見つけた。服の首元が開き、襟が引き下がっている。激しく首を掻いたのかもしれない。そう言えば、シャツの下端がべっとり汗ばんでいる。股間が蒸れている気もした。悪夢でもみたのだろうかと考えたが、麻痺が残る頭で思い返すに、何一つとして、どんな風景のかけらとしても、夢は記憶の箱に残されていなかった。


部屋を出るとすぐ、男はおやと思った。居間の明かりがついている。男は何も考えずにそこへ向かった。田畑のそばに設置された誘導灯に誘われる蛾のように。すると、やはり娘がまだ起きていることが知れた。彼女は背中を猫背に丸めて、ノートに鉛筆を走らせ、かと思えば消しゴムで力強くそれを消した。肘を直角に曲げ、肩をいからせて、左手で押さえつけたノートに消しゴムを擦りつけると、ふーっと消しカスを吹き飛ばす。そしてこちらを振り返ると、緩く微笑んで、ふと掛け時計を見た。


男もそれに続いて眺めやると、今が11時40分前であると分かった。

「随分早かったのね」

娘はからかうように言った。

「疲れてるだろうに、朝はまだ先よ?」


それから彼女は腰を浮かせて、「どうする?晩ご飯食べる?」と聞いた。

男はそれを聞くと慌てて「大丈夫、自分でするよ。チンするんだろう?」と言って、冷蔵庫へ向かった。


顎にちらちらと伸び始めた髭を撫でつつ、どうやら娘はすっかり立ち直ったらしい、と男は考えた。しかし、彼女に背中を向けていると、どうも見られているように感じて、振り返りたくなる。けれどもきっと彼女はこちらを向いてすらいないのだろうし、もし目が合ったところでどうだというのだ。自分の警戒が仇にならなかったと喜ぶのか?それこそ馬鹿のやることだ、しかも「警戒」だなんて。


男は食器棚のそばを通りしな、深さのあるガラスコップを掴み取り、冷蔵庫の扉を開けて、まず牛乳を引っ張り出した。それをとくとくと注いで、置き場所に戻しながら、じっとりと眼を上下させて、夜食を探した。


それは、すぐに見つけられた。弁当箱としてタッパーに入れられていたのである。そのタッパーには小さな黄色い付箋が貼られていて、「父さんへ」と書かれてあった。男は手を伸ばしてそれに触れた。タッパーに静電気でも溜まっていたかのように、指に痛みが走る。娘はこんなに男のことを考えて、弁当まで用意して待ってくれていたのだ。遅いな、いつ帰ってくるのかな、と待ちわびて、男の帰宅を知るや、まるで名前を呼ばれた忠犬のごとく飛んで行き、そしてそこでいじめられて泣いたのである。


また同時に男は、帰りが遅くなることを昼のうちに携帯で知らせなかったことを悔やんだ。娘は昼の間から、料理を余分に作って待っていたのかもしれないのだ。彼女の性分からして、それは間違いなかったろう。では昼も夜も、不在の男のために余分に調理したのだろうか。そうすると、一食分どうしてもはみ出ることになるが……。


そんな悲観的な想像を、それが想像に過ぎないからという理由で掻き消す。そもそも、それはあまりに非合理的な考えだった。昼に作った食事が男に食べられなかったとしたら、それを作り置いておいて夜に回すはずだ。つまり、この弁当は夜作られたものでないのだ。そう考える方が適当ではないか。


弁当箱はずしりと重かった。手首がその重さにつられて下向いたほどだ。中身には相当な量が入っているらしい。男は蓋を外した。すると、大きなオムレツがデンと中央に居座っていて、周りにレタスやミニトマトがぎっしり詰め込まれているのが見えた。


「これは…、凄い迫力…」

「でしょ」


娘に聞こえる程度の声で漏らした感想に、彼女は即座に応えた。そしてやや得意げな口調で、「結構作ったから、あんまりチンする時間が短いと中まであったまらないかもしれない。7、8分ぐらいすれば絶対ほかほかよ。まずチンの前に周りの野菜を食べちゃってさ」と言った。


「分かった、そうしよう」

男は返事をして、ミニトマトのヘタを摘み上げ、くるくる回した。ケチャップや油がこびりついているのが、素早く回転しているうちは誤魔化されて、真っ赤な実に吸収される。それを口の中に放り込む、と意味もなくそれを舌で弄んで、僅かにざらついた触感や、オムレツから飛び火した塩辛さを感じる。噛むと思った以上の抵抗があって、皮がぐにゃりと潰れ、種を包んだゼリー状の汁が飛び出して酸味を加えた。


フォークでサニーレタスを引き出して、蓋に置いていく。オムレツの下敷きになっているものも、千切れることなくまとめてずるりと出てきて、一箇所へ積み重なった。赤紫色の上端が波打っていて、今にもつまらない冗談を言ってきそうな気がする。次いで電子レンジの大きな口の中へ、オムレツをただ一つ残したタッパーを入れる。すると合図するように、カタ、と置き皿が鳴る。それを聞いた直後に、ラップで覆わなければ油が跳ねるかもしれないと思い当たって、キッチン用具入れの引き出しを開け、緑色の細長い紙箱へ入ったラップを取り出す。娘がノートをめくる音が聞こえる。


機械的な手つきで、銀色の刃がギザギザと尖ったところへ、適当な長さに伸ばしたラップを引っ掛けてちぎり取る。しかし力加減がうまくいかなかったようで、それは半ばあたりでぐしゃっと引き寄せられ、深いシワがついた。男はため息を歯の間から漏らして苦笑し、くっついてしまったラップを慎重に引き剥がす。親指と人差し指に軽く挟まれたラップは、その努力を嘲笑うかのように柔らかく裂けてしまったが、彼はそれでも苛立たず、さらにラップを引き伸ばして、今度はもっと意識してちぎり取ったために、被害は最小で食い止められた。


娘はこの一連の小さな騒動を気づいたろうか、と男は幾度か食卓を見やる。彼女はじっと下を向いてテキストを読んでいる様子で、こちらを見てはいない。惜しいな、はたから見れば悪くない小喜劇だったろうに、と無邪気に思いつつ、その歪な形をしたラップを両手で持ってレンジの中へ突っ込み、タッパーを覆う。それから前に倒れていたレンジの扉を閉め、つまみを7分あたりに合わせた。オレンジ色の電球がすぐに内部で点灯し、起き皿が回転を始め、ブーンと音が続く。


男はコップを手にして牛乳をちびちびと飲み始める。この白い液体が、真っ赤な食道を滑り降りて、ゆくゆくは自分の血肉になるということが、とてつもない不合理なことのように感じる。この白は白い色のまま、体の一部を上塗りしてしまうと考える方が自然なのではなかろうか。しかし経験から言って、牛乳の白さはしばし舌を染めはするけれど、食事を終えたのちに歯を磨こうと鏡台の前に立った時には既にどこかへ立ち退いていて、やっぱり赤い血の色が喉の奥までを貫いている。


食事ができるまでの、沈黙の待ち時間の苦しみは朝とほとんど同じく、むしろ増加して男にのしかかってきたのであるが、男は自分で自分に悠然としているように命令した。たったの7分ではないか。トイレにでも行っているうちにすぐに経つさ。


そう考えて、男が廁を目指して歩き始めた瞬間、今まで机に向かっていた娘が突如として体を180°曲げて振り返った。まるでばね仕掛けの人形のような強い勢いで体を捻ったのだ。ちょうど彼は、娘の後ろを通ろうとしていたのである。娘の座っていた椅子が蹴りつけられたように斜めにずれて、ギッと深い音を鳴らした。その反応に驚いて、男も立ち止まった。踏み出しかけた左足の爪先にブレーキがかかり、ふくらはぎと太腿が突っ張った。


…ああ、この時娘を支配した感情は、彼女にこんな行動を取らせた感情は、恐怖だったのであろうか?しかしそうだとしても、彼女は、なんという純真な顔つきをしていただろう。顔のどこにも無理な力が入っていない、自然すぎる表情。無表情の硬さすらなく、ただ、男の取る行動に極端に好奇心を燃やした研究者のような眼差しで、彼を見つめたのである。その眼差しは私意が全く欠如した、どこまでも客観的なものであった。


束の間、男は息をするのを忘れていた。そしてまた娘の呼吸も止まっていた。二人は互いの眼の黒点を覗き込み合い、そこに吸い取られてしまったかに見えた。自分の体に比して、その黒点がどこまでも広がっていき、双眼は日蝕のように融け合って、とうとう真っ暗な塊とへと変貌する。それは自らを抗いようもなく包み込み、理由もなくそのまま押し潰すのだ。


正確に数えれば、二秒ほどの出来事だった。しかし無論、当人たちには、その時間は無限に引き延ばされたはずである。それは、小さなはずの目玉が無限に膨張する様とちょうど一致している。だが、娘はその無限の時間において、終始その顔を変えなかった。エンバーミングされた表情のまま、自己の内面に起きた激しいうねりを、すっかりやり過ごして、男を観察し続けた。


ここで著しい変化をきたしたのはむしろ男の方である。彼は初め何らの感情をも顔に込める余裕を持たなかった。この点で、彼の表情は娘のそれと一見似通っていたと言える。けれど、そこに隠しようのない、小さな緊張が含まれていたのだ。




ーー

昨日夜7時に書こうとしていたら、ちょっと意識を眠りに持ってかれてしまって、次に眼を開けると11時53分という絶望的な時間になっていた。で、一応そこから遅れてでも書き始めたが、二千字を超すとどうも書けなくなった。はて。だからこうする。今は2345字らしいから、一日800字以上を明日から三日続ける。

11/9 追加

11/10 追加

11/11 しばし待て

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