序章 現実
『夢か、現か、体験した人でないと分からない。ましてその間にある状態ならなおさらだ。』
『目の前に描かれていくものは、すべてが本物とは限らない。本物とは、その時代のある社会でしか通用しないのだ。つまり、本物か、偽物か断ずることはできない。それを身をもって知れ。』
内藤育弘の脳内に響き渡る声。何も見えない。誰もいない場所に取り残された育弘の耳には確かに聞こえる声。その声は少しずつ遠くなっていく。
「誰か、おーい、誰かいるのか。」
呼びかけてみても返事はない。どこの誰からの声なのか、気になってはいたが、そんなことよりも誰もいないこの空間を満喫していたい気分になった。都会の喧騒を忘れさせる。そんな魅力的な空間を堪能しているのもつかの間、育弘の心がざわわと波立てられる。
「・・・さん。ない・・さん。内藤さん。利用時間とっくに過ぎちゃってますよ。早く受付に急がねば。」
育弘は内心腹を立てながら目を覚ました。と同時に思い出した。仕事帰りに、最近疲れが取れない悩みを後輩に打ち明け、連れていかれたカプセルホテルで酸素のエキスを全身に浴びることになっていた。ついつい眠ってしまったのか。そそくさと受付へと駆け出し、料金を支払う。2時間で10万円。
(はぁ。こんなに価値のあるものなのだろうか。10万なんて。)
そんなことを思い、財布から何の変哲もないクレジットカードを取り出し、一括払いでホテルを後にした。
この世界は20X2年の東京。どれだけの時がたっても首都は首都で、人があふれている。世界的に広まった妙なウイルスのパンデミックはいつ起きたのだっけ。たしかオリンピックが開催されたときらへんだっけ。若者はその出来事を実際に体験していない。社会のうねりは確かにあった。しかし、彼らが経験してきたものは面白みのない”安定”した世の中だった。世界の紛争は一時停戦をし、どこからかのミサイルが飛んできたなどののニュースもなく、ニュースを騒がすものは芸能人のゴシップかご近所トラブルである。そのため、昔よりも平和ボケをしている人々が増えた。
育弘の社会に対する認識も同じものであった。大学を卒業後、中小企業に就職をして1年が経っている。給料は手取りで40万円ほど。決して悪くはない数字なのかもしれない。
「まったくウキウキしないんですよね。だって週6の8.5時間働いているのにこれだけって、もう日本脱出案件です。」
後輩は給料日の1日前に、かならずこの言葉を口にする。一方、育弘は何も感じていない。それは満足しているのか、変えられない現実に憂いているのか、傍からみて悟らせない。
家路を急いでいると、こちらに空き缶が転がってきた。その方向を見ると、身なりがなっていないおいぼれと目が合った。おいぼれの足元には紙で作られた箱が置いてあり、その中には栄一が2枚入っていた。
育弘は通り過ぎようとしたが、ばつが悪くなり栄一を1枚、紙箱に差し上げた。おいぼれからの感謝の言葉も顧みずに、その場から立ち去った。
家に着くと何もする気が起きなかった。とりあえず体を洗い、風呂に入る。体を清めた後に飲む牛乳は最高だが、その気にもならない。どうも頭に引っかかっている言葉がある。その言葉も思い出すことはできない。何もかも嫌になって布団を敷いて飛び込んだ。カプセルホテルであれだけぐっすり寝たのに、余程疲れていたのか、すぐに寝てしまった。