陛下には脱走癖があります。
玉葉が流水殿を出ると、ちょうど訪問者らしき男と鉢合わせた。がっしりした体つき、豪族の男性特有のあご髭。大らかそうな表情の、立派な男性。彼はちらりと玉葉を見て、微笑んだ。
玉葉も頭を下げる。
「陛下のお見舞いかな?」
声をかけられるとは思っていなかったので、驚く。男性の視線は、玉葉の抱えている包みに向かっていた。
「はい、滋養があるものを、と思って」
「ご様子はどうだったかね、だいぶよくなっていた?」
「ええ、まだ肩が痛むようでしたが」
「君の料理を食べればきっと良くなるだろう──ええと、料理人の?」
「桜玉葉です」
名前を告げた瞬間、男性の瞳が、観察するように素早く玉葉の姿をなぞった。そうして、鷹揚な笑みを浮かべる。
「忠義な料理人をもって、陛下も幸せなことだ」
そのまま、清風殿の階段を登って行った。
今のは誰だろう。そう思いながら、玲紀桜の方へ歩き出した。
ふと、荘園の東屋に白姫がいるのに気づく。むすっとした顔でひじをついて、お団子を食べていた。玉葉がそちらに向かうと、じろ、と睨みつけてくる。
「こんにちは、白姫様」
玉葉が頭を下げると、ふん、と鼻を鳴らす。
「……蛍雪ったら余計なことをしてくれたわ。おかげで花嫁になる計画が台無しよ」
「姫さまは、蛍雪さんが何者くか知ってらしたんですか」
「知らないわよ。父さまが連れてきたんだもの。あの女、私にまで眠り薬を盛るなんて」
白姫はき、とこちらを睨みつけた。
「全部あなたのせい。あなたさえいなければ、うまくいったのよ」
「そんなことより」
「そんなことですって!?」
「蛍雪さんの話を聞いてあげてください。あなたのために、罪を犯したんだから」
白姫は眉をしかめ、
「……わかってるわ。取り調べが終わったら、たっぷり説教してやるんだから」
そっぽを向いた彼女に、玉葉は苦笑した。
☆
「ああ、おいたわしい。お怪我は痛みますか、陛下」
「いや、大丈夫だ」
紫苑は目の前の男、藤英進をじっと見た。確かに「いたわしそうな顔」をしている。だが、玉葉のように、本当に自分を心配しているわけではない。それがわかるくらいには、豪族や家臣の白い目にさらされてきた。
「まさか、蛍雪があのようなことを……信じがたい。処罰はいかようにもなさってください」
その言いように、蓮宿が眉をしかめた。紫苑はくすりと笑い、
「宮中にいると、頭のいい人間にたくさん会う」
「はい?」
「そういう人間は、私には関わろうとしない。高官はみな、難関の国試を突破した賢いものばかりだ。私の母がしたことや、先王の私に対する態度。王としての資質――もろもろの問題を持つ私が即位したとき、補佐官になりたがる男はいなかった。あそこにいる、蓮宿以外は」
そこで言葉を切り、
「私にとって蓮宿は、替えのきかない存在。だがあなたにとって蛍雪はそうではないようだ」
ふっと、英進の笑みが消えた。
「……なにがおっしゃりたいので?」
「蛍雪の行為は許されるものではない。しかし彼女が罰せられるなら、あなたにも責はあるのではないか?」
英進は驚いたように首を振った。
「陛下、蛍雪は勝手に凶行に及んだのです」
「あなたが彼女の素性を知らなかったとは思えない。前々から、蛍雪は私に恨みを持っていたはずだ。そんな彼女を宮中に来させた──たとえ逆心ありと言われても、文句は言えないのではないか」
栄進はじ、とこちらを見て微笑んだ。
「ハハハ、随分とおしゃべりになられましたな、陛下。こないだまで、私の前ではほとんど口を開かなかったのに」
「私はあなたが怖かったんだ。父に少し似ているから」
「それは光栄ですな」
今も少し怖い。だが。刃物を持った蛍雪へ、突っ込んでいった玉葉を思い出す。眉間に皺を寄せ、英進を睨んでいる蓮宿を見る。
大丈夫だ、と言い聞かせる。自分には、信頼できる人間が二人もいる。怖がることなどなにもない。一人ではないのだ。お互いを守り、守られる。そうして、強くなるのだ。
絡み合い補強しあう、組紐のように。紫苑は豪族の長を見据えた。
「蛍雪の身柄はそちらに引き渡す。白姫と共に屋敷へ帰ってくれないか」
英進は目を細めながら、
「なるほど、わだかまりなく婚姻解消するかわりにこちらの責を問わないと……」
「ああ」
栄進は膝を叩き、豪快にあははは、と笑った。しかし、こちらを見る眼は笑っていない。
「さすが、藍妃のご子息ですな。人を不快にさせるのが上手い」
やっと本音らしきものが聞けた。不快さより、すっきりした気持ちのほうが勝る。
「無礼ですよ」
蓮宿が声を鋭くする。
「褒めているのです。前は怯えた子犬のようだったが、多少成長されたようだ」
そう言って英進は立ち上がる。冷たい目でこちらを見下ろし、
「是非狼になって国を守っていただきたい」
「期待に沿えるかはわからぬが、頑張る」
「では失礼します。ああ、蓮宿殿」
「なにか?」
「よい胃薬を見つけたので今度お送りします。では」
出て行った栄進を見て、蓮宿が苦い顔をした。
「まったく、あの男といると胃痛どころではないですね」
押さえているのは心臓部分だ。
「しかし、意外にあっさり退いたな」
「だといいですがね」
ため息をついた蓮宿が立ち上がる。
「どうした」
「胃薬を飲んできます。いいですか、安静にしていてくださいよ」
「わかっている。だし巻き卵もあるしな」
そう言って卵を食む紫苑を見て、蓮宿は少し口元を緩めた。
「お、蓮宿が笑うのは珍しいな。おまえは男前なのだから、そうやって朗らかに笑っていたら、嫁の来手もあるだろうに」
かわいい嫁をもらったら胃痛も治るかもしれんぞ。そう言ったら、眉間に皺が寄る。
「余計な御世話です」
彼は朱里に言われたことを気にしているのだ。
蓮宿が出て行き、パタンと戸が閉まるのを見て、紫苑はだし巻き卵を食べるのをやめた。小物入れから、誠志君からもらった組紐を取り出す。それをそっと撫で、懐にしまい込んだ。
「すぐ戻る。心配するな」
そう書き付けた紙を寝台に落とし、窓からひらりと外に出る。戸の向こうから、蓮宿のため息が聞こえた気がした。




