エピローグ
この椅子は座り心地が悪い、と紫苑は自分が掛けた玉座を見下ろす。黒檀と金で彩られた豪奢な椅子。父のものだった椅子は、彼の死により紫苑のものになった。
「いよいよ、花嫁を迎える季節ですな」
官吏の声に、紫苑は瞳をあげた。緑がかった黒の瞳で見つめると、彼は気圧されたように身を引く。官僚たちの態度はふた通りだ。紫苑を遠ざけ影で非難するか、表面的に愛想よく接するか。
そのどちらでもない蓮宿は、紫苑の隣に控えている。 いつも胃を痛めている彼だが、今日はとりわけ眉間のシワが深い。もうすぐ花嫁を迎えるから緊張しているのだ。
白姫が後宮に入って一日たち、会議の議題は花嫁のことでもちきりだった。自分のことなのに、紫苑はなぜか人ごとのように感じていた。
蓮宿のほうがきっと花嫁のことを気にしている。有力貴族との縁結び。それが紫苑に期待されているもっとも大きな仕事だ。それがうまく行けば、紫苑の評価は高くなる──らしい。
「なにか意見がありますか、朱里さま」
官吏たちの一番端にいた頭巾の男が、
「いんや、ごぜえません。明後日、満月の日にあんじょうようしてください」
やけに訛った口調で言い、深々と頭をさげる。
「では予定通り、明後日に玲紀桜を渡すということで」
間近で聞こえる蓮宿の声を、紫苑はぼんやりしながら聞いていた。
「陛下」
蓮宿と二人、広間から出て廊下を歩いていると、占星術師の朱里が声をかけてきた。
「どうした、朱里」
「今日、花見に行くといいでよ」
彼は訛りつつも、のんびりとした口調で言う。
「そうすっと、うんめーの人に出会えるかもよう」
「うんめーのひと?」
蓮宿が口を挟む。
「陛下の運命の人は白姫さまでは?」
「いんや、白姫さまはうんめーの人でねえ。んでも、はだ白くて細っこくて、でんらかわええおなごしだわ」
「後半何言ってるかわからないんですが」
眉をしかめる蓮宿をよそに、紫苑は思わず尋ねる。
「うんめーの人とは、なんなんだ?」
「陛下の人生を変えるおなごしだ。ただ、白姫さまほどかわいくねえ」
「ふむ」
紫苑は蓮宿を見た。すると、ますます眉間のシワが濃くなる。
「まさか、花見に行きたいとか言い出しませんよね?」
「だめか」
蓮宿がぴしりと告げた。
「だめです。朱里、あなたも妙なことを吹き込まないでください」
「おみゃーさんは頭固くて愛想ないから婚期が遅いわ」
「ひとの婚期を勝手に占うな」
★
船が水面をゆくと、かすかに揺れが伝わってくる。紫苑は御簾越しに桜を眺めていた。陽光の下はらはらと散る、薄紅色の桜。直接拝んでみたくなって御簾を上げようとしたら、向かいに座る蓮宿から鋭い声が飛んできた。
「陛下、御簾は上げないよう兵に言い含められたでしょう。控えてください」
「いいではないか、少しだけ」
「だめです。兵を置いてくる条件が、「けして御簾を上げないこと」なのですから」
御簾は矢羽で紫苑を狙う刺客避け、らしい。今更自分を狙う人間がいるだろうか。王宮を離れた先王の側室、力ある豪族たち。殺すほどの価値が、果たして自分にあるのだろうか。もう少ししたら、紫苑はよく知らぬ娘と結婚する。
別に花見がしたいわけではなかった。ただ、王宮の外に出たかったのだ。
参っているのだろうか、自分は。
「おまえは花見の席でも眉間にしわだな」
補佐官に言うと、私はこういう顔なのです、とかえってきた。むっつりとしている蓮宿に肩をすくめ、紫苑は再び御簾の向こうに目をやる。
ふと、土手にいる人影が、こちらを見ているような気がした。顔は見えないが、ほっそりとした少女のようだ。
紫苑は御簾をのけ、そっと手を出した。すると、その少女も手を伸ばしてくる。
──あ。
一瞬手が触れ合うような気がしたが、届くはずもなく、掌には少女の指先ではなく、何かが落ちた感触がする。そのまま手を引くと、桜の花びらが乗っていた。
「……」
じっと花びらを見つめる紫苑に、蓮宿が陛下? と声をかけてくる。
「蓮宿、おまえは桜の花が好きか?」
「ええ、まあ……人並みには」
「私はあまり、好きではないんだ。なんとなく不気味だろう? 一斉に咲いて、散るところとか」
「しかし、陛下が花見に来たいとおしゃったのではないですか」
「うん、こういうところで見ると、特別きれいなのだろうか、と思ってな」
結局、さくらはよく見えなかった。だが──岸辺からこちらへ手を伸ばした、あの少女。
「あの娘には、もう一度会うような気がするな」
顔もわからなかった少女を思って、紫苑は花びらをふっと吹いた。
さくらの花嫁/end




