序
「追放と、する」
その言葉を聞いたカシュヤパは掌に指を食い込ませた。皮が破れるほどに強く。
「依存はありませんな」
確認するかのように投げかけられた言葉の後に、一瞬の空白が生じた。
「王?」
「………長老会議の決定に従おう」
王なのだ。自分は王なのだ。一族の掟を守って行かねばならない自分が、掟に逆らうことはできない。
たとえ追放されるのが愛する妻と息子であろうと。
戸の影で怯えるように身を寄せ合いながらその様子を見ていたスパルナとハンサがカシュヤパの言葉を聞いて目を見開く。
「父様!」
たまらず、まろびながらスパルナが駆け込んできた。
「いや!母様とガルを何処かにやってしまわないで!父様!父様‼︎」
その後を追うように、ハンサも恐る恐る近づいてくる。
「カシュヤパ様…嘘でしょう?」
そう、嘘であればどんなにいいことか。これは悪い夢で、全身に汗をかいて飛び起きる。そうであればどんなに嬉しいことか。
カシュヤパはスパルナの前に膝をついた。
「スパルナ、ハンサ…。私はナーガ族の王だ。一族の掟に背くことはできない」
母であるヴィナター似の黒く大きな瞳にみるみるうちに涙の粒が盛り上がる。
「父様は、母様の旦那様でしょう…?ガルの父上でしょう…?」
「夫であり、父である前に私は王なのだ」
限界まで盛り上がった涙が一気に白い頬を流れ落ちる。
「嘘…嘘って言って、父様…嘘って‼︎‼︎」
「スパルナ…」
「父様なんて大嫌い!いや!いやいやいや‼︎」
かける言葉が見つからず、頰に当てるつもりだった手が宙を舞う。そんなカシュヤパを睨みつけ、スパルナは長老達の上座に座る老人を振り返った。
「スザク!スザクは父様の次に偉いんでしょう?長老達の中で1番偉いんでしょう⁉︎母様とガルを助けて!」
見つめられた長老会議筆頭、白い髭をへそまで垂らしたスザクは一瞬の間の後、首を左右に振った。
「長老会議の決定ですぞ。ナーガ族の特異体質を受け継がない王の子は、6歳になった日にその生母とともに追放される。それが我が一族の掟です」
「そんなの…そんなの、何百年も前の決まりじゃない!守る必要ない!」
「姫と言えど聞き捨てなりませぬ!この掟が我が一族の血統を守り抜いてきたのですぞ!」
普段の好々爺の表情を脱いで厳しい面を見せたスザクに、スパルナは肩を震わせた。
「いいよ…もう、いい!あたしが2人を守る!」
言い捨てて踵を返し、駈け去ったスパルナの後を、戸惑いながらもハンサが追いかけていった。
2人の足音が小さくなり、やがて誰の耳にも聞こえなくなる頃スザクが大きく溜息を吐いた。
「王よ。ヴィナター様とガルダ様が追放となれば、貴方の血統を引くのはスパルナ様ただ1人。貴重な外界の血を我が一族に組み込むためにも、スパルナ様はお2人がこの自治区を出て行くまで見張っておいたほうがよろしいでしょうな。…念のため、ハンサも」
「…ああ、分かっている」
いっそのこと、本当にスパルナが2人を守ってくれたらどんなにいいことか。しかし、スザクの言う通り、スパルナを危険にさらすことはできない。
「ロック」
シタラは、右腕とも言うべき側近の名を呼ぶ。
「ここに」
「スパルナとハンサを、別々に軟禁しておいてくれ。2人はまだ己の意思で鳥になることはできないが、念のため封印の部屋でな」
「お任せを」
今ほど、ロックの有能さを呪う瞬間はなかっただろう。ロックは必ず自分の命令を忠実に実行する。
ロックが去り、スザクが去り、1人、また1人と長老達が席を立っていった。
「…クソッ…」
白くなるほどに握りしめた拳を壁に押し付け、カシュヤパは1人、唇を噛み締めた。
「母様、ごめんなさい…ごめんなさい…」
まだ日の昇らぬ薄ぐい夜明け前、ヴィナターと手を繋いだガルダは呟いた。
長老会議の決定を伝えられてからひと月、すでに涙は枯れ果てた。今のガルダを襲うのはただひたすら罪悪感のみだ。
己が満足な状態で生まれてこなかったために母までが追放の憂き目にあってしまう。
父と母は、傍目に見ても仲の良い夫婦だった。婚儀の席で初めて顔を合わせたと聞いているが、そんな事実は感じさせない2人だった。
それなのに、それなのに…。
「ガル、貴方のせいじゃないのよ」
見上げれば、薄暗がりの中に優しく微笑む母が見える。その表情がさらに罪悪感を掻き立てる。
「でも…でも!俺がきちんと鳥になれたら…スパルナみたいに強い身体を持ってたら…!」
「ガル、母様だって鳥になれないわ。力だってすごく弱い」
「でも、母様は外から来た人だから…!」
「そうね。ガルは母様と同じね。見た目は父様にそっくりだけど中身は母様にそっくり。スパルナは、見た目は母様にそっくりだけど中身は父様にそっくり。2人とも、大切な家族よ」
朝靄の中で、ヴィナターはガルダの前にひざまづいた。頰にそっと両手を添える。
「母様こそごめんね。ガルを、鳥にしてあげられなくてごめんね。ごめんね、赦して…母様を、赦して…」
嗅ぎなれた香りにふわりと包まれる。
柔らかな暖かさが少し冷えた朝の空気に心地良かった。
「母様、ガルを愛してる。その金色の髪も、金色の瞳も、白い肌も、全部全部愛してる。だから、母様と2人で生きていこう。外の世界で、一緒に生きていこう」
首筋に、暖かい液体が零れ落ちた。
自分が守らなければ。
自分が特異体質ではないせいで家族と引き裂かれてしまったこの母を守るのは、自分しかいない。
「うん、俺…生きる。母様がいれば、生きていける」
「うん…うん…。一緒に生きていこう、ガル…」
やがて、見送るもののいない2人の追放者は朝靄の中に姿を消した。