危険なにおいがします。
玉葉は弁当箱を持って、流水殿に向かって歩いていた。風でふわりと桜が舞い、室内へあがる階段に溜まっている。中に入り、見張りの兵に頭を下げて執務室を覗いてみると、紫苑が政務を行っていた。
ふ、とこちらに向いた、緑がかった黒い瞳が見開かれた。
「玉葉」
「陛下、おはようございます」
「おはよう。どうかしたか」
手招かれ、近寄っていく。いざ渡すとなると、なぜか恥ずかしくなってくる。
──本当のお嫁さんみたいだね。星の言葉が頭をよぎって、頬が熱くなった。もじもじしている玉葉を、紫苑は不思議そうに見上げる。
「玉葉?」
──ええい、もじもじしていてどうするんだ。陛下は忙しいんだから。後ろ手にしていた弁当を、さっと差し出す。
「あの、これ」
「弁当?」
「はい、お昼に食べてください、あっ、ちょっ」
「今食べたい」
紫苑は止める間もなく弁当箱の蓋を開ける。弁当箱の中身を見て、その頰がほころんだ。
「美味そうだ」
「政務はいいんですか、陛下」
「よくない。早く食べないと蓮宿に怒られる」
いそいそ長椅子に移動して、弁当を食べ始めた紫苑のそばに座り、玉葉は茶を注ぐ。
「はい、陛下」
「ありがとう」
手がふれあい、慌てて引いたら、紫苑がふ、と笑った。
「今日は休みではないのか?」
「そうなんですが、白姫さまとお花見の約束をしまして」
「そうなのか」
紫苑が肩を落とした。
「どうかしましたか?」
「てっきり、私に会いに出てきてくれたのかと思った」
「……っち、違いますよ!」
玉葉は真っ赤になる。
「陛下に会おうなんて、これっっぽっちも思ってませんでした!」
「え、そうか……」
がっかりした様子で眉を下げ、紫苑はうつむく。そうして、ちまちま弁当をつまむ。
あ、言いすぎた。良心がずき、と痛む。
「し、白姫との御婚姻、うまくいくといいですね」
「……トドメを刺してくるとは、君は私が嫌いなのか?」
「へ?」
紫苑はかちゃ、と箸を置き、
「白姫とは、結婚しない」
「な、なんでですか」
慌てる玉葉を見つめ、紫苑が微笑む。
「私にはもう、花嫁がいるから」
「……っ」
どくん、と鼓動がなる。ばくばく、と響きだす。どうしよう。心臓が痛い。私はただの──
「うどんですよ!?」
「は?」
「陛下は黒曜石で、私はうどん! たとえばその二つが市場で並んでたらおかしいでしょう! お客もびっくりですよ!」
紫苑はきょとんとしている。
「何の話だ?」
「だから……っ」
「私はうどんが好きだ」
緑の滲んだ黒い瞳が、こちらを見つめる。そのまま、破顔した。
「大好きだ」
心臓が壊れてしまう。もう、だめだ。顔が熱くなる。唇が震える。抑えていた気持ちが、あふれそうになる。
「わ、たし」
口を開きかけた瞬間。紫苑の瞳がふい、と窓に向かった。その目が厳しいものに変わる。初めて見る表情に、玉葉は恐る恐る声をかけた。
「へい、か?」
「玉葉、今日はもう後宮に帰れ」
「え? でも」
「いいから。弁当、美味しかった。ありがとう」
やんわり部屋から締め出され、玉葉は目を瞬く。
「急になんだろ」
帰れと言われたが、蛍雪たちとの約束がある。せめてお弁当だけ渡そうか。そう思い、荘園にある東屋へ向かった。
★
玉葉が部屋から出て行き、紫苑一人だけになった。食べかけの弁当をそっと包み直し、口を開く。
「そこに、いるのだろう」
窓の向こう、現れた黒装束の人物が、剣を引き抜く。窓枠を飛び越え、紫苑に剣先を突きつけた。
「誰の手の者だ?」
黒装束は、それには答えない。かわりに、懐から出した瓶を投げた。紫苑は瓶を受け止め、蓋を開けた。くん、と匂いを嗅ぐ。無臭だが、おそらくは──
「何かの毒か」
目の前には食べかけの玉葉の弁当。これを飲んだら、玉葉が毒を盛ったかのように見えるだろう。
「これは飲めない。私を殺したいなら、その立派な剣で刺せ」
だが、黒装束は剣を動かそうとしない。狙いは紫苑を殺すことではなく、玉葉か。
すまん、玉葉。心の中で言い、弁当箱を掴み、黒装束に投げつける。
「!」
ひるんだ黒装束に、腰から引き抜いた剣を突きつけた。
「離宮に住んでいた時、暇でよく剣の練習をしていた。抜刀、振り、脚さばき、相手の注意をそらす方法……まさか役に立つとは思わなかったがな」
黒装束の剣を払い落とし、ぴっ、と布を裂いた。あらわになった首筋に、刃を突きつける。
「言え。おまえは何者だ? 誰の手のものだ」
黒装束は答えない。
「言わぬと首が飛ぶぞ」
実際に人を傷つけたことはない。だが、いざという時は剣を振る必要があるだろう。玉葉に、手だしはさせない。
剣を引こうとしたその時、失礼します、という声と共に、部屋に蓮宿が入ってくる。紫苑は身体を強張らせた。
「失礼します陛下、この書類についてですが──」
「来るな蓮宿!」
紫苑の注意がそれた瞬間、黒装束が素早くかがんだ。刀を拾い上げ、振り上げる。
「陛下!」
蓮宿の悲鳴と、どす、という鈍い音が、部屋に響いた。