ニ.誇りと刃
木の葉がかすれる音だけが耳に届く。
眩しいばかりの月の光がハンサの頰を照らし出していた。
(いいのか、このまま明日を迎えて)
我が家では、恐らく明日迎える花嫁の為に母が色々な準備をしている最中であろう。ただの娘ではない。王の、娘なのだ。手落ちがあってはならぬと、およそ一年前から準備が進められていた。
十年も前から決まっていたこととはいえ、実感が湧かなかった。幼い頃より当たり前のようにそばにいた女を、妻として迎えるのだ。
しかし、ハンサの心はここにはない。
高く高く、それこそ月よりも高く舞い、何処にいるとも知れないもう一人の幼馴染に囚われていた。十二年前の、あの日から。
(ガル…何処にいる。無事でいるのか。元気にしているのか)
この十二年間、何度もガルダを探しに行きたい衝動に駆られた。しかしその行為が自分の身の回りの人々に与える影響のことを考えると迂闊なことはできないのが現実だった。
しかし自分は明日、妻を迎える。妻を迎えてしまえば一人前の男と看做される。そうなってしまえば柵は今よりも更に増し、ますます身勝手な行動はできなくなる。
(ガル…ガル、お前に会いたいよ。会って色んな話を聞いてもらいたい。お前のこの十二年間の話も聞きたいよ…。どうしてる?ガル。お前も今、この月を見ているのか?…ガルダ…!)
生暖かい風が頰を撫ぜた。その風に誘われるように、ハンサは腰を上げる。そのまま、ゆっくりと家に向かって歩き始めた。
「父様…それは、どういう事?」
自分の唇が戦慄いているのが分かる。王の娘らしく、毅然とした態度を保とうとしたが失敗してしまったのが自分でも分かる。
この部屋に鏡はないが、おそらく自分の顔色は青褪めているだろう。
「スパルナ…」
父も、娘にかける言葉が見つからないのであろう。その視線は何もない中空を二度、三度と彷徨った。
「きちんと説明してください」
数回深呼吸をしてから発した言葉は、先程よりは落ち着いてるかのように聞こえた。
「ハンサが…消えた。昨晩、家族が寝静まってから…家を…出たようだ。書き置きを残して」
途切れ途切れに語られる言葉が父の戸惑いを表している。
「書き置き?そこにはなんと」
「いや、あまり詳しくは書かれていなかったようだが…」
「父様!なんでもいいから教えて下さい‼︎」
「うむ…母御の話によると、『最後の心残りをなくしてくる。必ず帰る』とだけ書かれていたらしい」
全身の血が、スッと下がっていくようだった。足が震え、思わずそばにあったテーブルに両手を突く。
「スパルナ!」
「大丈夫…大丈夫です、父様…」
しかし顔色は蒼を通り越してもはや真っ白で、とても言葉の通りとは思えない。
「少し…部屋で休みます」
カシュヤパは一瞬引き止めようと手を上げかけたが、すぐに下ろした。
今のスパルナにかけるべき言葉など思いつかない。誰にも、その心のうちを推し量ることなどできない。
スパルナは、寝台の上に仰向けに倒れ込んだ。
涙が一滴も出てこないのは、あまりにショックが大きすぎたせいか。それとも…こんなことが起こるのではないかと薄々予感していたせいなのか。
(ハンサは…きっと、ガルを探しに行ったんだ…)
母とガルダが追放されてから、ハンサは毎日のようにガルダのことを話題にした。何処に向かったのか、泣いてないか、食事はきちんと取れているのか、野生の動物に襲われたりしていないか…。
それがぱったりと止んだのはいつの頃からだっただろう。今にして思えば、スパルナとハンサの婚約が長老会議で決定された辺りからだったような気がする。
ガルダのことを口にしなくなった代わりに、ハンサの表情は歳を重ねるごとに思い詰めたようなものになっていった。
婚儀の準備が始まった一年前からは、滅多に言葉を発しなくなり常に何か考え事をしていた気がする。
(ハンサは…私よりも、ガルダを選んだ)
ガルダはスパルナの半身。スパルナ自身もつねに母とガルダの身を案じていた。片時も忘れたことなどない。いっそのこと出奔して二人を探しに行こうかと考えたことも一度や二度ではない。しかし、父を置いていけなかった。自分がいなくなってしまったら、父は一人になってしまう。
母とガルダを失った後の父は魂が抜けたようだった。そんな父を、一番近くで見てきたスパルナにはその悲しみが誰よりもよくわかった。その上、スパルナまで消えてしまったら一体父はどうなってしまうのか。想像するのも恐ろしい。
それに、外つ国の血を持つスパルナがいなくなってしまったら長老会議は父に、新しい妻を迎えるよう勧めるかも知れない。いや、間違いなくそうなる。そして、王としての責務を何よりも重んじる父はその勧めを受けるのだろう。未だ母を愛しているのであろう父に、そんな選択はさせたくなかった。
だから、ハンサが母とガルを探しに行ったのは、ある意味渡りに船とも言えるかも知れない。しかし、スパルナのプライドはそれを認める事を許さなかった。
婚約者である自分よりも、婚約者の兄を選ぶとは。探したいならば、婚儀が終わったからにすればいい。そっと打ち明けてさえくれれば自分はハンサを引き留めたりしないし、寧ろ協力だってする。
なのに。
(私にも黙って…婚儀を放り出して…)
ハンサは、新郎に捨てられた新婦の気持ちを考えたのだろうか?
今、スパルナのプライドはズタズタに引き裂かれ、もはや恥ずかしくて一族の者の前に顔を出すこともできない。
(許さない…許さない、私にこんな辱めを与えて…私の気持ちを、気持ちを…!)
誰にも言ったことはなかった。
幼い頃より、ずっとハンサのことが好きだった。十年前にスパルナとハンサの婚約が決まったのも、実は自分が父に言い出したことだったのだ。
ハンサはそんなこと知らないだろうが。きっと、長老会議の決定だと思っている。
しかし、スパルナはずっとハンサの妻となる事を夢見てきた。
だからこそ、裏切られたショックは殊更大きかった。
白くなるほどに噛み締めた唇を、するりと解く。
ベッドの脇に立てかけられた愛刀に手を伸ばした。
「…殺すわ…」
自分の誇りを取り戻すためには、ハンサを自分自身の手で消すしかないように思われた。
ハンサの前で、自分がどれほどハンサを愛していたか、そしてその愛の深さ故にどれほど傷付いたかを知らしめた上でその心臓に刃を突き立てる。
そして、永久に自分だけのものとする。
そのシーンを想像すると、一瞬の幸福感に包まれた。
この幸福感を永遠のものとしたい。
ゆっくりと立ち上がった。
「父様」
「スパルナ!…その、具合はどうだ」
「何ほどのこともありません」
艶やかに微笑んだスパルナの顔をしばらく凝視した後、視線は右手に握られた愛刀に注がれた。
「何を、考えている」
「父様、私は私自身の誇りをこの手で守ることに決めました」
瞬時にその言葉の意味を察し、息を呑む。
「…後悔…しないのか」
「するはずありません」
そう、するはずがない。ハンサを自分だけのものに出来るのだ。ガルナに奪われることなく、己だけのハンサに。
カシュヤパにスパルナを止めることなどできるはずもなかった。スパルナの痛みは、スパルナにしかわからない。わかったふりをしたところでそれは所詮、『つもり』でしかないのだ。
「父様、許しを。許しをください、私がハンサを討ち取る許しを」
そう言って差し出されたスパルナの愛刀の柄を握り、鍛え上げられた刃をするりと抜いた。そのまま刃をスパルナの肩に当てる。
「スパルナ・ヴェズルフェルニル。汝の誇りを守るため、ハンサ・カラドリウスを抹殺せよ」
スパルナは静かに首を項垂れさせた。
「御意。この命に代えましても」
視線をあげたスパルナの黒い瞳に映ったのは、王としての顔から父親の顔に変わる瞬間であった。
「スパルナ…無理をするな。果たせずとも、いつでも帰ってこい。この誓いのことは私とお前以外、誰も」
「それはできません‼︎」
言葉を遮るようにして、叫んだ。
「私は、誰に命じられたわけでもない。己で決めたのです。私を捨て、誇りを傷つけたハンサを絶対に赦さないと」
カシュヤパの目に、落胆の色が浮かんだのは気のせいだろうか?
一呼吸置き、大きく息を吐いた。
「行け。行って己の誇りを取り戻してこい」
「はい。スパルナは必ず戻って来ます。その日までお元気で、父様」
そう告げると、そのまま表に出た。入り口に置いてあった旅装を肩に担ぎ、後も振り向かずにスパルナは旅立った。
何処へ向かうべきか?
ハンサを見つけるには、ガルダを探せばいい。ガルダの元に、必ずハンサは現れる。
ガルダとともに追放された母はコハナの出だ。しかし、二人はコハナには行くまい。何故なら、母の出自であるイスル族に追放を知られることは恥だ。コハナ国内にいれば、イスル族のものと出会う確率も高くなる。
戦を嫌う母がシャナカーンを選ぶことも考え辛い。シャナカーンは、戦で周りの国々を呑み込みながら拡大した国だ。海を越えての戦も厭わないと聞く。
ならば、アルカダルだ。
イスル族に会う確率が低く、長年平和を保って来たアルカダルならば母もガルダも安心して暮らせると考えるだろう。
行く先は決まった。
もしかしたら、ナーガ自治区で見る景色はこれが最期になるかもしれない。
決して忘れることのないよう緑豊かな景色を瞳に焼き付け、スパルナは歩き始めた。