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紺色のカーテンの閉まった、薄暗い書斎。窓辺に置かれた揺りかご式の木の椅子は、用のないことを恐れるように、茶色のコートが掛けられている。茶色とは言っても、背中の多くの部分は日焼けして色が薄らぎ、クリームに近くなっている。
それから、少し離れたところに背の高い本棚が二つ、横長に連ねられている。右の本棚はぎっしりと辞典などの分厚い本が埋まっていて、一分の隙間もない。最上段左端の本にはこげ茶の背表紙に赤い皮が貼り付けてあって、そこへ金地で「De l'Esprit des lois(法の精神)」と書かれてある。ただ、これらの本はほとんど棚から抜き取られたことはない。なぜなら、この家の住人は難しげな言葉や法になど、欠片の興味も抱いていないからである。ではなぜこの類の本があるのかと言えば、それはせっかく本棚があるのだから、空間はなるべく埋めなければならないとした、いかにも消極的な理由からであった。
そのような訳であるからもちろんこれらはわざわざ購入されたものではなく、亭主の祖父が死んだ折に、蔵書家であった彼の部屋からめぼしい書物を持ち込んできたものである。だが、右の棚はそれで積みきってしまっても、二つ目の棚はもはやそういう虚勢のようなものも効果を失い、棚の半分ほどで本の群は切れている。一昔前流行った物語の本が先陣でいくつか固まって横倒しに倒れ、そのお陰で後続の書物群のバランスは、やや傾いたまま保たれている。
そんな部屋の中で、ある男が今………、今でさえと言うべきだろう。もう長い間、机の端に斜めに走っているほんの小さな亀裂を眺めている。彼は剃り残した無精髭を顎の下にちらちらさせて、明かりのない書斎にこもっている。この男こそが、書物を引き受けた亭主であろう。
男は虚な瞳をただ一点へ投げやったまま、肘を突き、時折ため息をついている。この様子から察するに、どうやら何か悩みがあるらしい。誰だって傍目から見ていればそう思うだろう。そんな横顔であった。
事実、彼には悩みがあった。解決しようにもどうすることもできないような、大きな障壁を心の内に抱えていた。しかしこの時世、彼のように苦悩に沈んでその日を送っている人間はざらにいた。未来はまさしく闇めいていて、どれほど思慮しようが巧い手立てなど見つからなかった。それでも男は考えるともなく考え、突然指を伸ばして、その机の傷に触れてみたりする。よくよく彼にはやることが尽きていると見える。
彼の胸の内の洞穴と共鳴するように、彼の生活の時間もまた、不自然にえぐられている。そしてその始まりと言うべき場面を、彼は頭の中で幾度も反芻し、決まって中途で消してしまう。その度に、灰色の靴下を履いた右足が、爪先を起こしたり寝かしたりを繰り返す。
「エマニュエル君。君に、残念な知らせがあるんだ……」
もう二ヶ月前のことになる。珍しく個別に声をかけられて、職場の社長室へと呼ばれた男は、もうこの時点で辛い宣告の粗方が理解できてしまい、表情を曇らした。
社長はそういう男の反応には気づかぬ様子をして、まるで自分語りを聞かせるように、とつとつと話した。
「昨今の世界的な大不況は知っているだろう?あの波がだねえ、もちろんこの会社にも例外なく襲ってきたわけなんだ…。私たちも、これまで我慢強くやってきたんだが、どうも雇用者数をある程度絞り込まなければ、経営が立ち行かなくなってしまう。それで、非常に辛い決断になるのだが、早急に人事整理をしなければならなくなった。大量解雇もやむを得ない状況だ。そして君もまた然り、解雇する運びになったのだ。突然の知らせで済まないが、受け入れて欲しい」
男は、黒椅子に座った社長が両手を組み、親指をもぞもぞ擦り合わせながらそう言っている間、意味もなく卓上の青銅製の馬の文鎮を見ていた。高らかに前足を上げ、口を開き、身をよじって地を駆ける馬は、その瞬間を切り抜かれて、永遠に静止している。
「…エマニュエル君」
社長は俯いたまま押し黙っている男に声を掛けた。
すると彼は自然に唇からこぼれたように「僕と同期の中に、会社に残る人も、あるんでしょうね」と自虐めいた口調で言っていた。
それを聞くや、社長は親指の運動をぴたりとやめ、顔を傾けて目を伏せた。そして鼻から深く息を吐き出して椅子から立ち上がり、男の傍らに近づいた。
それから慰めるようにこう言った。
「確かに今回解雇をね、されない人もいる、いるかもしれないが。いや何、それは君の技量が不足していたからでは毛頭ない…。私は君のことを本心から高く評価している。だけれども、もうこれは運と呼ぶしかないのかな。人間にはどうすることもできない、言ってみれば神の御意志で決まったことなのだ。私も悔しいし、君のような人材を失うのはとても惜しいのだが」
分かってくれるね、と釘を刺すように男を見つめて社長は言った。
それから男と社長はまだいくらか言葉を交わし、退職金と称せられた慰み程度の金を渡され、部屋を出て……と、ここまで流れを思い出し、再び嘆息する。男はこれ以上先を思い返すことはできない。あるからもう二ヶ月!彼は家にこもりきりで同じような暮らしを続けているのだ。
机の前で、思い詰めたように俯き、悶々と思考を巡らせる。もはやそれ以上にやれることもなかった。考えるだけでは解決できぬ問題を、それと知りながら、なお考えている。ともすれば男は、自分が精一杯悩んでいることで、どうにもできない自分を正当化しているのかもしれない。
カーテンに当たる光が一層弱まり、青黒い光が透けている。時刻は既に夕方に迫っているらしい。男は手を頭の後ろで組んで、憂いげに背中を椅子に預け、ぐぐ、と体を反らせた。
机の向こう端に、壁に立てかけられて一枚の小さな写真が、額縁に収められている。それは時折男が取り上げるので、埃が積もることを免れている。男はそれに目をやった。その中には、三人の男女が寄り集まって笑っている。背景は一面明るい黄緑の芝だ。ゴルフ場で撮影されたものだから当然である。しかしこの写真に映り込んでいるこの家族は、もはや現実のものではなくなっている。無論、この写真の中央には男によく似た人間が白い歯を見せている。パットを傍に携えて、腕を左右に伸ばし、二人の体を抱いている。だが既に彼は死んでしまった。過去は過去として、もう二度と戻っては来ないのである。
目はよほど暗闇に慣れているらしく、男には写真の中の顔の皺さえ見分けることができた。そして試すように、自分の顔に触れてみる。水気の損なわれた肌に、点々とした髭が突き刺されたごとく伸びている。やはり私は、この男と同一ではない、と、そのようなことを思う。
その時ガチャリと、小さな、極めて小さな音がして、家の扉が開かれた。男は機敏に顔をそこへ向けて、口の内で「帰ったか」と呟く。
足裏に体重が一寸かかる。立ち上がって迎えに行こうとしたのである。しかしそれは実行されなかった。男は自分の体が動かないのを知るや、ちっ、と舌打ちをして唸った。そして先ほどより一層いまいましげに眉をひそめて俯いた。横向きに準備されていた膝が戻り、尻に伝わる重みが増す。
しばしの静寂が残る。先ほどと変わらない、だが、家に自分以外の人間が忍び入った、不安げな静けさである。もしかすると、今この部屋の戸の向こうで、息を張り詰めた彼女が立っているのかもしれない、と思えてきた。ノックしようと伸ばした拳を固めて、「ただいま」とそれだけを言おうかどうか迷っているのではないか。
ちっ、とまたしたたか舌打ちが鳴る。それは、自分のことを重ねて恥じ、恨めしく思う心の現れであった。自らは出迎えを拒絶しているのに、向こうからやってくることだけを淡く期待する傲慢な態度にほとんど憎しみに近い感情を覚える。それでも男は表では、全てに気がつかぬように装って机の傷を見ている。
結局、彼女から声が掛けられたのは、それから三十分以上も経った後だった。男はその間、まんじりもせずに椅子の上へいて、次第に黒くぼやけていく自らの輪郭を感じていた。
「あの………、お父さん」
わずかに震える声で、彼女は言った。
「ご飯ができたの。来れる?」
声は大人しく、けれど一枚の扉など全くないように響いた。きっと、娘は限界まで戸に口を近づけて話しているのだ、と思った。
「ああ。すぐ行くよ」
男も戸へ顔を向け、笑いかけるようにして応えた。こうでもしなければ、明るく返事をすることすらできそうになかった。
それを聞くと、娘はじゃあ、と言い流しつつ、また居間の方へ向かっていった。
男は微笑みをたたえたまましばらくそのままの格好で固まっていたが、またゆっくりと前へ向き直った。頬に不自然に力を入れたまま、闇と対峙する。正面にある、写真立てを意識しつつ。
突然、彼は下から上へ髪をいっぺんに掻き上げた。それらは前髪から徐々にパラパラと跳ね返り、頭皮に小さな刺激を走らせる。胡椒よりさらに小さな何かをひとつまみ擦り落としたような刺激を。そして両手は頭頂を越え、後頭部を滑り、首へ至った。ここが終点だ。男は浅く息を吸って、弾みをつけて上体を起こし、体が止まってしまわないうちに立ち上がった。
長らく椅子の上に座りっぱなしであったから、体はもはや着席の姿勢に適応しており、立つとかえって体の節々が痛んだ。腰骨が軋み、下半身がジンと痺れた。それはまるで座っていることのみが体を保ちうる唯一の手段で、それ以外の全ての行為は自傷に繋がるのだとでも宣告されているようだった。
男は胸を張り、首を右へ傾けて背筋を伸ばした。顔は歪み、苦悶とも快楽ともつかぬ表情になる。しかしそれは束の間のことで、男の体から力が抜けると、風船が萎むように体は縮まり、細まっていた眼は開かれた。