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雪の日のショパン

作者: 北条かおる

 風呂上りの濡れた髪を拭きながら、高野は、時計を見て驚いた。もう午前一時になっている。

(こりゃあ、明日はしんどいな)

 溜め息が出た。

 女房と中学二年の娘は、それぞれの部屋で、とっくに寝息を立てている。

 高野は、四十一歳になる。まだまだ老け込む年齢ではないが、ゆっくり風呂につかっても、一日の疲れがとれなくなった。ことに寝不足は体にこたえる。

 暗いキッチンに行き、冷蔵庫から缶ビールを出して来た。女房も近頃は、高野の晩酌にいい顔をしない。自分の財布で買ってきたビールだが、冷蔵庫に入れておくのにも気を遣わなければならなかった。

 ぐびりと飲みながら、書斎にしている部屋に行った。

 この数ヶ月……。

 高野は、ツキに見放されていた。麻雀すればロン牌を引いてしまうし、仕事でも、苦労の割には成果が上がらない。

 不平や不満が、表情にあらわれてしまうのだろう。女房も愛想が悪いし、生意気盛りの娘にいたっては、お早うの挨拶さえしない。ほんの二、三年前までは、何かというと、キャッキャッと父親の腕にすがって、

(可愛らしい、自慢の娘だったのにな)

 今では、まるで汚いものでも見るような横目で父親を見る。

 高野は、京都駅前にある人材派遣会社で営業をしていた。派遣先の開拓が主な任務である。種々雑多な業種の会社に出入りし、いろいろな話を聞けて、自分では気に入った仕事だった。

 ところが……。

 二ヶ月前のことである。女房には今でも内緒にしているが、突然、総務課に異動になった。否も応もなかった。

 入社以来ずっと営業一筋で、総務の経験はない。これまで外を歩き回っていた男を、いきなりパソコンの前に座らせても、一人前の仕事ができるわけがなかった。

 実際、事務処理関係は、若い女子社員のほうが能率のいい仕事をする。高野は、居場所がなく、うろうろするばかりだった。

 これは一種の懲罰人事だった。高野は、閑職に追いやられたのだ。

 事務の女の子から押しつけられた仕事は、苦情処理だった。クレームの電話は、ことごとく高野に回された。

 契約している社員が、派遣先で重大なミスやトラブルを起こすこともある。そんな時だけ、

「高野さん、お願いしますね」

 女の子は猫撫で声で言い、先方の住所を書いて寄越すのだった。

 頭を下げて謝罪して回るのが主な仕事だ。誰もが嫌がる、ストレスの溜まる役目だった。

 同僚の誰も口には出さないが、理不尽な異動の原因はわかっている。経理課の島田真知子との不倫が発覚したのだ。

 古くさいことに、社内での恋愛関係はご法度である。上司からは白い目で見られ、女子社員からは総スカンの罰を受けて、毎日が針のむしろだ。

(くそっ、なんでこいつらに――)

 男の意地で辞表を叩きつけたいところだが、とてもそんな勇気はなかった。今のご時世で、転職などできるわけがない。まして、この年だ。短気は命取りになる。

 このところ、目に見えて酒の量が増えていた。

 今夜の遅い帰宅も、女房には残業だと言ってある。

「終夜営業のスーパーやら、夜間の警備会社もあるからな。そういうところは、夜になってから営業をかけるほうが効果的なんや」

「ふん、そう?」

 女房は、半信半疑のようだ。高野が脱いだ背広をハンガーにかける時、そっと匂いを嗅いだりしている。

 実は、さっきまで、島田真知子とホテルにいたのだ。真知子は、表沙汰になったことを却って喜んで、得意げに鼻をひくつかせている。社内で公認されたと勘違いしているのだ。

 去年の四月、夜の円山公園で、社員有志の花見があった。たまたま隣り合わせた真知子とすっかり意気投合して、おひらきの後、酔った勢いで南禅寺近くのホテルにしけ込んだ。高野には、初めての不倫だった。

 以来、月に二度ずつ、秘めやかなデートを続けている。

「――ねえ、どうしたん? 疲れてるの?」

 ベッドに並んで横になって、真知子は不満そうに鼻を鳴らした。高野がその気にならないのだ。真知子の苛々が、その口調にあらわれてきた。

 真知子のヌードに、新鮮味を感じなくなっている。色白で、吸いつくような上質の肌だが、つき合い初めの頃のような、浮き立つ気分には、なかなかなれなかった。飽きたとも言える。しかも、真知子は、

「ねえ、あたしら結婚できるの? いつ頃? 高野さん、ほんまに奥さんと別れられるの?」

 二言目には、そう詰問するようになった。

 男にとって、この台詞は、かなり負担になる。波風の絶えない夫婦ではあるが、高野は、離婚しようなどとは考えたこともなかった。

「この子、どうしたのかな。眠ってばっかりやね。総務では、疲れるほど仕事してへんのにねえ」

 しょぼんと萎縮した下腹部をいじりながらの無神経な言葉に、高野は、ムカッときた。

「もういい。やめてくれ」

 真知子の指を、乱暴に振り払う。それが口論のきっかけになった。

 お互いの不満をぶつけ合うなら、真知子も負けてはいない。怒りをエスカレートさせて、平気で男の誇りを踏みにじった。

 金を払ってラブホテルに入りながら、今夜はセックスもできないまま、不快な別れ方をしてきたのだ。

(もう別れ時かも知れない)

 とは思うものの、それを切り出した時の真知子の逆上と報復が怖い。下手に騒がれると、配置転換どころか、それこそ会社にいられなくなってしまう。家庭も崩壊するだろう。

 書斎のパソコンを開く。寝る前に、インターネットの掲示板に目を通すのが習慣だった。他人の「会話」を読むのは面白かった。どこか覗き見の心理と共通するものがある。

 真知子との口げんかを思うと、また不愉快な気分になった。空になったビールの缶を握りつぶす。部屋の隅のゴミ箱に投げた。うまく入らなかった。そんなことにさえ腹が立った。

 今夜は、なんとなく「地域」のカテゴリーから「山口県」をクリックしてみた。

 高野は東京の私大を卒業して以来、ずっと京都に住み着いているが、出身は山口県である。瀬戸内海に面した、錦帯橋で有名な城下町だ。

 数あるタイトルをざっと眺めて、

「山口県で音楽好きな人」

 というトピックを見つけた。音楽という文字に惹かれて開いてみた。日付を見ると、三ヶ月前にできたトピックだった。

 二種類のニックネームが、交互に書き込んでいる。どうやら二人とも男のようだ。一人は山口市、もう一人は下関に住んでいるらしい。高校時代、ブラスバンド部だったという話題で盛り上げようとしているが、他に参加者はなかった。

 高野は、興味をもって読んだ。高野もまた、高校のブラスバンド部に所属していたのだ。

 楽器はホルンだった。吹奏楽が好きだったし、部員としては熱心なほうだった。

 もう二十年以上も昔のことだ。今や現実からかけ離れた、純粋で清涼な青春の一ページだ。

 高校三年の、あの夏のショパン――。

 ショパンには、甘酸っぱい思い出がある。誰にも話したことのない、たいせつな記憶だった。

(そうだ。今夜は、ショパンを聴きながら寝よう)

 不快な気分が、少し癒された。クラシック音楽も、そういえば長いこと聴いていない。探せば、どこかにCDがある筈だ。ゆっくり安眠できそうだった。

   

 翌日――。

 帰宅した高野は、夕食もそこそこに、冷えた缶ビールを隠し持って、書斎にこもった。

「ねえ、お風呂に入ってよ。先に入ってもいいの?」

 女房の呼びかけに、聞こえぬふりをした。現実の生活には目をふさいでいる。高野の意識は、昨夜から、高校時代に戻っていた。

 娘は、とっくにすませている。父親の後では絶対に入浴しない。湯を入れ替えただけでは、まだ汚いのだそうだ。

(一人前なことを言いやがって。誰に食わせてもらってると思ってるんだ)

 こみ上げる苛立ちは、しかし、いつもほどではなかった。そんなことよりも「掲示板」だ。

 昨夜の続きを読む。今夜は、初めて女性らしき書き込みがあった。

「私も仲間に入れて下さい。高校で、ブラスバンド部員ではなかったけれど、私も、いわばゲストで共演したことがあるんです」

「どうぞどうぞ、大歓迎。共演って何だったんですか」

「ピアノだったんです。私、ちょっぴりかじってたものですから」

(おや――?)

 高野の目が、釘づけになった。思わず身を乗り出す。飲んでいたビールの缶を、テーブルに置いた。

 吹奏楽とピアノの組み合わせというのは珍しい。高野が知っているのは、高三の時、彼自身が経験した一回だけだ。

 当時、ブラスバンド部を指導するのは、音大で作曲を専攻した、田丸先生という若い音楽教師だった。部の顧問であり、指揮者でもあった。

 度の強いメガネをかけた痩せぎすで、指揮に熱が入ると、唾を飛ばして声を張り上げる。最前列のクラリネットやフルートの女の子たちを閉口させていたものだ。

 行進曲や野球の応援より、クラシック音楽に熱心で、ロッシーニやウェーバーの序曲を自分で編曲しては、高野たちに演奏させていた。

 その田丸先生が、ショパンのピアノ協奏曲第一番の第一楽章を、吹奏楽用に編曲した。秋の定期演奏会にかけるためだった。コピーした譜面を配りながら、

「精魂込めた自信作だからな。ミスは許さんぞ。いわば、かくいう田丸とショパンとの共作だ」

 と、鼻をぴくぴくさせて自慢していたのをよく覚えている。ホルンの高野には、なかなかの難曲だった。

 ところが、部員には、ピアノを弾ける者がいない。そこで田丸先生は、学内随一のピアノのうまい少女を連れて来た。

 それが、当時、高一の中岡綾乃だった――。

    

 高野は、目を皿のようにして、三人の書き込みを何度も読んだ。

 もちろん、彼女も、素性を明かしていない。ニックネームは「橋姫」だった。

(橋姫……)

 高野の胸が波立った。橋姫――橋姫?

 橋――とは?

 錦帯橋を暗示しているのではないだろうか。いや、きっと、そうに違いない。

(この人は、中岡綾乃ではないのか)

 そんな気がしてならなかった。

 高野は、掲示板に書き込んだ経験がない。利用規約を熟読し、さんざん迷った末に、ニックネームを登録して、勇気をふるって書き込みに参加することにした。

 彼女なのかどうか、確かめずにはいられなかった。思いついた名前は「京男」だった。

「今晩は。京男です。以前、山口県に住んだことがあるから、参加資格がありますよね」

 せいぜい若者を装ったつもりで、そんなふうに割り込んだ。痛快なことに、すぐに三人からの歓迎的なメッセージが表示された。

「橋姫さんは、ブラスバンドとピアノ協奏曲を演奏したんですか。そりゃあ凄いなあ」

 言葉を選んで質問した。けっこう気をつかった。

「ピアノ協奏曲というと、何だろうなあ。誰でも知っている曲ですか」

「いえいえ、若気の至りで、思い出しても顔が赧くなります。ですので、ただいまをもちまして過去を消去致します」

 橋姫は、警戒しているのか、はっきりとは答えてくれなかった。

 高野は、しつこいほどに水を向けてみた。

 度重なる質問に辟易したのか、やがて橋姫は、

「それでは、みなさま、橋姫は、お先に寝所に入らせていただきます。お寝みなさいませ」

 書き込みは打ち切られた。

 高野は焦った。彼女がこの掲示板から離れてしまっては、たった一本の糸が切れてしまう。

「懐かしいなあ。僕も吹奏楽を聴くのは大好きでした。ずいぶん昔だけど、高校の定演に行って、感激したことを思い出しました。吹奏楽なのに、なんとショパンの一番だったんですよ。あれはすばらしかった」

 きっと彼女はこれを読んでくれる。中岡綾乃なら、何か反応がある筈だった。

 一時間待ってみた。新たな書き込みはなかった。今夜はもう無理なようだ。

(さて、明日だ)

 橋姫からのメッセージを期待して、高野は、パソコンを閉じた。

 セーラー服姿の綾乃の笑顔が、瞼の裏にちらついた。

   

 翌日……。

(よし、やった!)

 高野は、快哉を叫んだ。

 案の定、橋姫のレスがついていた。

「昨夜は失礼しました。あの高校の定演でのショパンは、一回だけだったと思うんですけど、その演奏会なら私も知ってます。印象的でしたね」

 印象的……? 意味ありげな言葉だった。

 文字通り、ユニークな演奏が印象的だったということか。それとも、

(あの定演の頃、彼女自身に、印象的な思い出があるというふうにもとれるが……)

 それとなく訊ねても、はぐらかされるばかりだった。

 そのトピックは、ほとんど二人だけで盛り上がるようになった。トピ主の男も呆れたのか、いつの間にか消えてしまった。

「このトピ、あたしたちで乗っ取っちゃいましたね、フフッ」

 橋姫も面白がっていた。

 そのうち、掲示板でなく、メールでやりとりしようということになった。

 高野は、出勤前にパソコンのメールを開き、夜も帰宅すると、ネクタイもほどかぬうちに、メールをチェックするのが楽しみな日課になった。

 橋姫は、

「お帰りなさい。今日一日のお仕事、ご苦労さまでした」

「お疲れさまでした。今夜は全国的に冷え込んでるそうだから、風邪ひかないように気をつけて下さいね」

「ほうら、またお酒飲んで来たでしょう。ほどほどにしないと体に毒ですよ」

 などとメールしてくれる。女房や娘からは決して聞かれなくなった、心に沁みるやさしい言葉だった。

 彼女もそうだが、高野もまた、自分のことはぼかしてメールを続けた。あの高校のブラスバンド部員だったことも言わなかった。

 だが、頻繁にやりとりすればするほど、

(絶対に間違いない。中岡綾乃だ)

 高野は確信した。

 思い出は風化するものだが、高野の場合は違った。年とともに、より鮮明になっていることに驚かされた。

 あれは、高三の夏……。

 高野は、秋の定演に向けての練習に熱心だった。部員みんながそうだった。夏休みにもかかわらず、毎日登校して、午後から夕方まで練習に明け暮れた。部員ではないが、ピアノ担当の中岡綾乃も、もちろん参加してくれた。

 そんなある日――。

 その日は、めったにない練習休みの日だった。それでも高野は登校した。遊びに行く予定もないし、単独で練習するつもりだった。

 ブラスバンドの部室は、校舎から少し離れた、体育館のステージの真下にある。楽器置き場も兼ねていた。いつも通りに、ホルンの準備をした。

 すると、無人だと思っていた真上のステージから、ピアノの音が聞こえてきた。上がってみると、中岡綾乃もまた一人で練習していた。

「せっかく来たんだから、ちょっとだけ弾いて帰ろうと思って」

 綾乃は、頬を染めて言った。笑うと八重歯の可愛い娘だった。休みだと聞いていなかったのだそうだ。その日、ホルンとピアノだけで三時間練習した。

 それがきっかけで、二人は自然と、密かに交際するようになった。

 田丸先生指揮の猛練習が終わると、学校から少し離れた場所で待ち合わせて一緒に帰ったり、こそこそと駅前の映画館に入ったり、錦帯橋でボート遊びもした。

 秘密を共有していることで、二人は急速に親密になった。彼女が提案して用意した、少女趣味の交換日記に、照れながらつき合った時期もある。

 二学期になったある日、錦帯橋のほとりのみやげ物屋の店先で、たまたま見つけた鳥の羽のついたペンに高野が興味を示すと、それを綾乃が買ってプレゼントしてくれた。

 高野はお礼に、見よう見真似で、ピアノ小品を作曲した。まるでロマン派の作曲家気取りだった。

 ほんの一、二分ほどの短い曲である。ピアノなんか弾けないから、ギターで作曲した。朝までかかって作った曲を、もらった羽ペンで五線譜ノートに清書し、考えた末、表紙に「綾乃のために」と標題を書いた。それを翌日の昼休み、彼女に進呈した。

 綾乃は感激してくれた。五線譜ノートを胸に抱えて、音楽室に跳んで行った。窓を開け放った音楽室から、それこそ昼休みが終わるまで、その曲は、繰り返し繰り返し演奏されたものだった。

 やがて、秋の定期演奏会が終わり、高野たち三年は部を引退した。綾乃も通常の高一の毎日に戻った。

 だが、二人のデートは、なおも続いた。

 ある夕暮れ……。

 吉香公園のベンチで、手を繋いで話をしているうちに、高野は、にわかに衝動にかられた。互いに密着させ合っている太腿から、少女のやわらかさとぬくもりが伝わってくる。高野は、性の欲望をかき立てられたのだ。

 いきなり綾乃を抱きすくめ、強引にキスしようとした。手は、セーラー服の胸のふくらみをわしづかみにした。体はほそいが、驚くほどふくよかな乳房だった。

 綾乃はびっくりして、猛烈に抵抗した。高野が豹変するとは、思いも寄らなかったらしい。

 ハッとわれにかえって、高野は謝った。たちまち、突き進む勇気が萎えた。死にたいほど後悔した。

 綾乃は怒るより、むしろ悲しげな表情だった。たった一言、

「ひどいことするのね」

 と、目に涙をにじませ、声をふるわせて抗議した。こんなことするとお母さんに怒られる、とも言った。

 翌日から、顔を合わせにくくなってしまった。高野の大学受験の準備もあり、二人の仲は疎遠になった。そうして、いつの間にか自然消滅した。高野が東京の大学に行ってからは、一度も会っていない――。

    

 橋姫は、どこに住んでいるかさえ明かしてくれなかった。だが、メールを交換するうちに、

「錦帯橋をご存知ですか? 錦帯橋の上で会いましょう」

 という約束ができた。

「三月の第一日曜日、ちょうど商談があって、そちらに行く予定になってるんです」

 格好をつけて、そうメールしたが、そんな用事はない。なにしろ、高野の仕事といえば、頭をぺこぺこ下げて回るだけの苦情処理だ。

 約束の日が近づくにつれて、高野は落ち着かなくなってきた。

 綾乃は、高校を卒業した後はどうしていたのか。ずっとあの町で暮らしていたのか。二つ下だから、三十九になっている。どんな男と一緒になったのか。子供はいるのか。

 あの綾乃に子供がいるなど、想像もつかない。中岡綾乃のイメージは、清純なセーラー服のままなのだ。

 綾乃は、メール相手の「京男」が高野だとは知らない。きっと驚くだろう。錦帯橋の上で顔を合わせれば、初めは高野だとわからないだろうが、一瞬にして、高校時代の純愛感情に引き戻されるに違いない。

 彼女の驚きの表情と、そして大喜びする顔が、目に見えるようだった。

 さて、三月のその日曜日――。

 西日本は大寒波に襲われた。新幹線で京都を発つ時から、三月には珍しく雪がちらついていた。

 広島で在来線に乗り換える。瀬戸内海が雪に烟っていた。

 広島から約一時間で故郷の町に到着した。

 帰郷は、母親が死んだ時以来だから、十五年ぶりだ。父親は、それより十年も前に亡くなっている。

 駅舎を出た。昔ながらのロータリー風景があった。雪は、やむ気配がない。うっすらと積もって、横断歩道が見えなかった。コンビニで、ビニール傘を買った。

(誰か知った人はいないか)

 つい、すれ違う人の顔に目をやった。

 駅前から、あえてタクシーを使わず、錦帯橋行きのバスに乗った。高校には、このバスで通ったものだ。

 発車したバスは、しばらく駅前商店街を走る。映画館の前を通過する時、高野は、食い入るように建物を眺めた。

 ここで、綾乃と二人で洋画を観たのだ。評判の高い大作だったが、どんな内容だったか、まるで記憶にない。

 小暗い座席で、初めて綾乃と手を繋ぎ合った。緊張で喉がカラカラだったことしか覚えていない。綾乃の掌も熱く、じっとりと汗ばんでいた。

 三十分後――。懐かしい錦帯橋に着いた。錦川の流れ以外は、すべてが白くおおいつくされている。

 鵜飼いや花火大会の夜には、大駐車場になる広い川原も、対岸の並木道も、そして美しい錦帯橋も、あらゆるものが水墨画のようだった。

 ひどくなってきた雪の中に、高野は立ちつくした。十五年前の帰郷の時にも、ここには来ていなかった。

 この場所には、彼の「高校時代」が、そのままの姿で残っていた。タイムカプセルを開けたようなものだ。

 川向こうの城山も、ロープウェイも、山頂にある岩国城の天守閣も、白い闇の中に溶けている。下流の丘の上にある高校も、この日は、ぼうっとかすんでいた。

 高野は、岸に立って、錦川を眺めた。この川で、綾乃と二人、並んでボートを漕いだこともある。

 夏の花火大会の夜には、ここで浴衣姿の綾乃とデートした。花柄の浴衣を着て、綾乃は、しきりに恥ずかしがっていた。高野の腕にすがって歩きながら、綾乃は、浴衣の裾ばかり気にしていた。

 風景の何もかもが、甘くせつない記憶に繋がった。

 錦帯橋の上には、誰の姿もない。まだ約束の時間にはなっていなかった。

 錦帯橋は、太鼓橋が五つ連なった形から、

「五橋」

 とも呼ばれる。その真ん中で、高野は待つつもりだった。

 ところが……。

 ここまで来て、ふと勇気が萎えた。有能な企業戦士を装って、最も値段の張るスーツで決めてきたが、果たして似合っているだろうか。借り物みたいに見えはしないか。仕事に情熱を失った、リストラ寸前の中年会社員だと、すぐに看破されはしないだろうか。

 綾乃がどんな暮らしぶりか不明なだけに、不安がつのった。映画の中で二枚目俳優が演じる感動の再会シーンとは、わけが違う。必ずしもスマートにいくとは限らないのだ。

(ぶざまな結果になりはしないか)

 心の中に、にわかに弱気の虫が起きた。

 実際に顔を合わせ、名乗り合う前に、卑怯だが、綾乃の姿をこっそり観察してみたくなった。

 錦帯橋のたもとには、観光土産の店が並んでいる。さすがに今日は観光客もなく、臨時休業している店もあった。

 シャッターをおろした一軒の店に目を凝らした。

(そうだった。この店だ。ここで羽ペンを買ってくれたんだった)

「先に行ってて」

 と高野を押しやり、すぐに錦帯橋の上に追いかけて来て、きれいに包装してもらった細長い箱を、

「はい、どうぞ、プレゼント」

 と差し出した時の、綾乃の赧らんだ顔が、幻のように目の前に浮かんだ。

 その羽ペンも、いつ紛失したものやら見当もつかない。恋の記念として、東京の下宿に持って行ったことだけは記憶している。

 二階にある喫茶店が営業していた。

 昔からある店だが、名前がフランス風に変わっている。高野の高校の頃は、「きねや」だか「とらや」だか、そんな店名で、喫茶店でありながら、お婆ちゃんが定食やうどんを出す店だった。

 高野は、ズボンの裾をはたいた。傘をさしていても、雪が沁みていた。

 古くさい木造で、陰気だった階段も新しくなっている。店のドアを開けた。おそるおそる過去を覗き見る気分だった。

 ブラスバンドの練習帰りに、ここにたむろしては時間の無駄遣いをしていたものだ。ジュース一杯で何時間おしゃべりしていても、気を使わなくてすむ気楽な店だった。

 いくつかのテーブル席の他に、五人ばかりかけられるカウンター席があった。各種の豆のケースや、コーヒーミル、サイフォンが並んでいる。昔は、あのカウンターはなかった。

「いらっしゃいませ」

 店の女性が出してくれた、熱いおしぼりがありがたかった。コーヒーを注文する。

 店内には、二組の客がいた。地元の訛りで声高に話す男たちは、明らかにサボっている営業マンだ。

 もう一組は、東京弁の年の離れた男女で、いかにも不倫旅行のカップルだった。若い女ははしゃいで、カメラを男に向けたり、雪の錦帯橋に向けたりしている。

 この雪だし、

(ひょっとしたら、彼女も、俺と同じことを考えて)

 この店から錦帯橋を眺めようとするのではないか、とも思っていたが、それらしい女客はいなかった。

 錦帯橋に面して、ガラス窓が大きくとってある。

 雪におおわれた錦帯橋は、幻想的で、実に美しかった。高校時代の記憶と、鮮烈な初恋の思い出があるだけに、思い入れが強い。高野は、あたかも名画を鑑賞するかのように、雪の錦帯橋を飽かずに眺めた。

 店内には、さっきからメンデルスゾーンの序曲が流れていた。この曲も、田丸先生の編曲で、定演にかけた曲だ。ホルンの大活躍する曲だった。

 さきほどの女性が、カウンターの中で、自分の趣味に合った曲を、CDで流しているようだ。他には従業員がいないところをみると、この店のオーナーらしい。ブルーのスーツが、よく似合っている。首に同色のスカーフを巻いて、きびきびと立ち働いていた。年は三十くらいだろうが、凛とした表情が若々しく輝いている。

(昔、お婆ちゃんは、あの辺の椅子に座って、よく居眠りしていたものだが……。BGMもなかったし)

 あの店が、こんなにおしゃれなコーヒー・ショップに変貌している。

(二十年以上たっているのに、俺だけは脱皮できていない)

 男として、ちっとも成長していないようで気が滅入った。コーヒーの味が、にわかに苦くなった。

 約束の時間を過ぎた。だが、錦帯橋の上には誰もいない。橋のたもとにも、高野は目を凝らした。向こう岸にも、真白くなった川原にも、それらしい人の姿はなかった。

(せっかくの日曜日をつぶして、俺は、何をガキみたいに、バカなことを――)

 自嘲した。みごとに、すっぽかされたのだ。

 中岡綾乃が約束を破ったとは考えにくかった。高野の知っている綾乃は、そんな軽薄でいいかげんな女ではない。

 結局、「橋姫」は、彼女ではなかったということだ。

(あるいは……)

 本当に「橋姫」が女だったのかどうか、それすら疑わしくなってきた。男が女を装って掲示板に投稿するなど、ネットの世界では、よくあることだと聞いている。

 しばらくして、不倫カップルが出て行った。聞き耳を立てていたわけではないが、早々とホテルに引き上げるのだそうだ。

 そのテーブルを片づけた女性オーナーが、

「ここでお待ち合わせですか」

 と、訊いてきた。高野のそわそわした態度で察したのだろう。

「はい。でも、この雪ですから――。来ないかも知れません」

 また錦帯橋に目をやって、高野は言った。

「やみそうもないですね。三月に入って、こんなに積もるのは珍しいんですよ」

「そうですか。……そうでしょうね」

 高野は、半ば諦めかけていた。

 ふと、BGMが変わったのに気づいた。いつの間にか、メンデルスゾーンの序曲が終わって、哀愁を帯びたピアノ協奏曲が流れた。

 なんという偶然か。ショパンの一番だった。今の高野の心境に、最もふさわしい曲だった。

(今日は、錦帯橋を眺めながらこの曲を聴くために、わざわざ京都から、雪の中をここまで来たのだ)

 そう思うしかなかった。それでもよかった。もう「橋姫」は現れないに決まっている。結局、高野の一人相撲だったのだ。

(よし。この曲が終わったら、きっぱり諦めよう)

 目を閉じた。終止符を打つつもりで、全身で曲を聴く気になった。

 ショパンの美しいメロディが、肌に沁みるようだった。あの夏の日の恋が、瞼の裏に、あざやかに甦った。

(そうだった。あの川向こうの、吉香公園のベンチだった。そろそろ日が暮れかけていて……)

 肩をくっつけ合って座った綾乃の、髪の甘い匂いが思い出された。密着させ合った太腿のぬくもりと弾力も、昨日のことのように感じられる。

(ひどいことするのね)

 抗議する悲しげな顔が、同時にまた浮かんできた。

 高野の掌は、胸のふくらみのやわらかさと太腿の肉づきを、今でも鮮明に記憶している。

 しばらくして、ピアノ協奏曲が終わった。

 未練がましく錦帯橋を見る。さっきと同じ、白い風景でしかなかった。

(彼女はもう来ない)

 高野は、意を決して、ついに腰を上げた。

    

 ――夜の新幹線で京都に戻った。外で味気ない食事をすませ、自宅に戻ったのは遅い時間だった。

 女房も娘も、もう部屋にこもっていた。風呂だけは用意してくれていた。

 一家の主が日曜日に、朝からどこに出かけていたのか、さして関心がないようだ。

 風呂から上がると、にわかに旅行疲れが出た。いつものように缶ビールを開ける。苦いだけの、泡だらけのビールだった。

 書斎に入り、パソコンを開く。

(えっ?)

 意外にも、「橋姫」からメールが届いていた。

 メールの文面は衝撃的だった。高野は、驚きのあまり、缶ビールを取り落とすところだった。

「二十三年ぶりの再会でしたね。高野さん、ずいぶんお変わりになっておられましたけど、声は、高校の頃のままでしたね。お元気そうで、本当によかった」

 では、「橋姫」は、やはり中岡綾乃だったのだ。胸の鼓動が高まった。

 だが……。

 どこで高野と会い、声を聞いたというのか。高野は混乱した。

 やがて、アッと思い当たった。

(あの二階の喫茶店! あの女性オーナーだ! あの人が、中岡綾乃だったのだ)

 メールは長文だった。綾乃は、広島の短大を卒業後、市内の人と結婚したそうだ。そして、古かったあの喫茶店を買い取った。夫は勤め人で、喫茶店は、綾乃一人が運営しているのだった。

 中学一年と小学校五年の娘がいるという。二人ともピアノが好きだというから、やはり遺伝子なのだろう。

(そうか……。あの人が綾乃だったんだ)

 あまりの迂闊さに、頭を殴りつけたい気持ちだった。

 指定された日に、約束の場所で、高野は、ちゃんと中岡綾乃と再会を果たしていたのだ。

 綾乃は、

「お待ち合わせですか」

 と声をかけ、思い出深いショパンのピアノ協奏曲を店内に流してくれた。あれは、それとなくメッセージを送ってきていたのではないか。決して偶然ではなかったのだ。

(そうだ。今にして思えば……)

 喫茶店で仕事をするのに、スーツやスカーフは、いかにも不似合いだった。綾乃は、約束通り、高野に会いに出かけるつもりでいたのだ。

 そこへ、なんと高野が入って来た。

 その客が高野だとは、すぐにはわからなかった。だが、横顔を見つめていて、ハッと思ったのだそうだ。

 高野は、しかし、あの喫茶店の女性オーナーの顔が思い出せなかった。まさか、そんなこととは思いもしないから、しっかり見ていなかった。

(八重歯はあったろうか)

 いや、気がつかなかった。

(そうそう。どことなく、ふくよかで――)

 理知的で、上品な印象だったことだけは覚えている。綾乃も三十九歳だ。だが、もっと若く見えていたような気がする。

 二人も娘がいるというが、生活臭が感じられなかった。きっと幸福で、穏やかな家庭を築いているのだろう。内外ともに波乱含みの高野とは大違いだ。

 ご主人の誠実さと、二人の娘のやさしさや素直さが、容易に想像できた。

 毎夜のようにメールを交換しながら、綾乃のほうでも、「京男」は、

(ひょっとしたら、あの高野さんでは……)

 と思い始めたのだそうだ。

 いったんは会おうという気になったものの、高野と同じく、その時間が近づくにつれて気が弱くなった。外出用のブルーのスーツに着替えながらも、店に二組の客もあって決断をつけかねていた。

 高校時代の純情な交際は、綾乃にとっても忘れることのできない初恋だった。清純だった思い出のほうを大事にするべきではないか。中年になった現在のお互いを、知らないほうがいいのではないか。

 ほとんど一瞬の懐かしさよりも、綾乃は、永遠の美しい記憶のほうを選んだ。

(やはり、会うまい)

 店の窓から、遠目に眺めるだけにしよう――。そう決めたそうだ。

 だから、あの雪の中、ふらりと入って来て、熱いコーヒーを注文した客が高野だとわかった時、綾乃は動揺を抑えきれなかった。

(あたしの存在を伝えてみたい。今、あなたの目の前に、あたしがいるのよ――と、気づいて欲しいような、欲しくないような)

 そのあらわれが、ショパンのピアノ協奏曲だった。

(綾乃のために)のピアノ曲を覚えてますか、と綾乃はメールに書いていた。羽ペンでていねいに清書された楽譜は、今でも大切にしまってあるそうだ。

「あのピアノ小品は、あたしだけの尊い宝物です。だから、夫にも娘たちにも秘密にしています」

 ともメールにはあった。

「メールは、これが最後です。「橋姫」のニックネームもメールアドレスも、今夜限りで捨てます。短かったけど、あの夏の日の高野さんとの純愛を、あたしは決して忘れません。あなたのおかげで、あたしの一生は、とてもすてきなものになりました。ありがとう、高野さん」

 それが綾乃からの最後のメッセージだった。

(待ってくれ! 綾乃さん、待って――)

 来週の日曜日、いや明日にでも、もう一度行って――と思わぬでもなかったが、すぐに未練を撤回した。のこのこと行けば、綾乃を失望させるだけだ。美しく清冽な初恋の記憶を、ぶち壊しにしてしまう。

(そうだ。これでよかったんだ。名乗り合わなくて、よかったんだ)

 中岡綾乃のセーラー服のイメージだけを、心の中に抱いていくほうがいい。

 女房にも、島田真知子にも内密の、甘酸っぱい宝物だった。

 二十三年ぶりの中岡綾乃の顔は思い出せないが、性格は少しも変わっていないようだ。昔のままの綾乃と知って、嬉しくなった。なにやら、ほのぼのとした思いだ。

(俺は、高三の夏、こんな第一級の女性に愛されていたんだ)

 ドロドロした現実に、一服の清涼剤だ。清々しい気持ちになれた。

 急に、ビールの味がうまくなった。

 島田真知子との不倫関係も、近いうちに、こじれることなく解消できそうな予感がしてきた。

 最後のメールを送ることにした。

「これからショパンの協奏曲を聴くたびに、あの夏の、あなたとの恋を楽しく、嬉しく、幸福に思い出せます。どんな姓に変わっていようとも、あなたは、僕にとっては中岡綾乃さんです。綾乃さん、本当にありがとう」

 歯の浮くような台詞だが、抵抗なく、ごく自然に書けた。

 これを綾乃が読んで、どう思おうと、高野にはどうでもよかった。

 送信する。これで「京男」も消滅させるつもりだった。

 パソコンを閉じても、寝るのがもったいなかった。

 明日からの仕事のことは、今夜は考えたくなかった。もうしばらく、きれいな思い出の中に、疲れた体を浮遊させていたい。

 目をつぶった。雪におおわれた、水墨画のような錦帯橋が瞼に浮かんだ。しんしんとして、川の音さえない静寂だった。

 それに……。

 顔のあたりは、ぼうっとかすんでいるが、涼やかなブルーのスーツの気品ある女性――。

 その姿が、一秒ごとに、過去に引き戻されていき、セーラー服を着た高校一年の中岡綾乃と、少しずつ重なっていった。

 やがて、制服のスカートの裾を風にひるがえし、錦帯橋の上で、高野にあどけない笑顔を向ける綾乃になった。懐かしい八重歯も確かにあった。

 掌に、またしても胸のふくらみのやわらかさが甦った。

(あんなに小柄で、ほそい体だったのにな)

 今まさに、綾乃の乳房を愛撫している――そんな感覚だった。

 二度と会うまいと決めたからこそ、死ぬまで、この純愛は終わらないのだ。生涯をかけて色褪せることのない恋愛など、現実の世ではあり得ない。

 きわめて貴重な恋の記憶を、高野は、しっかりと手に入れたのだ。

 ――その後、高野は、何度か同じ掲示板を開いてみた。

 だが、「橋姫」の名はもちろん、彼女らしい書き込みを発見することはなかった。

        

        (終)


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