一.仇と戦
町中が騒がしい。
市場の中は普段から喧騒に包まれているが、今日は殊更にそれを感じる。
人々の表情に笑顔は少なく、緊迫感さえ感じられる。
何か起こったのか?
「よぉ、ガル!精が出るな」
顔見知りの八百屋に声をかけられ、ふと我に返った。胸騒ぎを押し込め、いつもの笑顔を作る。
「おはよう、ダナン。ダナンこそ、朝早くから大変だね」
「うちはさぁ、ほら、ちゃんと働かねぇとカカアが五月蝿ぇから」
苦笑いをして後頭部をポリポリと掻く男を見て、ガルダは微笑んだ。
「今日は、母様の命日なんだ。だから朝のうちに1日分働いて、午後は墓参りに行かなくちゃ」
「そっか…もう10年ほどにもなるか?」
「そうだね。今日でちょうど10年だ」
そう、母は10年前の今日、若い命を散らした。ナーガ自治区を追われてから2年が過ぎようとしている頃だった。
痩せ細り、ほんの小鳥の餌ほどしか食事を摂らなくなって段々と弱り、旅立った。
27歳だった。
若すぎる母の死。
最後に、ごめんと呟いた。一緒に生きていこうって言ったのに、ごめん…と。
それから10年。未だにガルダの脳裏に焼きついたまま片時も離れることはない。
やせ細ってもなお美しかった母が、最後にこぼした一粒の涙の映像が。
「ガル?」
ダナンに声をかけられて我に返った。
「ごめん、ちょっと思い出しちゃって」
ダナンは一度表情を曇らせてから、それを振る払うかのように笑った。
「頑張るガルに特別サービスだ!今日の午後、お供えモン用に野菜と果物届けてやるよ!」
「ホント?ありがとう、ダナン。助かるよ」
じゃあもう行かなくちゃ、とダナンに別れを告げて運びかけていた荷物を再び肩に担ぎ上げた。
胸の中を、一陣の風が吹き抜ける。
いつからだろう、目的が見えなくなったのは。
生きるための目的、が。
薄暗い部屋の中、ヴィナターの写真の両脇に立てられたロウソクに火を灯した。
昼過ぎにダナンから差し入れられた野菜と果物が薄明かりに照らし出される。
ゆっくりと、その前に腰を下ろした。
「母様、もう10年だよ。早いね。早すぎるね」
写真の中のヴィナターはいつもと変わらない微笑みを浮かべている。他界する直前とは全く違う、まだ、丸みのある白い頬に楽しげなえくぼが浮かんでいる。
ナーガ自治区を出てからこんな母の笑顔を見たのは何度くらいだろう?恐らくは、両手の指で事足りるほどだろう。
母がベッドから起き上がれないほどに衰弱してしまった頃、ガルダの胸の中にある自責の念はナーガ自治区の長老達と父への恨みへと変化を始めた。その思いは10年前の今日、最高潮となり今も燻り続けている。
なぜ母があのような目に合わなければならなかったのか。外つ国からたった1人でナーガ族に輿入れしてきた母が、なぜ追放の憂き目に合わなければならなかったのか。
全てはナーガ族の古臭い掟のせいだ。
他責がいいこととは思わない。しかし、誰になんと言われても構わなかった。
母の仇を…討ちたい。
母を不幸にした一族に、制裁という名の滅びを与えてやりたい。
粗末な木の枠に収まった母の写真にそっと指を触れる。
「母様…母様は、そんなこと望んでないのはわかってる。母様が望むのは俺が平穏に生きていくことだって。でも…でも、こんな気持ちのままで何事もなく生きていくなんて俺にはできない…!」
熱い液体が頬を伝う。
「母様、許してなんて言わない。これは俺のエゴだから。自分の中の醜い炎を消したいと思う俺のエゴだから。でも…でも」
できることなら。
見守っていて。
写真に触れた手を、ぐっと握りしめた。
「ガル!」
次の瞬間、静まり返っていた部屋に聞きなれた大きな声が響き渡った。
ガルダは、頰の涙を慌てて拭う。
「どっ、どうしたの?ダナン…そんなに慌てて」
鼻の赤いガルダとヴィナターの写真が置かれた祭壇を交互に見て、ダナンは気まずそうに視線を逸らした。
「悪い…こんな時に。でもっ…でも、やばいんだよガル!」
「おちついて、ダナン。何がそんなにやばいんだ?」
「シャナカーンが、この国に…アルカダルに攻めてくるって…!」
その一言に、ガルダは大きく目を見開いた。
ナーガ族から追放されたヴィナターとガルダが落ち着いたのは、かつて近隣諸国の盟主国だったアルカダル国だった。アルカダルは北側と東側に海岸線を持ち、東側の国境を軍事国家であるシャナカーン国と、南側の国境を宗教国家であるコハナ国に接する大国だ。
アルカダル、シャナカーン、コハナは国の規模、軍事力ともに拮抗しており尚且つその国境には高々とそびえる山脈を抱えているため三竦み状態が長らく続いている。
その三国が接する地域は唯一山脈が途切れているのだが、ガルダの生まれたナーガ族の自治区がそこにあり、三国の緩衝地帯となっていた。
「ガル!聞いてるのか⁉︎」
ダナンの声に、我に返る。
「えっと…ごめん、なんだって?」
「だから!もう、ここら辺の奴らは荷物まとめて逃げ出してる!俺んとこも明日のうちには荷物まとめて田舎にある俺のお袋のとこに行くつもりだ。お前も、早く逃げた方がいい」
「でも…逃げるっていっても、俺には行くところなんて…」
自分は故郷を追放された身だ。ダナンにそのことは言ってはいないが、何か事情があるということは薄々気づいているだろう。
「俺のお袋のんとこは家が広くねぇからうちの家族だけでいっぱいいっぱいだし…。誰か親戚んちに押し込んでやるから、一緒に来い!」
ダナンの言葉に、胸が熱くなった。
血の繋がりのある一族でさえ自分と母を追放した。なのに、ただ近所に住んでいるというだけでここまで自分を気にかけてくれるダナンの気持ちが嬉しかったのだ。
「ありがとう、ダナン。でも、無関係の人に迷惑をかけるわけにはいかない。俺は1人だし、もって逃げるものも母様の写真くらいだ。山の中でもどこででもやり過ごせるから、ダナンは早く家族と逃げてくれ」
「けど、ガル…!」
「いいから!ダナンにとって1番大切なものはなんだ!俺じゃない、ダナン自身の家族だろう!だから、だから…」
12年前のあの時、1番父に言って欲しかった言葉。
「だから、大切な家族をしっかり守って…」
苦しげに歪んだガルダの表情に、ダナンは言葉を失った。ガルダの心の傷に触れてしまった気がした。
「わかった…。でもな、ガル!お前もちゃんと逃げるんだぞ‼︎こんなところでお別れなんてごめんだからな!」
両肩を掴んで勢い込んで捲したてるダナンに、ガルダは微笑む。
「わかってる。俺だってこんなところで人生終わりだなんて嫌だからさ…。ちゃんと逃げて、落ち着いたら必ず会おう。約束する」
「よし…よし。約束したぞ。俺は明日の夜、家族と一緒にここを出る。お前も荷物がねぇんなら明日の朝にでもここを出ろ。お前が出たのを確認したら俺も出る。ここだけは譲れねぇぞ、なんて言われようがな。いいか!」
「わかった…わかったって、ダナン。だからそんなに唾飛ばすなよ」
まだ何か言いたげなダナンの両肩を掴んで、引き離す。
「そんなに言うなら、今すぐにでも出る。ほら、荷物は少ないから小一時間もあれば準備できる」
「じゃあ、一時間後に来るからな!そん時までに準備しとけよ!」
何度も振り向きながら部屋を出て行くダナンを見送り、大きく息を吐いた。
不意に、目付きが変わる。
いい機会だ。
きっとこれは、天が自分の後押しをしているのだ。
行け、と言っているのだ。
三大国は、どの国に攻め入るにしても必ずナーガ自治区を通らねばならない。それか、山脈越えしか道がないのだ。
山脈越えは、時間も労力もかかる上に危険が伴う。兵の損耗を考えるならば、必ずナーガ自治区を通るはずだ。
ナーガ族は確かに強靭な肉体と普通の人間にはない異能力を持っている。しかし、数が違う。肉食獣が多数の草食獣に勝てないように、ナーガ族も数に任せた人間の攻撃には耐えられないはず。
ましてや、相手は草食獣とは違う。力に劣る人間であっても、間違いなく攻撃的な部類に入る者達なのだ。そうなれば、ナーガ自治区は蹂躙される。多数の死者が出るだろう。長老会議の連中も、もしかしたらカシュヤパでさえも。
(そんなことは、赦さない…)
彼らの息を止めるのは、自分だ。
母の遺影の前で、そう決めた。
微笑むヴィナターの写真を手に取り、使い古された頭陀袋にそっとしまい込む。
あとは、手元にある僅かな金と干し肉。そして母が輿入れの時に祖父から渡されたという形見の短剣。それで終いだ。
無事この家に戻って来ようなどとは露ほども考えていない。ダナンには嘘をつく格好になってしまうが決意には変えられない。
再びこの家を訪れたダナンの足音が近づいて来るのを感じながら、せめて別れはきちんとしよう、などと頭の隅でぼんやりと考えていた。