「の」の字 後編
脱力して直立不動のわたしの両腕をガッシリ握りしめ「しっかりしなさい!」と前方に後方にと「がくんがくん」体を激しく揺さぶられるのを一生分に纏めたような、すっごい衝撃がして、ハンドルの中央が破裂し中から風船が飛び出し「いったぁーい!」と、はしたない奇声を発してしまったが許して欲しい。
本当に火が出るほどに顔面が痛いのだ。
世界レベルのエース・ストライカーのシュートを至近距離で顔面ブロックするような、見ただけで痛いってわかるレベルの痛みだ。
そして「ギャャャャャャ!」だ。
助手席を突き破り恨みがましい目でこっちを見ている血だらけの猪が怖いのだ。
舌がダラリと垂れ完全に「イッちゃってる」感じだ。
わたしの口の中もヌメヌメと鉄の味がして五感全てが気持ち悪い。
もう諦めよう。時間がない。
わたしが愛していたのは貞淑な妻を演じる自分であって旦那様ではなかったのだ。だから、わたしを信じて疑わない旦那様を信じることも出来ず、こうやって自己保身に走ったのだ。なんてバカな妻だろう。
ハンドルにもたれ弱気になっているわたしの鼻孔を猛烈な臭気が襲った。まるで、今までの罪を罰するかのような臭いだ。鼻血で塞がっているにも拘らず暴力的にグイグイ押してくる。その暴力性に感化されたのか「こんなとこで立ち止まるわけにはいきませんわ」と顔を上げる。
自分の事も愛してるが、旦那様の事も愛してる。だから守りたいのだ。ずっと一緒にいられるように日々努力しているのだ。
走らなければならないのだメロス。自分を信じる人がいるなら。自分が出来る事を精一杯やるしかない。
アクセルを踏むと車の前方から白い煙がモクモクと上がり、フロントガラスの砕け散った部分から煙が進入して視界がどんどん悪くなってくる。
風の入り口があるなら出口を作ればいいのだ。換気ね、換気。窓の開け方くらい知っていますよ。ってドアにボタンありすぎ。飛行機のコックピットかよ。これ以上下手にボタンを押したら、絶対に悪いことが起こる気がする。
もう触らない。古来より「触らぬ神に祟り無し」って言うもの。でも神様なら祟るなよ。と思うが、神様も勘に触ると怒るらしい。それも普通の怒り方ではなく「祟る」のだ。
陰険でマックスの怒りを感じてしまうところが怖い。
神様のクセに器が小さいと言うか、それで良く自分は神などと大そうな看板を掲げ商売できるとは、度胸が良いと言うか、肝が据わっていると言うか。厚かましい気がする。
器は小さいくせに態度は大きいと言う、どう考えても人望のないダメな人を想像し、いささか疑問に思ってしまうが人はこれを信仰し、崇拝し、祭り上げ。参道の商店。露天商は人で賑わい。むしろ、そっちがメインな感じになっているから、そりゃあ怒りますよねぇ。神様はオマケみたいな感じですものねぇ。
などなど思い馳せながら騙し騙し運転をしてとりあえず到着。
「あの、すみません」
「なに?」
刺々しい返事に、この短い時間で嫌われてる感じがする。
「あのー、お願いがあるんですけど」
「だからなに?」
「一時間後に自爆して下さい」
「お前がな」
「そうですね。おつかれさまでした」
「お前は二度と私に乗るなよ」
「はい」
プレイのPにしたら「ボムッ」と音がして濃い白煙を吐き出しエンジンが止まった。獣とAIがご臨終したようだが、わたしは無事なので、まあ、どうにかセーフってことにしよう。
何事もなかったように帰宅すると、湯殿からドンドン扉を叩く音がしている。
時折、綾子コールも響いている。
ああ、不味い。急いで湯殿に駆け寄り息を整え「どうか、されました?」と、白々しく声をかける。
扉を隔てた向こうから旦那様の声がする。
「ああ、綾子。良かった気付いてくれて、さっきから出ようとしてるんだけど、扉が開かなくてさ、そちら側から一緒に引いてくれないか?」
「あら、大変ですわ。古民家ですから建て付けが傷んでるんでしょうかね?その前に旦那様、あの、炊飯器のボタンを押し忘れてしまって、ご飯が炊き上がるまで少々お時間が掛かるかとごめんなさい」
扉を挟んでなら素直に謝れるものだ。面と向かっての謝罪は恥ずかしく照れくさい。
「大丈夫だよ。ああ、だったらさぁ。たまには外で食事する?」
「えっ」
「毎日朝食作って夕飯も作って大変でしょ。たまには外で夕食もいいじゃない、そう言えば結婚してから一度も外食してないよね。そうしようよ」
それなら、最初に謝れば良かった。
隠蔽などと言う姑息な手段を用いたばかりに、今や旦那様の自家用車は原型を留めていないただの鉄屑。しかもハイエンドな香りのする猪が助手席のフロントガラスから運転席を恨めしい目で見て乗っているのだ。新進気鋭の現代アート顔負けの斬新さで庭に放置してあるのだ。気が付くのは時間の問題だが、AIも死んだし今のところ、わたしが運転した痕跡はないはずだ。
そして明日になったら、やんちゃな森の動物のせいにすればいい。
なんなら夜中に火を着けて谷底に落とせばいい。
つっかい棒を外し脱衣場の引き戸を開けた。
わたしとしては外出するには、それなりの衣装と化粧と言った身支度が必要だ。との意を込めて「あの、その、この顔では」と申し上げたら、「うわっ。大丈夫?いや、大丈夫じゃないよね。完全に大丈夫じゃないよね。まず、その鼻血をどうにかしないと。って言うか何してたの?僕がお風呂に入っている間に何が起こったの?まさか強盗にでも遭ったの?」と、大変慌てふためいている。
「あの、その、さっき高いところにある物を取ろうとして、取りたい物には、どうにか届いたのですけど、その上に、とてつもなく重いものが載っていまして、それがスライドしてきて顔面に直撃してしまって、こんなことに」
「大丈夫?鏡見た?」
「まだです」
「自分の想像以上に他人を不安にさせる顔になっているよ」
「そんなに?ですか」
「そんなにだよ。なにか買ってくるから休んでなよ。なんか絶対安静とか面会謝絶とかの言葉が似合う感じになっているよ。頭とか痛くない?病院に連れて行こうか?」
「大丈夫です。お言葉だけで十分です。その気持ちだけで」
「本当に大丈夫?だったら美味しい焼肉弁当のある店があるからさ。あれを買って来よう。うん、そうしよう焼肉が食べたくなった。あれは一度、綾子に食べさせたいと思っていたんだ」
「大丈夫です。本当に。焼肉弁当は次の機会にして、二階の書斎で読書でもされてお待ちください。わたしのことを好きならそうしてください」と、旦那様の背中を押し書斎の方に足を進める。
「そう。本当に大丈夫?綾子がそう言うなら、そうするけど。綾子。僕のために無理しなくていいんだからね」と、顔だけ振り返りつつも、わたしに押され二階の方に向かう。
こんな優しい旦那様を持って幸せ。この幸せな結婚生活を維持するためならなんでもする。その前に肉が必要だ。焼肉が食べたい旦那様がいるもの。
しかし肉は全て変な煮物に使ってしまった。
車を廃車にし、旦那様の所望する惣菜も作れないとは妻失格だ。
明朝荷作りを済ませ、身支度を整い帰省。実家の両親になんと説明すれば良いのだろうか。坂根さんの所のお嬢さん、半年で出戻りですって、三下り半つきつけられたそうですわよ。などなど外出するたびに近所の方々に後ろ指を差され両親にも迷惑をかけてしまう。そしてインターネットサイトの匿名掲示板にて痛烈な批判に晒されてしまうのだ。
そうだ。肉。ありますよ。新鮮な猪の肉が。江戸の頃より滋養強壮に良いとされる猪肉が。
納屋に飛び込んで、完全防御のフード付きレインコートを装着し、頭にヘッドライトを巻き、腰のベルトにはナイフを数本差して、厚手のビニール手袋を嵌めナタと荒縄を持ち、長靴を履いて完璧だ。
小一時間前まで虫も殺せない女だったのに。可憐な妻だったのに。一時間後に猟奇殺人犯みたいな妻になっているとは、ごめんなさい旦那様。
助手席の猪の後ろ足に荒縄を括り付けて、引っ張ってみたがビクともしない。
新婚生活半年で愛想をつかされ放逐されるは末代までの恥と思い「えい」と力を込め思いっきり引っ張ったら、こう言うのを火事場のクソ力とでも言うのだろう。
「ドガ」っと猪が地面に落ち、それを近くの小川まで轢き摺り、青い月明かりと満天の星空と言う、なんともロマンチックでメルヘンな月光の下でナイフなどを用いて猪の解体を始める。
内臓を傷つけ無いように捌かないと、出てはいけないあれやこれやが噴出し凶暴なくらい臭うらしいので慎重に皮を剥いでいくが、そんな事が素人に出来るわけもなく、血みどろになりながら「奇跡なんてねぇ、待っていたって起こりはしないのよ!」なんて誰かが言っていたが。全くもってその通りだ。
先ほどまで清らかだった川の水が、どんどん黒ずみ邪悪な色に染まっていく。
これで米を切らせ車を廃車にした失態を挽回できるなら、なんだってやってやる。かなり凶悪な女みたいだが、ここは凶悪な女の役になりきるほかない。この川の水も、やがて清らかな水に戻るように、この役を演じきってまた可憐な妻に戻るのだ。
ヘッドライトに照らされた猪の背中の肉。いわゆるロースとか言う非常に高価で美味な部位を大胆に切り落とし、両手に抱え小川で肉を洗い、尚且つ血だらけのレインコートを慎重に脱ぎ捨て、台所の勝手口から何食わぬ顔で肉を持ち帰り、お米をライスストッカーに補充した後、二合の米粒を研ぎお急ぎ炊飯ボタンを押し、猪肉を包丁で適度な厚みでスライス。
新鮮な生肉を皿に盛り付け、ホットプレートを用意し、自室に戻り、姿見に写る自分の容姿に倒れそうになったがどうにか堪え、敏感肌用クレンジング剤を用いて洗顔をしたら、多少額に腫れがあるものの前髪で隠せば問題はなく、入念に化粧を施し西洋の芳香剤を全身に振り撒いて血生臭さを相殺。
身支度を整えたら、姿見の中に小一時間前の虫も殺せぬ可憐で貞淑な妻がいた。完璧だ。安泰だ。イーサン・ハントも裸足で逃げ出すような困難なミッションを成し遂げ小さな世界を守ったのだ。
旦那様の書斎の前で声を掛けて襖を開けると、旦那様は袖捲りしたワイシャツの片方の手を窓の縁に掛け文庫本を読んでいた。少しクセのある髪と縁なしの眼鏡が文学青年のようでステキだと思う。
こちらを向いて本を閉じ「大丈夫かい。綾子」と優しく声を掛けられる。
「平気ですわ」と微笑み返し一緒に階段を下り食卓に向かった。
肉の焼ける匂いがする。
明日は一日弔いの儀式をして万物の生命に感謝しよう。
「綾子。これ、すっごく美味しいんだけど、本当に。今までの僕の人生の中でナンバーワンの肉だよ。これは美味いよ、いくらでも食べられる。焼肉弁当の百倍美味い、僕は幸せだぁ」など、褒められ、喜ばれ、満面の笑みを見てると、照れくさくうつむいてモジモジしてしまう。
「これ、なんのお肉なの?豚よりも野性味があると言うか、でも臭みもないし、鶴姫万年堂で買ったの?どこで買ったの?ほら、綾子も食べなよ」と薦められたが、箸が進まず畳の上に「の」の字を作るばかりのわたし。