「の」の字 中編
庭先に旦那様が通勤に使う車がある。
本物の自動車に乗ったことはないが、幼少の頃に遊園地でゴーカートに数度の乗車経験と、ゲームセンターでドライブゲームなるハンドルを操り、アクセル、ブレーキを踏むと言った疑似体験もしたこともある。マリオカートではキノコカップを優勝した腕前だ。つまり全くの初心者ではない。
米国では児童が親の自動車に乗りハイウェイを疾走していた。などと言う驚愕の記事を何度か読んだこともある。米国の児童にできて大和の国の撫子にできないはずはない。
湯殿の脱衣場の引き戸につっかい棒をすれば、非力な旦那様を三十分は閉じ込めておけるだろう。
その間に車を走らせお米を買って帰宅。できる。わたしならできる。安泰な夫婦生活の為にもやるしかない。
湯殿から聞こえてくる油断した音に安心しながら、引き戸につっかい棒を設置。
下駄箱の上に置かれた車の鍵をこっそり持ち出し車に乗り込む。
旦那様の車は高級セダンとか言う立派なもので大きい。ガードレールのない狭い山道を通る時など道幅ギリギリで真下が崖と言う場所もあるので、もう少しコンパクトサイズの車にして欲しい。
確か右がアクセルで左がブレーキだ。だから右足はアクセルの上に置いて、左足はブレーキの上に置く。そうするとかなり足を閉じ前のめりになってシートの先端にかろうじて座っている状態になり、不安定極まりない。
車は大人が運転する設計になっており150cm満たない、わたしが運転するようにはなっていないのだ。
しかし、もっと好ましくないのはエンジンの発動方法がわからないことだ。
これではカーディーラーに赴き展示されているピカピカの車両に乗り込み、なるほど、なるほど、これに乗って恋人とドライブ、ショッピング、家族旅行など、これこそ全ての願いを叶えてくれる魔法の箱だ。ワーイ、ワーイ。なんて浮世を離れ夢想している人そのものだ。
動かない車のハンドルを持ち「ブーン、ブーン」とか言ってしまいそうだが、わたしはそれどころではない。緊急事態なのだ。残念だが今は「ブーン。ブーン」どころではない。
確かわたしの父はハンドルの根元に鍵を刺し込み回していたが、そのような物がこの車にはないのだ。
そもそも旦那様の車の鍵は流線型の黒いプラスチックケースのみで鍵と呼べるような代物ではなく、どちらかと言うと鍵であることを放棄しキーホルダー側に歩み寄っている感が否めない。
車に近づけば電子音と共に自動的にドアロックを開錠し折り畳んであったドアーミラーが起動する仕組みになっているのもまた珍妙だ。
あっ。そう言えば車を発進させる前にボタンのようなものを押していた気がする。そうだ、この辺のボタン。と思い押したら案の定、ガンダムのコックピット顔負けに次々と液晶パネルが輝きだした。
この安堵感はまさしくあれだ。エアーコンディショナー数台、電子レンジ、炊飯器、ヘアードライヤー、テレビジョン、オーディオプレイヤー、照明器具、などを同時に使用した場合に起こる突然の停電で家中の明かりが一瞬にして消え、暗闇の中で家人が騒然とする中、父親がブレーカーを上げた瞬間に家が息を吹き返すような安堵感、あの喜ばしい感覚を思い出した。
あの安心感は電力と言うものの必要性をひしひしと感じることができるイベントだ。
とりあえず一息ついているところに座席が自動的に前後上下に動き、運転をするのに丁度良い姿勢に固定され、女性の声で「ドライビングポジションはよろしいでしょうか?」と聞いてきた。
返事に困っていると「微調整しますか?」と聞くので「結構です」と、お断りした。
「承知致しました。運転手様のドライビングポジションの設定を新規追加しますか?」と聞くので「それだけは勘弁して下さい」と謝った。
「それでは快適なドライブをお楽しみ下さい」
覚悟はいいか?俺はできてる。ってやつだ
ガンガンに飛ばして五分で帰って来ます。と思いアクセルを踏んだのだが一ミリも進まない。
また難関だ。便利なのか不便なのか、わからない乗り物だ。
どこまでやってくれるのだろうか?どこからがわたしの作業なのだろうか?何かを忘れているのだ。
最終工程を飛ばしてアクセルを踏んだのだ。乗車後にエンジンを始動させた後に父も旦那様もなにかしていた。
そうだ。この左側にあるレバー。これを動かすのだ。
しかし、選択肢が多すぎて意味が分からない。
R?N?D?そのDの右横には分岐があって+と-の表示があるし。2?1?なに。始動まではボタン一つなのに、ここにきて急にハードルを上げられた感じは気のせいだろうか。
「あの、すみません」
「はい。ご用件をお伺いします」
「どうやったら車を動かせますか?」
「オペレーターにお繋ぎしますか?」
「いえ、そう言う告げ口的な答えじゃなくて、単純に車を動かす方法です」
「オペレーターにお繋ぎしますか?」
「あのー、おそらくですけど、取説の3ページか4ページ辺りに操作方法が書いてあると思うんですけど読んで貰って良いですか?」
「オペレーターにお繋げします」
「待って!キャンセル!」
不毛だ。なんて不毛なやり取りだ。そしてまだAIには世界を征服する力はないことが分かった。
動くまで色々と試してみるしかない。トライアンドエラーを繰り返せば答えは見つかる筈だ
とりあえずレバーは1だ。それで2だ。
1にしたら車はゆるりと進みだした。正解。正解。賢い子だ。でも、なにか後ろから誰かが引っ張っているような「行かないで」と、幼子に軽く袖を摘まれているような抵抗を感じるのは気のせいだろうか?このような奥歯に物が挟まったような仕組みなのだろうか?そもそも自動車なるものの原理を理解していないのだ。気にしないでおこう。
1から2にして。曲がりくねった道を抜けて行く、何度か滑り落ちそうになり肝を冷やしたが、どうにか麓まで降りられた。
意外と簡単だ、これなら行けますよ。楽勝ですよ。アクセルベタ踏みでグングンスピードを上げていく。これは楽しい。自分には隠れた素質があったのではなかろうかと錯覚するほどだ。2日ほど練習したらフォーミュラカーでモナコを走れるくらいの才能があるのかも知れない。
「あの、すみません」
「はい。ご用件をお伺いします」
「スーパーに行きたいんですけど」
「かしこまりました。検索いたしますので、お待ちください」
「お願いします」
「27896536件あります」
「多いなぁ。呆れるほど多いなぁ。あの、最寄りのスーパーでお願いします」
「かしこまりました。検索いたしますので、お待ちください」
「お願いします」
「1件あります」
「ナビよろしくお願いします」
「かしこまりました。ナビを開始します」
これで勝ったな。と思いながらニヤニヤしてると指示がきた。
「二百メートル先を右折して下さい」
二百メートル。ああここか。コンクリート塀のある細い道を右折するためにハンドルを回したら、自分のわき腹をグニャリと押されるような気持ちの悪い感触がして、車内に「メキメキ、ガリガリガリ」と金属の曲がり擦れる音が響いた。
やってしまったようだ。と思いながら直進。
「三百メートル先を左折してください」
街灯の建つ道を指定どおりに左折。また同じ感触が身体中に伝わり、その後に「ガリガリバキ」っと斬新な音がして「ガザザザザザー」となにやらかが脱落した音と何物かを引き摺る音が後方よりして「まもなく目的地スーパー銭湯、血尿地獄です」って、いやいやいや、わたしが行きたいのはスーパー銭湯じゃないの。スーパーなマーケットですの。それに血尿地獄って頭おかしいだろ!
「最寄りのスーパーマーケットをお願いします」
「かしこまりました。検索いたしますので、お待ちください」
「お願いします」
「1件あります」
「スーパーマーケットですよね?」
「はい。スーパー鶴姫万年堂です」
確かそんなけったいな名前だった。
「ナビよろしくお願いします」
「かしこまりました。ナビを開始します。来たルートを戻って下さい」
時間にゆとりを持って行動することは大切だ。
今のわたしのようにゆとりがなくなると機械に対してでさえ殺意を覚えてしまう。
更に車体をトランスフォームさせながら走っていると目的のスーパーが見えてきた。
スーパーマーケットの駐車場の突き当たりの金網のフェンスに頭から突っ込んだ。
車は虫取り網で捕獲された虫みたいになって停止。恐る恐る曲がったドアを強引に開け、車外に出て自家用車を検証してみたら、激しい市街戦が繰り広げたれた戦場に放置されていた車みたいになっている。
「誰だ!こんな悪戯したのは!」なんて怒るレベルじゃない。怒る前に泣くレベルだ。
そしてどうやったらエンジンが止まるのだろうか?さらに後ろのタイヤから何かが焦げた臭いがする。
青白い店内で蛍の光が流れる中、十キロ入りのお米を抱え、購入しようとしたら財布がない。
うん。よくある話だ。日曜日の夕刻になるとテレビジョンにて毎週繰り返される陽気で愉快な人を歌う歌詞が頭で流れている『お日様も笑ってるぅ』笑ってるんじゃなくて、笑われてるんですよ。
そう言えば、旦那様、もしもの時にとか言って、ダッシュボードとか言う助手席前方の小物入れみたいな部分に一万円入れていたはず。ほら。さすが旦那様。保険って大事。
無事に買い物を終えて「デキの悪いバンブルビー」に乗り込む。
いきなり問題発生だ。
車の前方は既に金網のフェンスを突き破らんとするほどに食い込んでいる。このまま進めば数メートル下の畑に落下。爆発。大惨事。「主婦無謀運転で爆発」と、キーワードだけを摘出したネット記事にされ、知りもしない全国の人から非難されるのだ。
そうならない為にも一旦後ろに進み方向転換なるテクニックが必要なのだ。考えもしなかった。バカみたいに前だけ向いて走ってもダメだった。思考を柔らかくし前へも後ろへも進めるようにしておけと車様が仰っている。
人生もそうなのだろう。前に進むだけではダメなのだ。時には過去の失敗を振り返り反省し、また前に進む。自動車とは人生について考えさせる乗り物だったのだ。
レバー選択の時間だ。1と2は違う。わかった。Dの分岐にあるマイナスだ。逆方向に進むのマイナスだ。
レバーを動かし「-の位置」にレバーを配置しアクセルを踏む。嘘?前に進んでいる。このままだとネットニュースだ。離婚の危機だ。夫婦安泰の為の行動が一気に離婚危機にまで達してしまう。目的地はそこじゃない。
やばいっ!と、思いっきりブレーキを踏んだら、年間350日ライブハウスに通う「バンギャ」の人みたいに頭が無くなるほど「ヘッドバンキング」してしまった。
Nだ。Nでしょ。って今度は車が一ミリも動かない。助かったが何がしたいのN。あなたの存在価値を疑わざるおえませんよ。本当に。だからと言ってPではない。Pは初期状態だったから、あの一ミリも動かない手ごたえのなさは経験している。
そうなると余計にNの存在が気になる。Nは遊び心を持てと言う意味か、違う。それならPだ。プレイのPだ。今から遊びに行きますよ。のPだ。そして恋人たちのプレイ時間などの時にもレバーをこの位置に移動させ気持ちよくプレイするのだ。
よくできている。よく考えられている。自動車産業の心意気に乾杯だ。
消去法で行くともうRですよ。ほらね。後ろに進んでいるもの。危機回避ですよ。危なかった。まだ世界はわたしに微笑んでいる。それから1にしてね。2よ。もうお手のものよ。でもDはなに?と思いちょっと試しにD「ぎゃああ」やばい、やばい、鬼だ。スピードの鬼だ。反則だよD。
イニシャルDとはそう言う意味か、異次元のスピードで車が進むと言う意味なのか。
田舎道を爆走し、あっと言う間に麓まで着いた。あとは山道を駆け上がるだけ、楽勝、楽勝と思いながら山道に突入。このスピードだと異次元空間にワープすんじゃないの?と思っていたら、左の茂みからデッカイ黒い物体が突然飛び出してきて、「ダンっ」と派手に前方にぶつかり、猛スピードでボンネット上をもんどりうって回転しながらフロントガラスを突き破り助手席に飛び込んできたのだった。
後編につづく。