Act.4 口寄せの術と分身の術
「兄はただ、死んだ愛犬のユウケンにもう一度会いたかっただけだった」
そう言って蒼華はシーツの端をくしゃりと握った。
緋扇陽介のアルターポーテンス『火炎鳥獣招来絵巻』は世話をした動物が死ぬときに火の精として取り込み、火を媒介に召喚・使役する能力であるという。
「兄はユウケンを火にしたとき、とても後悔していた。死んでまで働かせることが正しいとは思えなくて悩んでいたし、火の精は自分が飼っていたユウケンから『魂』と呼べるものを引き継いだ存在なのかさえわからない自分が情けないと言っていた」
ペットを剥製にした者が経験するジレンマのようだと佐々木は思った。姿形は生前と変わらないにも関わらず、はめ込まれた無機質なガラス玉の眼球を覗き見るのが辛いのだという。飼い主の身勝手だと言えばそうかも知れない。けれど、ペットに愛着があったからこその選択と後悔なのだ。
魂は霧のように散り、肉体は塵へと還る。故人を知る者がいなくなれば、最初からいなかったも同じ。
椎名に勧められたエドワード・スピネルの小説の一節にこう記されていたのを佐々木は思い出す。『もしも魂に二十一グラムの重さがあるならば、きっと死者はまだ地球の重力に囚われている』。
「兄の能力を有用なものにするために父は色々な動物を買い与えた。兄はどの動物の世話も手を抜いたことはない。けれど、死後も都合よく利用することにずっと疑問を持っていた。だから兄はせめて他人の役に立てようとして警官になった。それなのに……」
蒼華は泣き出した。ボロボロと、目から剥がれ落ちるように涙がシーツにしみ込む。佐々木はハンカチを手渡す。彼女はそれで涙を拭う。変に気を遣われる前に佐々木はそのハンカチを黙って受け取った。一度で足りないなら、何度だって差し出せば良い。
「込宮たちの居場所を蒼華に教えてくれたのもユウケンだった。仲間割れしていたところに立ち会い、感付かれた挙げ句、ブライアンから反撃を受けた。ただの石の投擲だと油断したところで、体が重たくなりまんまと直撃を食らってしまった。蒼華の慢心だ。不甲斐ない」
蒼華が肩を掴む。彼女にすれば、自分が許せないのかも知れない。けれどその手を佐々木は止めた。傷が開いたところで彼女の兄の容態が好転するわけではないからだ。
「警察に情報は提供したんだよね。やれることを君はやったんだ。彼らだって面子があるから、捜査の規模も大きくなってる。刑事さんも組織犯罪対策部との合同捜査だって言ってたから、近いうちにきっと」
近いうちじゃ! と蒼華が佐々木の言葉を強く遮った。
「近いうちじゃ……駄目なの」
「そうだね。ごめん」
会話が途切れる。佐々木は「僕、そろそろ帰るね」と言って、パイプ椅子から立ち上がった。ここにいても出来ることはない。そう言いきかせる。逃げ出すことに他ならないということは、佐々木が一番よくわかっていた。
外はもう日が暮れ始め、薄暗くなりつつあった。自分の影と暗闇の区別がつかない。
蒼華は取り乱していた。初対面の佐々木にすがり付くくらい。佐々木は考える。もし家族に何かあったとき、自分はあんなにも狼狽えるだろうか、と。
あまり現実味がない。そう思えた。
たぶん両親は、とりわけ異能者を嫌う母親は入学式には来ないだろう。佐々木にも兄がいる。母親は優秀な兄にずっと付きっきりだった。同じ屋根の下に住んでいたが、兄と話すことはあまりなかった。それもあって佐々木は椎名を慕っていたのだと客観的に考える。
けれど『おめでとう』という言葉は誰からも期待できない。
きっと蒼華は違う。いろんな人から祝福されて生きている子だ。僕なんかと同じではない。
ショアライン総合病院を出たところで、ネクサスフォンを眺める。力になりたいと思ったが、佐々木に出来ることは他にあるだろうか。心当たりがないことはない。ただ、電話することは躊躇われた。
そのとき液晶画面に何か強い光が反射した。切り離されたように佐々木の影と暗闇がはっきりと別れる。
見上げたときには何か素早く動くものがあったくらいの認識しかできなかった。まさかと思ったが、佐々木は中庭にあった石の一つをキュービックムーンで変形させる。
そのまま蒼華の病室まで浮かび上がる。窓は開いていた。蒼華はベッドに横になり、上半身を起こして外を見ている。杞憂だったかと安堵したのも束の間、なんの反応もないことに気付く。
おそるおそる触れてみる。確信して握り潰すように力を込めたところ、蒼華の体が煙に変わる。
慌てて影が動いた方向を佐々木は見やる。目を細めてようやく見えたのは火の鳥に導かれるように屋根を次から次に跳ねる小さな影だった。
「嘘だろ。あのケガで」
刻一刻と迫る生命の期限に駆り立てられて走る蒼華に追い付ける気がしなかった。どこに向かっているかさえ佐々木にはわからない。
犬が吠える声がした。下を見ると赤く燃え盛る犬がいた。佐々木は地面に降り立つ。『火炎鳥獣招来絵巻』で呼び出せる犬が何匹いるか知らないので「ユウケン……君?」と声をかけてみた。
応じるように犬は一声鳴く。
佐々木はユウケンの瞳を覗いた。無機質なガラスのようなツヤではなく、濡れて爛々と輝いていた。勇気を与えてくれるような強い眼をした犬だった。
ユウケンが尾をひるがえす。付いて来いと言うように地面を蹴った。
そこで佐々木はふと、ユウケンは自分をどこに誘導しようとしているのだろうと疑問を持つ。蒼華は『仲間割れしたところに立ち会い』と言っていた。ブライアンと込宮が別行動をしている可能性に行き着き、佐々木はベンチの上にハンカチを投げ出した。
庭石で造ったキュービックムーンは保険の意味もあるので解除しない。重力を軽減し、体を軽くしてユウケンの背を追いかける。
走りながらまず椎名に発信し、繋がらないとわかるや否や佐々木はあまり頼りたくない伝手に電話をする。なりふりを構ってはいられなかった。
「夜分遅くにすいません。佐々木です」
ユウケンは振り返らない。佐々木が付いて来ることを疑わず、遅れをとらないことを前提に全力で夜の町を駆けた。
空には本物の月が煌々と輝いている。