死んだら花実が咲きません。
夢を見ている。昔の夢だ。父が死ぬ夢。
死の間際、父は紫苑をそばに呼んだ。そして、こう言ったのだ。お前の目は、母親にそっくりだ。気味が悪い、と。
「私はそなたの目が嫌いだ。その目から解放されるかと思うとすっとする」
だからずっと、自分の瞳が嫌いだった。母に似た瞳が。
朱里が言っていた。この世には、無間地獄というものがある。罪科により、一生罰を受け続ける。たとえ死んでも、生まれ変わっても、その科は消えない。それが、呪われた瞳の色。
母も自分も、許されない。それでいいのだと思っていた。それだけのことをしたのだから、償うべきなのだと。緑がかった黒の瞳。これは罪科なのだと。弟たちの命、誠志君の命。失われたものはあまりに大きく、重い。
死んだとしても、逃れられない罪。自分の子も、それを背負うのか。自分が愛した女も──。ならば一人で、生きようと思った。
へいか、と誰かが呼んだ気がした。
紫苑はゆっくり目を開いた。視界がぼやけている。そこに、見慣れた男が映り込んだ。
「陛下」
「蓮宿」
いつも以上に眉間に皺が寄っている蓮宿の顔が、真っ青になっていた。また胃が痛いのだろうか。
「大丈夫か? 顔が青いぞ」
紫苑の言葉に、がくりと脱力する。しびれを切らしたように叫んだ。
「〜っそれはこちらの台詞です! なぜ護衛を呼ばなかったのですか!」
「刺客の狙いを知りたかったんだ……」
身じろぎすると肩に痛みが走り、紫苑は眉をしかめた。ふ、と蓮宿の眉が寄った。
「痛むのですか?」
「ああ……少しな。だが傷は浅い」
起き上がろうとした紫苑を、蓮宿が寝台へ押しもどす。その拍子に傷口が痛み、紫苑はうう、と呻いた。
「乱暴だぞ。けが人なのだから、丁重にしてくれ」
「なにをしれっと起きようとしてるんですか。どこにも行かせませんよ」
「玉葉の様子を見に行かなければ……刺客は玉葉に、毒殺の罪を被せようとしたんだ」
「うどん嬢に?」
なんとも緊張感が削がれる呼び方である。
「ああ。いったい何のつもりかはわからないが、玉葉にはけして手出しさせない」
「わかりました。うどん嬢には兵をつけますから、陛下は寝ていてください」
蓮宿はそう言って立ち上がる。と、戸を叩く音が響いた。兵が部屋に入ってきて、頭を下げた。
「失礼します。刺客と思わしき男を捕らえました」
「なに? 素性は?」
「料理長の星飛雄です」
紫苑は肩を揺らした。
「食糧庫に黒装束を隠していました。今取り調べを受けています」
蓮宿がこちらを振り向く。
「だそうですが……」
「そうか」
呟いて、目を閉じる。
「けして、手荒な真似はするな。玉葉の上役なのだ」
「しかし」
さえぎるように、手をあげる。
「少し眠りたい。一人にしてくれ」
しばらくして、蓮宿と兵が静かに出て行った気配がした。一人部屋に残された紫苑は、ゆっくり目を開いた。起き上がると、少し肩が痛む。
「すぐ戻る。心配するな」そう書いた紙を寝台に落とし、剣を掴んだ紫苑は、窓からひらりと外に出た。
☆
桜の花びらが、舞っている。玉葉はゆっくり目を開いた。白い花びらが、次から次へと降ってくる。頭上に広がる枝葉に、白く光る桜が咲いていた。幻想的な雰囲気に、瞳が吸い寄せられた。これが、れいきの、桜?
「不思議ですね」
優しい声に視線を向けると、傍に佇んでいた蛍雪が微笑んだ。本当に、はかない雪のように美しいひとだ。
「枯れない桜。永遠に咲き続ける花……。美しいけれど、少し不気味だわ」
「蛍雪、さん?」
なんなんだ、これは。夢?
「あなたに恨みはないのだけど」
蛍雪は、懐から取り出した小刀をすらり、と抜く。玉葉は身動きを取ろうとして、木の幹に縛り付けられていることに気づいた。食い込んだ縄に痛みを感じる。夢ではない。これは、現実だ。
「あなたはとてもいい子。だけど――姫さまにとっては邪魔な存在」
蛍雪は極めて優しい口調で言う。光る刃を見ながら、玉葉は唇を震わせた。
「まさか……陛下を襲ったのは、あなたなんですか」
「ええ。正しくは、あなたに毒殺の罪を着せるため、かしら。だけど失敗してしまったから……」
喉もとに、刃が突きつけられた。それを見下ろしながらつぶやく。
「どうしてですか」
「あなたは偽りの花嫁。残念だけど、散るしかないの」
蛍雪の瞳にためらいの色はない。本当に殺すつもりなのだ──玉葉は喉を震わせた。
「待て」
ざ、と響いた足音に、蛍雪が瞳を向けた。闇に溶けそうな漆黒の髪、緑がかった黒の瞳。
「へ……陛下」
紫苑の襟元から覗いている包帯を見て、玉葉はハッとする。蛍雪が柔らかい声音で言った。
「よくここがわかりましたね」
ひらりひらりと舞い落ちる花びらを見ながら、紫苑は呟く。
「玉葉と私をつなぐものは、この花しかない。玉葉を狙うのは百姫だろうともな」
「白姫、ですよ。いいえ、姫さまはこのことをご存じではありません。あの方は腹芸などできないお方」
「そのかわり君が暗躍すると、そういうわけか」
蛍雪はふ、と笑い、
「陛下、私のことを覚えてらっしゃいませんか」
「……どこかで会ったか、人の顔を覚えるのは苦手でな」
雪姫はうやうやしく礼をした。
「一度だけ。あなたの母親に殺された、誠志君の婚約者、雪姫でございます。今はしがない侍女をしていますが」
紫苑は目を見開いた。
「な……」
「やはり、お忘れなのですね。あなたは王。私程度の女など、覚えてらっしゃるわけもない」
蛍雪が刃に込める力を強くすると、玉葉の喉に、赤い線がすうっと走った。
「やめろ!」
そう叫んだ紫苑に、蛍雪は冷たく告げる。
「あなたのせいでまた人が死ぬ」
紫苑の顔がさあっと蒼白になっていく。美しい瞳が絶望を感じて、光を見失う。――だめ、そんな顔しないで。負けちゃだめ。
「ふざけないで。私は死なない。ぜったい死なない!」
玉葉は声を振り絞り、叫んだ。
「一年間、紫苑の花嫁になるって、約束したんだから! 死んだりなんかしない!」
「玉葉……」
紫苑の瞳に、光が戻る。それを見て、蛍雪がふ、と表情をなくした。
「その約束は、果たされません。さようなら、偽の花嫁」
刃がひかれそうになった、その時。
玲紀桜の花が輝き始めた。目を焼くほどのまばゆい光に、玉葉は目をぎゅ、とつむる。
まるで意思を持つかのごとく、ざざざ、と降ってきた桜の花びらが、玉葉を縛り付けていた縄を切り裂いた。解放された玉葉は、そのまま地面に突っ伏する。
「っぎゃ!」
「玉葉!」
地面に倒れた玉葉に駆け寄った紫苑が、蛍雪に刀を突きつける。しかし、彼女はこちらではなく、桜を見上げていた。細い指先が、すうっと花びらを追うように動く。白い頬を、涙が流れ落ちていった。
「私も……誠志君の花嫁になりたかった」
蛍雪が、自分の首筋に剣を向けた、そのとき。
「どりゃあああああああああ!」
玉葉は蛍雪に突進し、頭突きをした。
「!?」
蛍雪は額を押さえ、悶絶する。
「う、うう……」
額を赤くした玉葉が、痛みにもめげず、蛍雪に向かって叫んだ。
「死んでどうするんですか! 死んだらねえ、もう美味しいもの食べられないんですよ!?」
「あなた……食べ物のことしか頭にないのね……」
呆れた声を出した雪姫が、小声で続けた。
「なんにしろ、私は死罪だわ」
「冬姫」
紫苑が蛍雪に近づき、跪いた。そのまま、頭を垂れる。
「すまなかった」
「……雪姫です」
王が頭をさげるなんて。蛍雪はそう呟き、目を閉じた。
白い桜の花びらが、雪のように舞っていた。